☭19」─3─日本人海賊によるロシア船襲撃虐殺事件。大輝丸事件。1922年(大正11年)。~No.59No.60No.61 ⑮ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2022年9月4日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「ロシア船に乗り込み「船長以下11人をみな殺し」した日本人“海賊”とソビエトパルチザンの虐殺事件
 「海賊」といえば、いまもアフリカ・ソマリア沖などに時折現れているが、武装した日本人集団が外国まで出かけて外国船を襲撃。物資を奪ったうえ、乗組員を殺害するという前代未聞の出来事がいまからちょうど100年前に起きていたことを知る人は少ないだろう。
 【画像】札幌で撮影された「海賊団」。前列右側が首領、その左斜め後ろが彼の妻
 背景にはロシア革命とそれに干渉した日本のシベリア出兵、その中で起こった「尼港(ニコラエフスク)事件」という国際問題があった。
 それにしても気になるのは、主犯の男らが一部で「憂国の志士」として英雄扱いされたこと。それには当時のメディアの報道ぶりが関係している。海賊は論外だが、いま、もし国際紛争が起きたら、メディアはどのように報道し、世論はどうなるだろうか。そう考えると、現在にも通じる問題だといえる。
 今回も文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。新聞記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。
 仲間割れして自首しようかと…
「海賊事件」で特ダネとなった東京日日の記事
 〈さる9月15日の夕暮れのこと。(東京・)芝浦沖合に、どこからどうして来たのか、一艘の漁船が係留されていた。と、日ごと夕闇に乗じて50~60名の、エタイの知れない怪しげな連中が人目を避けながら、盛んにその船に出入りしていた。が、別段怪しまれもせず、越えて17日の早朝、この船は東京湾の彼方に帆を上げた。その行方はどこだろう?〉
 事件を世に知らしめることになった1922(大正11)年12月12日付東京日日(東日=現毎日)社会面トップ記事の書き出しだ。書いた立花義順記者は30年余後の「文藝春秋」1955年10月臨時増刊「三大特ダネ讀本」掲載の「海賊船大輝丸事件」で経緯を書いている。
 12月11日(文春の記事には12日とあるが誤り)午前10時ごろ、立花記者は何となく以前から親交のあった弁護士、布施辰治を訪ねてみようと、車を四谷に向けた。とろこが、書生が玄関口に出てきて「きょうはお客さんがあるので、面会はお断りしている」と言う。
 何かあると思って書生を押し切って2階に上がり、ノックして部屋に入ると、「居合わせた赤銅色の男3人がどきっとしたように私を振り返った」。「勘弁してくれ」と言った布施も、「自分も困っている」と答えて3人を紹介した。
 「この人たちは江連の部下として芝浦から大輝丸に乗り込み、ロシアの尼港で荒稼ぎをやって帰ってきたんだが、分け前の点で仲間割れし、いっそのこと自首しようかと俺のところへやってきたわけだ」
 「露船に乗り込み、船長以下十一人をみな殺し」
 3人は田中三木蔵、菊地種松、矢ケ崎徳寶。「江連」はこの「海賊団」の首領の江連力一郎、「ロシアの尼港」は、ロシア極東のニコラエフスク(現ニコラエフスク・ナ・アムーレ)のことだ。「これはいける」と思った立花は3人から話を聞いたうえ、3人を自分の車に乗せて警視庁に直行して自首させた。
 それが「聖代に恐るべき海賊船 東京を船出して北樺太に惨虐の限り 露船に乗り込み、船長以下十一人をみな殺し」が見出しの特ダネに続く。記事はこうだ。
 〈それは、いつの間にか、北樺太の一要港アレキサンドロフスクへと航していた。しかも、この航海の目的は、オコック方面へパルチザンが埋めたという砂金を掘り出しに行くというのであった。だが、それは表面だけのこと。実はこの船は世にも恐ろしい海賊船であった。乗り込んだ多くの若い船員たちはそんなこととは知らずにいたのを、途中で船長その他の幹部に脅迫されて余儀なく海賊となったのであった。ア港に着いたのは、なんでもその後1カ月たって10月の半ばすぎで、この船を見て同市の住民たちも一個の漁船というほかには別に怪しいものとも思わずにいたのであった。〉
 アレキサンドロフスクは現在のアレクサンドロフスク・サハリンスキーでサハリン西海岸の港町。オコックはオホーツクのことで、オホーツク海に面したロシア・シベリアの極東海岸地域。パルチザンとは、ロシア革命での共産主義の指導に基づく武装集団。
 ここまでがリードだが、まだ犯行の全貌ははっきりしない。「白刃の下に 愛妻を慕ふ(う) 露国船長の哀願も空しく」の中見出しを挟んで核心に入っていく。
 「大正の聖代にこうした大惨虐…」
 〈ア港停泊幾日かの後、この怪しい船は帰港の途に就いた。恐るべき事件は、船がア港をさる十数カイリの沖合にさしかかったときに起こった。そこには、1隻の小汽船でア港に向け航行しているのがあった。その汽船は明らかにロシアの船で、船長や11名の乗組員もロシア人であり、ほかに1名の朝鮮人が乗り込んでいた。これを発見した怪しの海賊船は「いい獲物だ」とばかり、同船に近寄って乗り移るやいなや、船長以下13名の船員を脅迫し、船貨や船体まで占領してしまった。が、自分たちの船が海賊船であることが先方に分かるに及んで、海賊船の船長たちは残忍にも、露船の船長以下、朝鮮人までとうとう11人を皆殺しにした。船長はまさに殺されようとする間際に「自分にはただ1人の妻がある。それはいま函館にいる。自分が殺されたら、後のことはよろしく頼む」とくれぐれも頼んで、白刃のもとに露と消え失せた。13人のうちの1人はこの光景を見て自刃し、もう1人は海中に身を投じて行方をくらました。これはほんの1例であるが、他に数隻の汽船が同じ運命の下に痛ましい最期を遂げている。この恐るべきことが実際に行われたであろうかと、人を疑わしめるほどの大惨虐があえてせられたのである。〉
 3人の証言を基にしただけなので、あやふやなところがあるのは仕方がない。記事は次に主犯格の人物について触れる。
 〈分捕り品の 分け前を 貰は(わ)ぬ船員たちの 口から―発覚
 この海賊船は分捕った船を途中で沈めて、何食わぬ顔で再び芝浦の埠頭に姿を現したのはつい1週間にもならぬ、ほやほやのこと。その海賊船であった船は兵庫県西宮の某汽船会社の〇〇丸(500トン)で、いまは持ち主の手に返っている。海賊の団長というのは茨城県結城郡結城町=江川村(現結城市)の誤り=で撃剣道場を開いている剣道5段の某(35)=しばらく名を秘す=という、身長5尺8寸(約176センチ)の大男で、これを助けたのは日本橋通り2丁目の某ビルディング内の某株式会社員・某(38)、芝区琴平町、某ホテル株式会社員・某(34)。事件発覚の端緒というのは、頭株の連中が芝浦帰航と同時に別に分け前も出さずに一同を解散したのがもと。つっぱねられた連中は四谷区の某弁護士のもとに、自分たちがいままでやってきたことを告白するのと同時に、団長らの無情を告げた。この訴えた連中は、恐ろしい海賊を自分からしたのではなく、全く団長らの強要に基づくものであると泣いて付け加えている。大正の聖代にこうした大惨虐を行うことさえ驚くべきだが、ことは国際関係にも及び、今後問題は大きくなるだろう。わが社は近く本件の真相を詳細読者に報道するだろうことを付け加えておく。〉
 いかにも特ダネを意識した記事で、船名や江連の実名を出していないのも、続報に期待させるのと同時に、他社の後追いを意識したためだろう。
 「虐殺 帰った乗組員が告発」
 しかし、12月22日発行23日付夕刊で東京朝日(東朝)と國民新聞徳富蘇峰が創刊した新聞)が実名を入れて報じた。コンパクトな東朝を見よう。
 〈亜港海賊船の虐殺 歸つ(帰っ)た乗組員が告發(発) 警視廰(庁)大活動を開始す
 12日朝、布施弁護士は警視庁に出頭。正力官房主事と打ち合わせし、さらに東京地方裁判所で小原検事正と会見。何事か陳情した。これにやや遅れて千葉市の大工・田中三木蔵、菊地種松ほか1名は警視庁に出頭し、木下刑事部長、小泉捜査課長、中村強力犯係長の列席を求めて刑事部長室で数時間にわたり陳述した。その結果、刑事部は大活動に移ろうとして準備中。
 事件の真相を聞くと、問題は軍隊的組織の海賊団の露国人17名虐殺で、事件はいよいよ重大問題を引き起こそうとしている。この団長は茨城県結城町に剣道の道場を有する本所向島小梅1ノ4、江連力一郎(35)という者で、同人はオホーツク近海で、先に中村萬之助氏が取り残した砂金8000貫(30トン)を採掘するという口実のもとに深川の人夫・宮田重次、千葉県人・田中三木蔵らの手で乗組員60名を募集した。9月中旬、芝浦港から大輝丸で出帆。亜港に向かい、5~6日前、東京に帰航した。〉
 亜港はアレクサンドロフスク港のこと。ここには著名な人物が多数登場する。「布施弁護士」は元乗組員が泣きついた布施辰治弁護士。「正力官房主事」とは、のちに讀賣新聞を買収して「メディア王」となる正力松太郎。そして「小原検事正」は後年法相などを務める小原直だ。
 記事は以下、海賊行為の模様を書いているが、特ダネの東日記事同様、誤りが多い。1924(大正13)年4月2日に出た江連以下37人の被告に対する予審終結決定書(4000枚)のうち、事件の大筋に関わる部分を3日付東朝朝刊の記事から見よう。
オホーツク地方に巨額の砂金があり、これを採集すれば巨万の富を得ると聞かされ…
 江連は1921年8月中、中村萬之助とともに金萬汽船を組織して取締役となり、北海の漁業に従事していたが、たまたま中村からオホーツク地方に巨額の砂金があり、これを採集すれば巨万の富を得ると聞かされた。
 直ちに砂金採集を企画。1922年6月中旬以来、副団長・島田徳三、指揮者・北谷戸元二らとたびたび会合し、元東朝記者の衆院議員・児玉右二を説得して2万円(現在の約3300万円)を出させた。さらに児玉を介して友人の会社社長から3万円(同約4900万円)を資金提供させた。
 江連、島田、北谷戸の3人は、調達した金を持って大阪に行き、相澤汽船所有の大輝丸(2000トン)の賃貸契約を結んで東京・芝浦に回航させた。
 元検事が書いた小泉輝三朗「大正犯罪史正談」によれば、大輝丸は全長181フィート(約55メートル)。2本マストの鉄船で、船足は遅いが堅牢なのが特徴だったという。
 島田と北谷戸は全国の在郷軍人(予備役などの民間にある軍人)から乗組員を募集。江連は中村の助言を受けて同志と図り、秘密に払い下げを受けた陸軍騎兵銃32丁、日本刀67振り、槍18本、弾丸2000箱、陸軍軍服128着、その他、航海に要する糧食(白米250俵、メリケン粉=小麦粉370袋、缶詰)、石炭、飲用水を大輝丸に積んだ。乗組員は軍隊式に教練し、砂金採集が目的と告げ、目的達成の際は多額の分配をすることを約束した。
 「残忍暴虐の敵はこれらの死体をアムール河の水上に投棄したるが…」
 9月17日、芝浦を出帆し、ロシア領オホーツクに向けて航海。北サハリン・アレクサンドロフスクに至って、当地駐在の守備隊参謀・斉藤陸軍歩兵大佐を訪問し、物品の援助を懇請したが、「許可できない。早く帰航せよ」と拒絶された。
 江連らは帰航を承諾しておいて対岸のニコラエフスク港に向かって航海。10月13日、ロシア領の黒竜江河口沖合にイカリを下ろし、江連ら幹部が同港に上陸した。
 ニコラエフスクは日本では尼港と呼ばれ、極東ロシアの主要な港湾都市だが、2年前にロシア革命とそれに伴う日本のシベリア出兵に絡んで日本の軍民に対する虐殺事件が起きていた。
 〈1920(大正9)年2月5日、ソビエトパルチザンは日本軍によって不当に占領されていたニコラエフスク(尼港)の日本シベリア出兵軍・石川大隊を包囲し、28日、これを降伏させた。3月11日、降伏協定を破って蜂起した日本軍は敗れ、122名の将兵と居留民は捕虜となった。その後、日本の援軍の来襲を知ったパルチザンは5月25日、市中を焼き払い、日本人捕虜とロシア人反革命派を殺して撤退した。事件の責任者は革命政府により死刑に処せられたが、日本政府は国民の反ソ感情をあおり、賠償を要求。保障としてサハリン北部を占領したが、結局賠償要求を取り下げた。(「日本近現代史辞典『尼港事件』」)〉
 事件に至る過程についてソ連側の説明はかなり違っているが、日本軍は「無残にもわが生存者をことごとく惨殺し、また強制的に人民を尼港以外に撤退せしめたるのち、全市に放火してこれを灰燼に帰せしめ遁走せり」=陸軍省海軍省編「尼港事件ノ顛末」(1920年)=などと非難。新聞も次のように伝えた。
 「惨殺されたる者、露人及び居留の日本人、(朝)鮮人を合してその数実に5000名に達せり。残忍暴虐の敵はこれらの死体をアムール河の水上に投棄したるが、哀れ、解氷とともにこれらの死体は空しく水底の鬼と化し、渺々(果てしなく広い)たる河上、呼べど声なく、悵然(悲しみ嘆く)としてわが同胞の幽魂を弔うのみ」(1920年6月23日付東朝朝刊)
 「敵を討って下さい、敵を討って下さい」
 「ひたすら報道されたのはボルシェビキ(共産パルチザン)たちの残虐非道な行動だけである。多くの国民は、この報道に涙を流して憤激した」(今井清一編著「日本の百年5 成金天下」)。特に、妻子を射殺したうえ、自分も海軍将校と刺し違えて自決した石田虎松・副領事の悲劇が話題を呼び、日本にいて一人難を逃れた12歳の芳子がつづった詩が雑誌「主婦之友」1920年8月号に掲載され、読者の涙と悲憤慷慨を誘った。
 〈「敵を討って下さい 寒い寒いシベリヤの、ニコライエフスク 三年前の今頃はあたしもそこに居りました お父様とお母様と、妹の綾ちゃんと」
 「三月の末でした お家の新聞に ニコライエフスクの日本人が、一人残らず パルチザンに殺されたと書いてあったので あたしビックリして泣きだしました」
 「お父様もお母様も、綾ちゃんも赤ちゃんも みんな殺されてしまひ(い)ました 仲のよかったお友達も 近所に住んでたおばさんも、小父さん達も 誰も彼もみんな殺されてしまひました 槍でつかれたり、鉄砲でうたれたり サーベルで目の玉をえぐられたり 八つ裂きにされたりして殺されたのです まあ何とむごいことをするのでせう(しょう) にくらしいにくらしい 狼の様なパルチザン
 「敵を討って下さい敵を討って下さい そしてうらみを晴らしてやってください」(原文要旨)〉
 詩を載せた記事は「一句一章何という悲壮であろう。言々句々悉く涙ならぬはない。読む者、誰か泣かずにいられようぞ」と締めくくっている。この詩は、当時人気の演歌師の添田唖蝉坊が七五調にしてうたった。「尼港事件」は映画や舞台、からくり芝居にもなって国民の感情を揺さぶった。
 「邦人残虐の跡を歴訪したるに、虐殺当時の惨澹たる光景を連想し…」
 虐殺に遭った石川正雅少佐の大隊は水戸の陸軍歩兵第2連隊の所属だった。
 江連の弟子の証言などをまとめた安久井竹次郎「剣士江連力一郎伝 北海の倭寇、草莽の首領」(1983年)によれば、茨城県では、現地の取材から帰国した新聞記者の報告会が旧制水戸中学(現水戸一高)をはじめ、県内各地で開かれ、血の気の多い「水戸っぽ」を地団太踏んで悔しがらせた。
 水戸で犠牲者を追悼する臨時招魂祭が行われ、田中義一陸軍大臣(のち首相)が声涙ともに下る弔辞を読み上げた。
 「邦人残虐の跡を歴訪したるに、虐殺当時の惨澹たる光景を連想し、被告らは憤慨のあまり残虐無道の露人に対する復讐の念勃発し……」(原文のまま)と東朝による予審終結決定書は書いている。
 江連らは「尼港事件」の現場を見て報復を決意したことになる。そして、結氷時期に当たったためオホーツク行きを断念、ニコラエフスクを出航。一団は南に向かうことを議決し、10月19日、黒竜江沖合にイカリを下ろした。
乗り組みのロシア人3人を日本刀で…
 予審終結決定書はこう書いているが、「大正犯罪史正談」と弁護士による森長英三郎「史談裁判」によれば、江連は既にアレクサンドロフスクで、オホーツク海が結氷してオホーツク方面には航海できないことを知っていたという。
 「史談裁判」は「こんなことは別に大輝丸を借り入れるときから分かっているはずで、シベリアで真に砂金を採取する目的ならば、夏期を目標に春に出航すべきであるのに、秋深くなって出航するのは、はじめから海賊が目的ではなかったのかといわれそうである」と指摘している。
 真の目的が何であったか、後で大きな問題になる。予審終結決定書に戻ろう。いよいよ海賊行為の場面になる。
 漁業に従事してウラジオストクに帰航しようとしているロシアの帆船(ランチ)を発見。江連らは初めてロシア人に対する復讐を意味する「強奪心」を併発した。その「アンナ号」に4人の乗組員があるのを確認。騎兵銃を突きつけて船を略奪し、4人を大輝丸に抑留した。
 その後、ロシア船が来るのを待ち、10月21日の明け方になってロシア人と中国人20余人が乗り込んだ帆船「ヴェカー号」(約100トン)が塩ザケその他の魚類、魚油(価格7万余円=同1億1400万円余)を満載して南へ急いでいるのを発見した。江連らは邦人虐殺の恨みを晴らし、復讐を遂げる時が来たとして雀躍。
 北谷戸の指揮の下に騎兵銃、短銃を乱射して船に突入し、乗り組みのロシア人3人を日本刀で斬殺したうえ、遺体を海中に遺棄した。ロシア人、中国人計16人を捕虜として抑留。積んでいた貨物と魚類を強奪し、ヴェカー号を海中に沈没させた。
 さらに、ロシア人と中国人を生かしておけば、やがて国際問題を引き起こす恐れがあり、むしろこれを皆殺しにして後難を避けた方がいいと決意。10月23日、抑留したロシア人、中国人7人と〇〇国人10人を一斉に射殺した。そのうえ、アンナ号のロシア人4人も斬殺。強奪品を処理するため宗谷に直行した。
 まさに海賊そのものの狂気じみた蛮行だが、予審終結決定書は、その後の経緯についても書いている。
 宗谷税関の警戒が厳重だったため強奪品を処理できず、「海賊団」は2隊に分かれ、1隊は江連が指揮して稚内に上陸。再渡航の準備として、携帯した武器一切の保管を倉庫会社に委託した。他の1隊は島田が引率して同年11月6日、小樽に上陸。
 約7万円(現在の約1億1400万円)相当の略奪品を処分し、大輝丸賃借料を支払った残り約6万余円(同約9800万円余)を分配して解散した。「史談裁判」によれば、一般の乗組員には150円(同約24万円)ずつしか配られなかったという。
 江連力一郎という男
 こうした「海賊」行為に引っ張って行った江連力一郎とはどんな人物なのか。12月13日付朝刊では、東朝と東日が記者を茨城県に派遣して経歴などを取材した結果を載せている。軍服姿の江連の顔写真を載せた東朝を見よう。
 〈團(団)長江連の素性 明大の卒業生で柔道五段 實(実)父長左衛門の談
 海賊船の団長と伝えられる江連力一郎の郷里、茨城県結城郡江川村に実父長左衛門(64)を訪えば、「せがれは子どものときから非常に活発で」と次のように語った。海城中学から明治大に入り、26のときに卒業。すぐ1年志願兵として水戸工兵隊に入営した。除隊後は上京して撃剣や柔道などを練習し、柔道は5段の免許を得ている。それから大正7(1918)年に武者修行と称して支那(中国)へ渡り、香港で挙動不審とされ、領事館に1年ばかり留置され、日本へ押送された。以来、向島に居を構え、セルロイド製造、自動車会社をはじめ、伊豆でホテルなどをもくろんだがうまくいかなかった。今回の渡航では10月7日付で北樺太から、石油、石炭、金鉱などの権利を獲得したから安心してくれという手紙が来た。〉
 「剣士江連力一郎伝」によれば、江連は1887(明治20)年の大みそかの生まれ。実家は江戸時代に水田開発に成功した富農で、茶屋も経営していて裕福だった。海軍軍人を目指したが、家業が入学資格ではねられて断念。明治大に進学した。
 ボート部で活躍。長身で武芸全般に秀でていた。1年志願とは自費で入営期間を短縮できる制度で、除隊時は軍曹だったという。
 「冒険家」として一部では名前が知られていたようで…
 12月14日付國民新聞朝刊には「南洋を股にかけた 向ふ(う)見ずの男 江連の半生は冒険家」という記事が。
 東京・牛込の道場で武芸一般の免許皆伝を受け、弟子仲間と「海外の別天地で一攫千金の大事業を」と語り合った。1914年に「南洋」に渡り、スマトラマレー半島ニューギニアなどから中国大陸へ。「種々の冒険を試み、蛮勇を振るって」翌年帰国したという。
 「少年倶楽部」1918年1月号には「世界武者修行者 江連力一郎」という肩書で「日本刀一本で南洋蠻(蛮)地武者修行」という文章を書いている。そこでは毒蛇を退治したり、「食人種」の村に泊まったりした武勇伝を披露している。
 「冒険家」として一部では名前が知られていたようで、「やまと新聞」は事件発覚直後の12月14日発行15日付夕刊から4回続きで「海賊團長江連の南洋踏破手記」を載せた。江連が「市内某所に送った偽らぬ手記の一端で、江連の性情まさに彷彿(ほうふつ)たるものがある」としているが、「強盗殺人犯」の武勇伝を連載するというのは相当なものだ。
 「武者修行」から帰国後の江連は、江川村の自宅敷地内に自分の雅号から名づけた「八洲社道場」を開き、柔術と整復術を教えていたが、しばらくして上京したという。
 「海賊船の乗組員 涙で惨虐を告白」
 12月13日付東日朝刊は特ダネの続報らしく、自首した乗組員の証言を「海賊船の乗組員 涙で惨虐を告白」の見出しで、3人のうちの2人の写真付きで報じた。ほかにも「何をするのか分からないまま船に乗せられた」などの乗組員の証言が各紙に載った。
 その間、警視庁による事件の容疑者の所在確認と引致が始まっていた。12月13日発行14日付東朝夕刊は、北谷戸らが警視庁に引致されて取り調べを受けていると報じた。そして12月14日付朝刊各紙には次のようなニュースが載った。東朝を見てみる。
 〈團長江連遂に逮捕 妻と潜伏中札幌で 「國(国)策に殉じた」と豪語す
 虐殺事件の団長・江連力一郎(35)、妻うめ(25)、同行の東京市本所区押上町49,石川房吉(48)の3名は札幌郡手稲村、唐田温泉・光風館に潜伏中を、警視庁の依頼により極力行方捜索中の札幌署が探知し、刑事数十名を現場に出張させ、逮捕のうえ、13日午後午後7時57分、札幌到着列車で護送してきた。
 江連は日本の国策に殉じたものであると豪語している。妻うめはすこぶるハイカラの美人である(札幌特電)。〉
 「生首のおうめ」という女
 この後も「昨夜は二十名を引致」「乗組名簿で片端から引致」などと捜査の進展が報じられる中で、うめの話題が各紙の紙面をにぎわす。最も早かったのは12月17日付東朝朝刊で、「海賊に伴(つ)れ添ふ(う)黥(いれずみ)のおうめ」という話題ものの記事。
 〈「黥の奥さん」「生首のおうめさん」というのは江連力一郎の女房うめのことだ。江連が向島小梅町4の現在の自宅に移る前は、少し隔たった新小梅町2ノ9、伊藤方の2階を借りていた。その時分はよく小梅町の湯屋「鶴の湯」へ入浴に来た。彼女の背には結い綿(日本髪の島田まげの一種)に赤い鹿の子(絞りの縮緬=ちりめん)をかけた女が、目をつぶって口に匕首(あいくち)をくわえた、ものすごい文身(いれずみ)がある。気の弱い女たちは気味悪がってそばに寄りつかない。〉
 風呂で一緒になった女性の話として、腕に「八洲命」という入れ墨があるとも書いている。その後、12月12日付報知朝刊は、千葉県に住むうめの祖母に話を聞いて経歴をまとめている。
 それによれば、一家は元々千葉県山武郡大総村(現横芝光町)の出身で、1890年、祖父母が開拓に北海道・北見へ。そこで祖父母の息子夫婦の長女として生まれたのがうめだった。父親が大酒飲みで一家はちりぢりに。うめは上京して渋谷の小学校を卒業し、浅草の歯科医師の家を振り出しに、いろいろな所へ奉公した。
 16歳で井上(良馨・海軍)元帥家の小間使いをしていた時に何者かに連れ出され、茨城県結城町のお茶屋へ酌婦に売られた。そこの主人に同情され、女学校に通わせてもらっているうちに江連との仲ができたという。
 そして、江連の心遣いで踊りや柔道を習い、民間飛行家になりたいと言っていた。まさに「江連の妻お梅は 不思議な運命の女」(見出し)で波乱万丈の半生だが、祖母は「一口で言えば勝気なやつと申すのでしょう」と話している。
 「国策に殉じた」の背景
 12月15日、東日朝刊は社会面トップで「江連團長遂に自白」と報じた。「虐殺は公憤から 尼港事件の仇討 白軍援助が俺の目的だ」の見出しで主要部分は次のようだった。
 〈江連は取り調べに対し、自分の履歴その他を詳細に述べ、大正3(1914)年6月、支那、南洋方面へ旅行。大正6(1917)年、代議士候補を宣した(立候補表明?)ことを述べた。その後、ニ(尼)港虐殺の報伝わり、水戸連隊絶滅に憤慨してニ港を視察。その結果、沿海州、サガレン(サハリン)は当然日本の勢力範囲だと信じていた矢先、シベリア撤兵のことを聞き、国策上よりその不利を考え、この際白衛軍を援助し、全滅軍隊の弔い合戦をなす必要ありとして本年5月、サガレン視察を計画し……
 北樺太における虐殺の顛末については、陰鬱な表情をしつつ「大体新聞記事の通りだ」と、惨虐だった過去の幻に襲われたようだった。〉
 白衛軍とは「白軍」ともいい、1917年のロシア革命時の反革命軍のこと。翌年、アメリカが革命に干渉するため、チェコスロバキア捕虜救援を名目に各国に出兵を要請。日本政府はロシア革命圧殺やシベリアの利権獲得などを狙って要請をはるかに上回る7万2000人の兵を送った。
 干渉が失敗し、各国が次々撤退する中、日本はさまざまな理由をつけて兵力を残存させ、その中で「尼港事件」が起きる。結局、日本軍の撤兵は1925年5月までかかった。
 江連はここで初めて、「海賊事件」を起こした動機が、「尼港事件」の復讐だったことを認めたことになる。逮捕時に言った「国策に殉じた」もそうした意味だったのだろう。事件に対する反省は全く見せていない。江連はこの後、裁判でも虐殺を否認するなど、供述を微妙に変えたが、動機については終始同様の主張を続ける。
「彼らの一匹や二匹は殺したって…」ロシア船襲撃日本人“海賊”…「国士」の虚像を背負った男の末路 へ続く
 小池 新」
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 ウィキペディア
 大輝丸事件(だいきまるじけん)は、1922年(大正11年)に発生した、日本の海賊による外国人殺害事件である。「尼港事件の復讐」の名のもとにロシア船を次々と拿捕して積み荷を略奪したうえ、ロシア人12人、中国人4人、朝鮮人1人を殺害した。
 時代背景
 本事件より2年前の1920年大正9年)、ロシア沿海州の都市・ニコラエフスクパルチザンの襲撃を受け、多数の市民が虐殺される。いわゆる尼港事件である。この事件では多数の婦女子を含む在留日本人700人が巻き込まれて全滅したうえ、女性への残虐な殺害方法がセンセーショナルに報道されたため、当時の日本社会は反露感情に沸き立った。
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