💞15」─1─宗教は合法的ビッグビジネスで巨万の富を築き巨大教団を建設する。~No.44No.45No.46 

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 2025年12月2日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「「宗教はビジネスだ」と言えるこれだけの理由
 ポール・シーブライト
 宗教は合法的なビジネスだ。魅惑的で優美な外見の内に、強固な組織の力を持つのが宗教なのだ(写真:doidam10/PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 現代社会において、宗教はすでに巨大な経済活動を伴う「ビッグビジネス」と化しており、その市場規模はマイクロソフトやアップルといった企業の収益を上回るといいます。宗教活動はいかにして強大な力を得たのでしょうか。その秘密は、宗教団体が世俗の企業と同じように、組織として「日常の営み」に携わり、競争を勝ち抜いてきた点にあります。ポール・シーブライト『ビジネスとしての宗教』から一部抜粋・編集の上、お届けします。
 強固な組織の力を持つ宗教
 宗教団体は浮世離れした言葉で教えを説いていても、効果的に成果をあげるためには、実際の行動によって信者の役に立たなくてはならない。幸運なめぐり合わせばかりに頼っているわけにはいかず、システムによって成果をあげる必要がある。 
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 信者や潜在的な信者に対して説かれる教えの中には、実際的なものや、元気づけるもの、ためになるもの、あるいは人生を一変させるようなものも含まれている。しかしそのような教えの中身だけで、力を獲得したわけではない。
 宗教団体を構成する組織自体(教会、モスク、マドラサシナゴーグ、寺院、祈禱会、アシュラム、修道院、集会所)が、19世紀の経済学者アルフレッド・マーシャルのいう「日常の営み」に携わらなくてはならない。
 宗教団体は人を集め、資金を調達し、予算を配分し、施設を管理し、交通を手配し、職員やボランティアの意欲を引き出し、教えを宣べ伝えている。その際には、ほかの組織と、資金や忠誠心や活力や関心をめぐって競争しているのだという意識を強く持っている。
 競争相手には、潜在的に自分たちと同じくらい人々の心を摑む力を持っているほかの宗教団体に加え、世俗のライバルや、人々の無気力や無関心、懐疑心、あるいは敵意といったものも含まれる。経済的な資源の乏しい宗教団体は、どれだけ美しい言葉で教えを説いても、世の中の雑音にかき消されてしまい、なかなかそれを人々に聞いてもらうことができない。魅惑的で優美な外見の内に、強固な組織の力を持つのが宗教なのだ。
 宗教は互いに競争しているといっても、レストランのオーナーや、ワインの生産者や、劇場の支配人や、バイオテック企業やITのスタートアップ企業の経営者以上に、欲深いとか、利益を追求しているなどといいたいわけではない(中にはそういう宗教もあるかもしれないが)。
 宗教は情熱やプラグマティズムを原動力とするものだとしても、存続し、発展を遂げるために必要な経済的資源や人的資源を獲得しようとすれば、競争はどうしても避けて通れない。
 宗教は「合法的な」ビジネスである
 つまり宗教はビジネスであるということだ。ほかのビジネス同様、宗教にも多くの側面がある。宗教のコミュニティは、外部の人間にとっては、気づきを与えてくれるものであることも、恐ろしさを覚えるものであることもある。
 新たに加入した信者にとっては、向上心を刺激してくれるものであることも、退屈させられるものであることもある。宗教に人生や有り金を捧げた人にとっては、充実した時間を過ごさせてくれるものであることも、落胆させられるものであることもある。
 しかしいずれの場合であっても、宗教は合法的なビジネスだ。この事実は、宗教に批判的な者たちをひるませるだけでなく、宗教も社会に対して、ほかのビジネス同様、責任を持たなくてはならないと主張する者たち(その中には宗教の支持者も、批判者もいる)に力強い論拠を与えもする。
 宗教は代々受け継がれている創設者の理念だけでなく、組織という観点からも理解されなくてはならない。マイクロソフトやアップルといった企業がなぜ成功したかを十分に説明するためには、創業者が高校時代に親のガレージでプログラミングに没頭していたというような逸話だけですますわけにいかない。現在のそれぞれのビジネスの構造や、事業計画の詳細や、企業文化といったものも理解する必要がある。
 宗教も同じだ。宗教団体の成功の要因を解明するためには、幅広い研究が求められる。
 古くからある宗教と経済の結びつき
大勢の人々の心を動かす超俗的な教えの力が、経済的な競争という世俗的な制約によって築かれるというのは、奇妙なことに思えるかもしれない。しかし、18世紀のスコットランドの哲学者で経済学者のアダム・スミスにとっては、これはごく当たり前のことだった。
 当時、英国国教会神学者たちは、英国国教会に属さないプロテスタント諸派の信者の増加、とりわけジョン・ウェスリーが始めたメソジスト派の信者の増加を何より気にしていた。
 現代の新聞やデジタルメディアでの、一部のポピュリスト政治家の論じられかたにも通じるものがあるが、メソジスト派の説教師は聴衆を「とりこにし」て、「正常な判断力を失わせ」、「英国国教会の牧師は盲目の案内人であり、偽の預言者である」と信じ込ませていると批判された。
 しかし、あるアイルランド人の牧師がメソジスト派の説教師ジョン・スマイスに棍棒で殴りかかって、次のように叫んだことがあった。おそらく本音はこちらにあったのだろう。「おまえの説教のせいで、教区のみんながたぶらかされて、わたしの教会に来る人が減ってしまったではないか」。
 アダム・スミスにいわせれば、これぞ問題の核心だった。つまり、このときに英国の宗教界で繰り広げられていたのは、聴衆の獲得競争であったということだ。スミスの考えでは、メソジスト派が聴衆の獲得に長けていたのは、彼らに強い動機があったからだった。
 『諸国民の富』の第5編で指摘されているように、メソジスト派と国教会とでは牧師に与えられる経済的な見返りに差があった。英国国教会の牧師は説教の出来不出来に関係なく、たっぷり給料をもらっていた。
 ところが、メソジスト派の牧師は熱狂的な聴衆を集められなければ、食べていけなかった。スミスは次のようにいくらか皮肉を込めて述べている。「国教とされ、資金力に富んだ教団の聖職者は、得てして、学があって上品で、紳士にふさわしい徳をすべて備えている」。反面、教会を満席にすることにはあまり関心がなく、したがって、秀でてもいなかった。
 スミスが興味を持ったのは、経済的なインセンティブが教会の教えの伝え方だけでなく、教えの内容にどのような影響を及ぼすかという点だ。これは生死に関わる問題だった。
 当時のヨーロッパでは、三十年戦争終結まで100年以上にわたって続いた苛烈な宗教戦争の余波がいまだに残っていた。宗教に端を発する暴力が断続的に発生していて、フランスのユグノー(カルバン派プロテスタント)など、少数派に対する弾圧もなくなっていなかった。
 スミスは1764年、南フランスのトゥールーズに長期滞在中、『諸国民の富』の執筆を始めた。トゥールーズはそれまで2年にわたって、プロテスタントの商人ジャン・カラスが無実の罪で処刑された「カラス事件」をめぐって、抗議行動が収まらず、荒れていた。カラスは息子を殺したという容疑をかけられたが、息子の実際の死因は自殺だった。
 ところが裁判では、カラスが息子のカトリックへの改宗を阻止しようとして殺害に及んだとされた。哲学者のヴォルテールもこの事件に注目し、カトリックの不寛容さを攻撃するときに引き合いに出している。宗教や暴力や、迫害が社会を揺るがしている時代だった。スミスはなぜ宗教が騒乱を引き起こすのかについて、真剣に考えたに違いない。
 ヴォルテールは宗教を本質的に不寛容なものだと考えているかのようなことをたびたび書いていた。実際、宗派に属している人の多くは、他宗になんらかの不寛容さが見られると、それをその他宗の特質としてあげつらった。
 置かれた状況で教えは変わる
 スミスの見解は違った。ある宗教の教えが寛容さを促すものであっても、不寛容さにつながるものであっても、それらはその宗教にもともと備わっている性質の現れではなく、宗教指導者が置かれた状況から生まれた動機によるものだと、スミスは述べている。
 ほかの分野でも一般の人にとっては競争が「有益」で、独占が「有害」であるのと同じで、数多くの宗教が同条件のもとで競争すれば、おのずと慈悲の教えを説かざるを得なくなるとスミスは考えた。
 もちろん、ここでスミスがいっている競争とは、自由に自分たちの教えを人々に伝えることができる宗教団体どうしの競争のことだ。同じ町にあるプロテスタントの教会どうしの競争もそこには含まれる。宗教指導者が人々に暴力や抗争をたきつけるような教えを説けるのは、社会の中に宗教団体の数が著しく少ないときだけに限られる。
 アップルとマイクロソフトを上回る収益
 現代の宗教はビッグビジネスと化している。2016年に発表された調査によると、米国の信仰を基盤とした組織の年間収入は総計3780億ドルにのぼった。これは莫大な額だ。同年のアップルとマイクロソフトの収益の合計を上回り、米国の総個人所得の2%以上に相当する。メディアや娯楽産業の60%、全飲食店の売上の合計額の半分に当たる。
 比較できる国際的な数字がないので、ほかの国々の実態については推測するしかない。それでも、アフリカや南米の国々をはじめ、ペンテコステ派の勢力が強く、成人の10人にひとりが十分の一税を納めていると十分に考えられる国はかなりある。
 さらに10人に2人が所得の5%を納めているとすれば、それ以外の人々がまったく献金していなくても、信仰を基盤とした組織の総収入がそれぞれの国内経済において、米国の場合と同様の重要性を占めていることになる。
 (翻訳:黒輪篤嗣)
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