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アメリカの軍と科学者は、ホワイト・ハウスの命令に従って原爆・放射能人体実験を行っていた。
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タスキギー梅毒実験(英: Tuskegee syphilis experiment)こと「タスキギーのニグロ男性における無治療状態の梅毒の研究」(英: Tuskegee Study of Untreated Syphilis in the Negro Male)は、アフリカ系アメリカ人の人口比率が現在も圧倒的多数を占める (2010年国勢調査によると96%) アラバマ州のタスキーギで、アメリカ公衆衛生局が主導し1932年から1972年まで実施された梅毒の臨床研究である。医療倫理的に大きな問題を抱えており、これは非倫理的な人体実験の一つとされている。この研究調査の目的は、梅毒を治療しなかった場合の症状の進行を長期にわたり観察することであった。この研究に参加した黒人男性には、連邦政府が提供する医療が無償で受けられると説明されていた。
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2025年2月6日 MicrosoftStartニュース StarsInsider「タスキギー梅毒実験:医学史の暗い一章
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歴史上の医学の歴史は、暗く、混乱していて、残酷な出来事に満ちている。より発展し、より完璧な医療を目指す終わりのない旅には、当然ながら、悪意のないミスも少なくないが、医学と化学の名の下に行われた残虐行為のすべてが偶然だったわけではない。人類の保存を任された人々が、時には「大義」という薄っぺらなベールの下で、時には全体的な軽視から、意図的に人々の集団全体を破壊したという恐ろしい話は数多くある。このことは、400人の黒人男性が彼らの意志に反して、知らされずに、未治療の梅毒の長期的な影響の研究に参加した40年間の試練であるタスキギー梅毒実験ほど明白なことはない。
それでは、米国の医学史で最も暗い章の一つについて学ぶために読み進めていこう。
アメリカの医療人種差別の暗い歴史
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暗く、完全に非倫理的なタスキギー梅毒実験は、決して米国における医療人種差別の最初の例ではなく、最後の例でもなかった。
アメリカの医療人種差別の暗い歴史
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1619年に奴隷を乗せた最初の船がアメリカに到着して以来、アメリカの白人至上主義勢力は、重くて不快で苦痛なあらゆるものを彼らの方に担わせてきた。労働だけでなく、科学や「医療」においてもだ。
非倫理的な人体実験
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実験的な手術、危険な外科手術、長期にわたる研究は、奴隷制度の時代からジム・クロウ法の時代、さらには公民権運動の時代にまで、日常的に行われていた。
ジェイムズ・マリオン・シムズ
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アメリカ医学界で最も悪名高い人物の一人は、ジェイムズ・マリオン・シムズだ。近代婦人科の父とされるシムズの信念と実験は、現代の精査によってすぐに崩壊し、暴力と墜落の影に落ちる。シムズは、実験目的で購入した奴隷の女性に、非常に痛みを伴う乱暴な婦人科の検査手術や手術を行ったことで知られている。シムズはまた、アフリカ系アメリカ人は彼や彼の白人患者と同じように痛みを感じないため、麻酔をかける必要はないと主張することで、人種差別的で無知な科学的信念を示した。セントラルパークのシムズの像は、何年にもわたる世論の抗議の後、2018年に撤去された。
優生学と非同意不妊手術
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アメリカにおける優生学の歴史は長く、悲惨なものであり、第二次世界大戦後、一般の人々がアメリカの優生学とナチスの優生学の驚くべき類似点に気づき始めた時にようやく終わりを迎えた。矯正不妊手術は、劣っているとみなされる人々を世界から排除することを望んだ優生学者の主な手段であった。「劣っている」という言葉は、非白人、特定の宗教、発達障害などの神経多様性を持つ人々、そして数えきれないほどの精神状態に広く適用された。
イオニア州立病院
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ミシガン州のイオニア州立病院は、米国で最も暗い場所の一つとして歴史に名を残している。20世紀の精神病院の中でも、イオニア州立病院は、特にその人口の大半を占めるアフリカ系アメリカ人にとって、本当に恐ろしい場所だった。比較的最近の1960年代には、公民権運動に関して強い意見を持つアフリカ系アメリカ人が精神病院に入院し、誤って総合失調症と診断された。このため、健康な人の短期間の入院が、時には数年に及ぶ長期の入院に変わり、実質的には不当な監禁に等しい状態になった。
1946年の性感染症予防接種研究
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梅毒や淋病などの性感染症の影響に関する、米国政府によるもう一つの非倫理的な研究は、1946年から1948年にかけてグアテマラで行われた。そこでは、米国公衆衛生局の専門家が、主に兵士、孤児、さまざまな施設に収容されている人々など、1,300人以上の人々を、淋病、軟性下疳、梅毒などの痛みを伴う危険な性感染症に意図的に感染させた。世界中の多くの人々、特にグアテマラでは、この研究は人道に対する罪であると考えている。
ジョージアの黄熱病
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冷戦中、米国および海外で軍事実験が最優先されていた時、米国政府は再びアフリカ系アメリカ人を実験対象に選んだ。1955年、軍はジョージア州サバンナの黒人が大多数を占める都市に30万匹もの黄熱病蚊を放ち、実際の敵に対する昆虫学的攻撃にどれほど役立つか調べた。当局は蚊は感染していないと主張したが、実験中にサバンナの住民数十人が危険な病気に罹った。
タスキギー梅毒実験
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アメリカ歴史上、非倫理的、秘密主義的、人種差別的な医療行為は数えきれない。しかし、最も有名で、間違いなく最も長期にわたる出来事は、40年にわたるタスキギー梅毒実験である。
梅毒とは何か?
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梅毒は、さまざまな形態をとる感染症で、致命的なものもある。感染によっては、一生潜伏して無症状のままになるものもあるが、体の外側だけでなく臓器にも大きな痛みを伴う潰瘍ができ、痛みを伴い、死に至るものもある。
梅毒はなぜそんなに危険なのか?
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2015年、世界の梅毒感染者4,550万人のうち、10,700人が梅毒または梅毒の合併症で亡くなった。梅毒は先天性梅毒の形で子宮内の胎児に感染することもある。先天性梅毒に感染した胎児の約40%は死産するか、生後1年以内に死亡する。
梅毒治療の歴史
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梅毒は少なくとも15世紀から存在しており、ヨーロッパのフランス軍を通じて広まった。当時、有毒な水銀は奇跡の薬と考えられていた。梅毒患者は燻蒸炉に入れられ、大量の水銀蒸気にさらされるのが一般的だった。しかし、水銀は梅毒を治さないだけでなく、非常に痛みを伴う副作用を引き起こし、死に至ることが多かったのだ。
オスロ、1928年
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20世紀以前には、梅毒の長期的な影響はほとんど研究されていなかった。1928年、オスロの医師らは、自然に感染した患者に対する梅毒の回顧的研究である「未治療梅毒に関するオスロ研究」を発表した。
タスキギー大学
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オスロ研究の調査結果が発表された後、アラバマ州の米国公衆衛生局(USPHS)の医師たちは、オスロ研究を拡張するために梅毒に関する前向き研究を行うことを決定した。この研究は、1881年にブッカー・T・ワシントンによって設立された有名な歴史的黒人大学であるタスキギー大学で実施されることとなった。
アラバマ州メイコン郡
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タスキギー周辺のメイコン郡は、南北戦争以前はプランテーションの地だった。奴隷制度の廃止以来、この地域は小作農の土地になった。あらゆる人種の無数の土地を持たない小作農が、ほとんど、あるいは全く収入のないまま綿花畑やタバコ畑で苦労していた。
責任ある専門家
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この研究は40年の歴史の中で多くの立案者やリーダーが出入りしてきたが、その中でも傑出した人物が数人いる。USPHSの責任者であるタリアフェーロ・クラークがこの研究を考案し確率したとされているが、現地で主導したのは後に疾病管理予防センター(CDC)の所長となるレイモンド・A・フォンダーレア(写真右)だった。フォンダーレアが1943年に去ると、ジョン・R・ヘラー・ジュニア(写真左)がその地位に就いた。もう一人の中心的な人物であり、実験の最初から最後まで関わった唯一の人物は看護師のユーニス・リバース(写真中央)だ。リバースはUSPHSとメイコン郡の黒人コミュニティとの機能的な橋渡し役を務めた。彼女は何百人もの参加者の信頼を得て数十年にわたって彼らの記録を保持する責任があったが、彼女がこの研究の真も目的についてどれだけ知っていたかは不明である。
「ボランティア」
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USPHSは、メイコン郡全域から600人以上の貧しい黒人男性(ほとんどが小作農)を参加させた。この研究の本当の内容は、「ボランティア」の誰にもに伝えられなかった。
宣伝
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USPHSは、ユニース・リバースやタスキギー大学の他のスタッフ(彼らが何を支援しているのか理解していたかどうかは不明)の協力を得て、無料の医療相談と治療、および大学への往復の無料送迎を宣伝した。適切な医療を受けることが現実的に一切不可能だった多くの貧困農民にとって、それは魅力的な申し出だった。
嘘を告げられる
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600人の参加者は「悪い血液」の治療を受けるよう告げられた。600人のうち399人が梅毒に感染しており、201人は健康で感染していない対照群であった。
秘密梅毒
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どちらのグループも、相手の運命については知らされていなかった。彼らは自分達がグループに分かれていることを全く知らなかったのだ。参加した医師たちは定期的に患者を診察し、治療していると主張していたが、実際にはメモを取っているだけで、何もしていなかった。
「治療」
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医師たちは、梅毒に実際に影響を及ぼさないあらゆる方法で梅毒に感染した男性たちを治療した。何も知らない患者の脊髄液を検査するため、非常に痛みを伴い侵襲的な脊髄穿刺が定期的に行われた。
偽薬と欺瞞
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梅毒のさまざまな悪影響が表面化し始めた時、タスキギーの臨床医は「悪い血液」のさまざまな症状を偽薬で治療し続けた。重度の感染症にかかった患者は失明し、傷ができ、心臓病に苦しみ、さらには精神異常に陥り始めたが、それでもすべて治療されないままだった。
治療へのアクセスを遮断する
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研究の有効性を保つために、USPHSは研究対象者が病気の治療に外部の助けを求めないようにしなければならなかった。梅毒とその治療に関する情報は、何も知らない研究対象者には完全に隠されていた。
人類の利益のためなのか?
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USPHS内外の多くの医療専門家が、タスキギー実験の倫理性について懸念を表明した。この研究の支持者は、たとえその過程で何人かの命が失われたとしても、彼らの研究は最終的には人類に良い影響を与えると主張した。
40年間の苦難
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何百人もの影響を受ける個人や家族にこの考え方を納得させるのは大変な作業であり、現代の法廷でこの実験を正当化するのも同様に困難である。痛みを伴う傷や突然の失明から精神病や死に至るまで、40年間も説明のつかない病気は、簡単に治療できたはずであり、完全に回避できたはずである。
ペニシリンの誕生
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専門家が梅毒治療におけるペニシリンの価値を発見したのは、タスキギー梅毒研究の開始からわずか11年後のことだった。水銀やその他の危険物質で感染症を治療するという疑わしい方法は、1943年に安全で実行可能なペニシリン治療にすぐに取って代わられた。この驚くべき医学的進歩により、タスキギーの研究者による梅毒治療の探究はすぐに終わりを迎えたが、実験はその後29年間続いた。ペニシリンに関する情報は、タスキギーの被験者には慎重に秘匿された。
第二次世界大戦
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1941年末に米国が第二次世界大戦に参戦すると、256人のタスキギーの患者が徴兵され、研究とは関係ない医師の診察を受けた。彼らはすぐに梅毒と診断され、治療を受けるよう命じられたが、USPHSが介入し、彼らの研究が続けられるように、徴兵リストから彼らの名前をすべて削除した。タスキギーの臨床医の「治療」の下で、命を救う治療は差し控えられ続けた。
実験の終わり
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タスキギー梅毒実験に関する数十年にわたる散発的な苦情は、1972年にAP通信の記者ジーン・ヘラー(写真左から3番目)が全国的にこのニュースを報じたときに頂点に達した。当時タスキギー梅毒実験について初めて聞いた連邦議会議員たちは、すぐに特別グループを組織して実験を調査し、最終的に中止させた。タスキギー梅毒研究が終了するまでに100人以上の男性が命を落とした。
その後
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結局、28人の男性が梅毒で直接死亡し、100人以上が梅毒関連の合併症で亡くなり、被験者の妻40人が梅毒に感染し、19人の子供が先天性梅毒に感染し、その結果、乳児のほぼ全員が死亡した。NAACP(米国黒人地位向上委員会)は1974年に訴訟を起こし、米国政府は1,000万米ドルの損害賠償金を支払い、生存者とその家族に無料の医療を提供した。
出典: (History) (CDC)
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東京東部法律事務所
タスキギー人体実験について 【弁護士 城﨑 雅彦】
1 2017年10月、医療法人の依頼により、「人を対象とする医学系研究に関する倫理審査委員会」の委員に就任し、本年5月までに申請された4つの案件について審査を行いました。
半世紀ほど前に学んだ高校時代の「倫理社会」はいつも赤点スレスレでしたし、物事を深く掘り下げて考察し、是か非かを論じることはもともと苦手です。「倫理」という2文字から連想されるものには理由もなく反発しながら生きてきたように思います。
そのような私がこの依頼を引き受けた理由は、医師等自然科学の有識者や一般社会人の方々と、医学的研究という共通のテーマについて論議する機会が得られることに大きな魅力を感じたからです。
2 その中で学んだことですが、「医学系研究に関する倫理審査」が求められるようになった歴史的な経過の概要は以下のとおりです。
第2次世界大戦中、ナチス・ドイツにより、強制収容所で様々な人体実験が行われました。
ナチス・ドイツの戦争責任を戦勝国が追及した法廷が「ニュルンベルク裁判」ですが、ここで裁かれなかったナチスの医師等を裁いた法廷が「ニュルンベルク継続裁判」と呼ばれるものです。アメリカ軍がニュルンベルク裁判の後に設置し、「医師裁判」「法曹裁判」「捕虜裁判」等、12の裁判が行われました。
このうち、「医師裁判」は、ナチス体制下で重い地位にあった医師や医療関係者、ナチス・ドイツの人体実験等に関与した者たちを裁いたもので、23名が被告人とされ、うち、7名が絞首刑となりました。
この裁判の判決のなかで「許可できる医学実験」と題された部分が「ニュルンベルク綱領」とされ、第1項目の「被験者の自発的な同意が絶対に必要である。」から第10項目の「実験の進行中、責任ある立場の科学者は、彼に求められた誠実さ、優れた技能、注意深い判断力を行使する中で、実験の継続が、傷害や障害、あるいは死を被験者にもたらしそうだと考えるに足る理由が生じた場合、いつでも実験を中止する心構えでいなければならない。」まで、研究目的の医療行為を行うにあたって厳守すべき10項目の基本原則です。
その後、これを発展させ、1964年6月、「人間を対象とする医学研究の倫理的原則」として、世界医師会(WMA)は「ヘルシンキ宣言」を採択し、その後の修正を行いながら現在に至っています。
この「ヘルシンキ宣言」は、医学研究に対する倫理審査を行うにあたって、常に念頭に置いて拠り所とすべきバイブル的存在と言えるものです。
3 今回ご報告するショッキングな人体実験は1932年から40年間にわたり、600人の黒人を対象にして米国公衆衛生局が実施していたもので、その地名から「タスキギー梅毒人体実験」と呼ばれているものです。
以下の記述は、京都大学名誉教授で日本生命倫理学会初代会長であった星野一正教授の論稿からの引用です。(時の法令1570号「タスキギー梅毒人体実験と黒人被害者への大統領の謝罪」)
「米国公衆衛生局はアラバマ州タスキギー郡やその周辺に住む黒人について治療をせずに放置した場合の梅毒の影響を調べる実験を40年にわたり行っていた。その対象は、黒人男性で、399名の梅毒罹患者と201名の非罹患者であったが、実験が開始された段階で梅毒罹患者全員は末期であった。なぜなら梅毒の末期に起こる種々の重篤な合併症についてより多く研究することが目的であったからである。」
「この実験には、一切の計画書が存在せず、実験手順は、進行につれてできていったらしいことが分かった。」
「梅毒は潜伏期の第1期から第3期まで、全身の骨が侵されたり、心臓循環器や脳神経系が侵されて進行性の麻痺、難聴、失明などを起こし、終末期を終えて死に至るが、1969年の時点で、約100名にも及ぶ被験者が梅毒によって死亡していた。」
「治療しなかった場合に起こる梅毒の症状の経過を研究するために、米国南部の無教育で貧乏な黒人を観察対象(動物実験のモルモット代わり)として実施された。
被験者とされた黒人たちにはまったく梅毒実験のことは伝えられてなく、実験材料にされることも知らされていなかったので、被験者になることへの同意もなかった。」
「医師たちが実際に黒人たちをどのように説得したのかを探ることは難しかったが、実は、政府が実施する検査や医療を受ける登録をした者は、無料で身体検査をしてもらえ、自宅から診療所への往復の交通費は無料で、身体検査日には温かい食事が出され、簡単な病気の場合には無料で診療され、死亡時に部検をさせた場合には年金がプラスされて支給されるという魅力的な交換条件がつけられた。」
「タスキギー梅毒実験における被験者は、すべて教育程度が低く、経済的にも貧しい下層階級の少数民族の黒人であった。当然、人種差別の中であえいでいた。そのような環境において、政府が黒人のために、医療を無料で提供するばかりか、幾つかの恩典をつけて《政府の医療計画が梅毒人体実験そのものであることを内緒で》参加登録を奨励したので、人種差別で苦しめられ続けてきた黒人たちは喜んで登録したのだったが、それは、さらに酷い黒人差別の政府の計画だった。彼らは40年の長きにわたって、政府に裏切り続けられたのであった。治療が受けられると思っていた黒人被験者たちは、梅毒に対する治療は全くされず、たとえ薬を与えられた場合でも、それはプラシーボ(治療目的の疾患には効果的な薬効のない物質)を与えられたらしいのである。」
「米国公衆衛生局は、この人体実験のために、リバースという黒人の看護婦を配置した。米国公衆衛生局から配置された医師たちは交代が多く顔や名前がよく変わり、仕事に継続性がなかったので、タスキギーの住民であったリバースが1932年以来のすべての被験者と医師たちの間の連絡を取り、教育程度が低い南部黒人社会の方言や慣習に基づく住民感情などを知らない医師たちとの間の溝を埋め、意思の疎通をはかったりしていた。」
「リバースが被験者を死に至らしめるという恐ろしい『タスキギー梅毒実験』のために政府側の一員として働いていることを住民たちは全く知らなかった。」
「リバースは、診察を受けに行く被験者たちを、政府の紋章のついたピカピカのステーションワゴンに乗せ、家族や近所の人々に手を振らせて診療所まで連れて行った。これは『政府と診療契約を結んだ住民の特権』としてうらやましがられたようである。」
4 「この『タスキギー梅毒実験』は、1972年7月に新聞報道によりその実態が明らかにされたが、これに対する米国公衆衛生局のスポークスマンは、実験が秘密裏に行われていたことを否定した。」
「タスキギー梅毒実験の弁護者たちは、この実験が開始された当時、梅毒に対する治療法によって果たして梅毒患者が救われたかどうかは疑わしかったと主張した。当時の医学のレベルから治療の有無の功罪を比較した時に、梅毒患者には治療しないほうが害が少ないと判断したのであって、『タスキギー梅毒実験』が道徳的な配慮もなく、企画されたとは言えないと主張した。」
「しかし、1945年ころにペニシリンが臨床に使えるようになり、梅毒の治療に非常に効果があることが分かってからも、ペニシリンを含む一切の治療を実施しなかったことに対する弁明に窮した。政府のある医師は『本実験における最も批判されるべきことは倫理問題である』と言い、他のスポークスマンは『1946年になぜタスキギー梅毒実験を中止しない決定をしたのか、その理由がわからない』と言明した。」
「ちなみに、1946年にはニュルンベルク裁判があり、翌1947年には、ヒトを対象とした医学的実験に対する『ニュルンベルク倫理綱領』が採択されている。
尚、1972年には、インフォームド・コンセントも確立しており、米国のある病院のラプキン院長が、来院する患者や家族に対し、『患者としてのあなたの権利』という文書を配り始めた画期的な年でもあった。」
5 「1997年5月16日、クリントン大統領は、米国政府がかつて『タスキギー人体実験』として行った非倫理的な行為を反省して、生存している黒人老人とその家族にはもちろん、米国国民に対しても『あの研究活動は非人間的で残酷極まりない間違った行動で、学問的根拠もなかった』と正式に謝罪し、タスキギー大学に新たな研究センターを開設するために20万ドルを投資し、また、少数民族の学生のための新たな奨学金制度を設け、より多くの黒人に医学的研究を生涯の職業として従事してもらえるように努力するとの声明を出した。」
6 歴史的な一つの出来事は、最大の教師だと思います。倫理審査委員を引き受け、文部科学省と厚生労働省が作成した「人を対象とする医学的研究に関する倫理指針」等も勉強しましたが、ほとんど、頭に入りませんでした。
この人体実験に関与した医師たちは2~3年で交代したということから推定すると数十人にも及ぶと思いますが、40年間、誰一人として、その非倫理性を訴えることはなかったようです。
事実が明らかになってからも、「梅毒には有効な治療行為はなく、治療しないことが有効であった。」等と主張した弁護者たちは許せませんが、もし、私が公衆衛生局からタスキギーに配置された医師であったとしたら、たぶん、リバースに教えられるままに、被験者たちに事実を知らせず、任期を終えて、タスキギーを去っていったと思います。
専門家としての責任を感じながらも自分の弱さを自覚し、医学的研究に対する倫理審査を行っていきたいと考えています。
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