🛲4」─5─中国人墓地から考えるフィリピン華僑の歴史と抗日歴史観と中国共産党の戦略。~No.27No.28No.29 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 世界中で活躍していた華僑や華人の90%以上が反天皇反日の抗日として、現地の欧米植民政府に協力して日本軍と戦い、植民地支配利得者として軍国日本のアジア解放を拒絶し地元原住民独立派を弾圧していた。
 共産主義者無政府主義者などの反天皇反民族反日的日本人は、天皇支配を崩壊させ、軍国日本を打倒する為に日本を攻撃する全ての外国勢力に協力していた。
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 ソ連コミンテルン・国際的共産主義勢力は、アジアに共産主義者を増やしていた。
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 キリスト教会は、アジアで信者を増やす為に布教活動を活発に行っていた。
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 民族主義に目覚めた一部の少数派原住民は、白人の植民地支配と華僑・華人の経済支配から独立を勝ち取る為に、日本軍を「アジアの希望の光」「植民地支配からの解放者」として受け入れ協力し共に戦った。
 敵の敵は味方である。
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 中国共産党のアジア侵出戦略は、相手国に毛沢東主義共産主義を輸出し利益で親中国派媚中派を増やして人民革命を起こして支配下に置く事である。
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 2024年8月25日 YAHOO!JAPANニュース Wedge(ウェッジ)「中国人墓地から考えるフィリピン華僑の歴史と抗日歴史観
 (2024.3.13~5.1 50日間 総費用23万8000円〈航空券含む〉)
 ドゥマゲティの中国人墓地。奥の高台のあたりにはまるでチャペルのような建屋式墓が見える。手前は西洋式の墓。この墓地の特徴は墓の大きさやデザインが多様なこと
 レイテ島、マッカーサー元帥が上陸したタクロバン市の中国人墓地
 8月18日。タクロバン市郊外の田舎道の脇の中国人墓地。1978年に建てられた墓地の正門には『萬江義山』とあった。
 建屋式の墓には〇公□□佳城と書かれている。写真の墓には姚公文挙佳城とあった。墓碑には俗名と戒名(贈名)が刻まれている。出身地は姚氏夫婦ともに福建・普江・内坑(現在の福建省泉州市普江市内坑鎮)注:現代中国では泉州市のような大都市では行政単位として下級市と県があり、その下の最小行政単位が鎮である 普江は金門島の対岸付近。夫は1916年~1993年、夫人は1920年~2004年。
 隣の楊公杯河佳城は楊氏夫婦、カトリックに改宗、出身地:福建・南安・新墟(夫:1901~1998、夫人:1903~1980)現在の福建省泉州市の南安市新墟鎮であり普江市の隣だ。
 共同墓地にはこのような建屋式墓地が250くらい並んでおり、現在建築中の建屋式墓地も数か所あった。費用が安く済む屋根のない西洋式の墓も200基くらいあった。
 タクロバンの中国人墓地に眠っている人々の生きた時代背景
 西洋式の墓は墓碑が姓名のみの簡素なものが多く、または風雨にさらされ碑文が不鮮明であった。そのため墓碑に故人の姓名・出身地・生年月日などが刻され判読可能な建屋式墓地を20基調べたところ下記のような特徴が浮かび上がってきた。
■出身地
 33人すべてが福建省出身。普江が17人、南安13人、泉州3人。全員が現在の泉州市の出身。
■宗教:7割がカトリックに改宗。
■生年別内訳
 1900~1910年:8人
 1911~1920年:13人
 1921~1930年:8人
 1931~:3人
 生年月日が1900~1930年の世代が9割。しかも両親や祖父母を合祀している墓はなかったので大陸からの移住者の第一世代が大半と思われる。若くても10代後半、恐らく20代から30代で渡航してきたのではないか。大陸では日中戦争国共内戦、共産化の混乱期、すなわち1935年から1950年代初頭にかけて単身又は夫婦で渡航してきたと推測される。出身地が同一の夫婦が多いのもそうした背景があるのではないか。
 つまり戦中・戦後の混乱期に主に福建省泉州からフィリピンに渡航して、タクロバンに定住した数百人くらいの華僑の人々が『萬江義山』墓地に眠っており、そのうちの7割程度はカトリックに改宗した。
 今もなお記憶されている占領期の日本軍の蛮行と抗日運動
 福建省南安出身の楊氏一族の建屋式の墓で墓碑を調べていたら、墓参に来た家族と遭遇した。楊家の現在の家長の祖父は戦前にタクロバンに移住。日本軍が進駐すると財産を没収され、終戦まで刑務所に収監され拷問を受けたという。日本軍は軍費を賄うために華僑に対して金品供出を命令したが祖父が全額は払えないと抵抗したのでゲリラ容疑で逮捕されたという。
 ボルネオ島のコタキナバルの中華街の古老からも、全く同様の話を聞いたことを思い出した。古老の父親も同様の理由で終戦まで収監された。古老の友人の漢方薬卸問屋の主人の父親は、日中戦争で中国の故郷の家を焼かれ、コタキナバルに移住して苦労の末に開業したが日本軍の空爆で全焼。日本軍に二度も酷い目にあったので、日本人は嫌いだと吐き捨てた。コタキナバルでは日本軍の金品徴発と蛮行に対して華僑義勇隊が一斉蜂起した。その詳細が中華学校歴史読本に載っていた。
 ネグロス島ドゥマゲティ市の中国人墓地
 2024年3月。ドゥマゲティ市郊外ドロ地区の中国人墓地。敷地は500メートル四方くらいか。正門には「華僑義山Cemetery」と書かれ、その上に十字架が立っていた。
 墓参に来ていた家族に聞くと、この中国人墓地に新たに埋葬する余地がないので、2010年以降は新しい中国人墓地に埋葬しているという。タクロバンの共同墓地より規模が大きく、建屋式の墓よりも西洋式の墓のほうが多い。生年は1910~1930年代が最も多いが19世紀末も散見される。出身地はざっと見たところやはり福建省が圧倒的多数で広東省が数人程度だった。そしてほぼ全ての墓に十字架が見られた。やはり戦中・戦後の混乱期に渡航して来た人々が過半を占めるようだ。
 パナイ島イロイロ市の中国人墓地
 2024年4月。人口40万人の大港湾都市であるイロイロ市には大きな中華街がある。中華街から10キロほど北に『華僑義山Chinese Cemetery1969』と正門ゲートに書かれた中国人墓地があった。墓地の敷地面積はタクロバンやドゥマゲティよりもかなり狭い。全体の四分の一程度の130人ほどの墓碑銘を調査した。
 まず数基を除いてすべての墓に十字架があった。墓碑銘から読み取れたのは以下のとおり:
■出身地:
 福建省:74人(普江48人、南安19人、厦門7人)
 広東省:12人(台山3人、永寧3人、以下1人開平、思明、恵安、永春、興寧、嗎頭)大半はマカオの南西部の沿岸部
 出身地不明:40人 比較的新しい西洋式の墓(屋根のない)では大半が出身地記載なし。姓名も英字表記のみで漢字表記なし。
■生年:
 1899年以前:8人
 1900~1910年:20人
 1911~1920年:11人
 1921~1930年:11人
 1931~1940年:8人
 1941~1950年:8人
 1951年以降:9人
 イロイロの中国人墓地から見えるのは何か   
 比較的に新しい墓に出身地の記載がなく英文表記なのは大陸から移住して三世以降になると日常会話がタガログ語・ビサヤ語・英語となり中国語を話せず漢字を読み書きできないという背景がある。フィリピン華僑の大半は中国語を話せず自分の姓すら漢字で書けない人がほとんどだ。稀に中国語の読み書きができる老人もいるが移住一世の人たちである。
 何世代か後になると、祖先の出身地についてはせいぜい“中国の南の方の海の近くらしい”くらいしか子孫は知らない。カトリックに改宗して混血して生活習慣・言語もフィリピン社会に同化しているので祖先の出身地が意味を持たなくなるのだろう。
 華僑の1世には死ねば魂は故郷に帰るという死生観があるので、2世が親の墓を建てるときは出身地を必ず墓碑に記す。他方で2世、3世の墓を子孫が建てるときは、生まれ故郷が中国ではなく、出身地の漢字も分からないので出身地を記す必要性も方法もないのだろう。
 この墓地は1969年に開かれたが墓碑を見ると、自分が生前に墓を建てたときに既に物故した両親を合祀しているケースが散見された。19世紀末~20世紀初頭の生まれの人の多くは子供が墓を建てた時に合祀されている。
 いずれにせよ、イロイロ市の中国人墓地にも戦中・戦後の混乱期に大陸から混乱を逃れて渡航してきた人々も多数含まれているようだ。
 セブ島の富裕層華僑が眠る公園墓地
 本編第8回(【フィリピンの中華街と華僑ビジネス】世界最古のチャイナタウンと言われているのがマニラ中華街)にてセブ島の華僑富裕層の超高級住宅エリア“ビバリーヒルズ”を紹介した。
 2022年8月。セブ・シティー市街地から数回路線バスを乗り継いで郊外の丘陵にある公園墓地に辿り着いた。ゲートのガードマンに挨拶すると墓地へ至る遊歩道を歩くように勧めてくれた。
 丘陵全体が人工的に整備されており自然公園の中のテーマパークのようだ。古代ギリシア風の彫刻がそこかしこにあり、古代ローマのような噴水庭園もある。ギリシア神殿のような建物が丘の上に見える。全体が古代ギリシア・ローマの様式美でデザインされている。
 ゆるやかな丘陵に囲まれた空間に高級石材を使った真新しい墓が点在している。十字架やマリア像が置かれた西洋的な墓と中国の伝統的な墓が半々くらいか。1920年代~1940年代に生まれた世代が多い。中国の出身地を記した墓碑は一つもなかった。ここに墓を建てた現在の世代では既に中国の出身地は意味を持たないのであろう。
 歴史を感じさせる広大なマニラ中国人墓地
 2022年8月。正門には『華僑義山』と書かれ、正門の手前には花、線香・蝋燭の売店、仏具屋などが門前町を形成している。金持ちが寄贈した仏塔、仏像、道教の廟、鐘楼などが至る所にある。豪華な建屋式の墓が立ち並ぶ区画を歩くと華僑の財力に圧倒される。
 出身地の記載のある墓碑を少し調べたがやはり福建省の普江と南安ばかりであった。そして新しい墓碑は英文表記のみで出身地の記載はない。
 『抗日英雄』の記憶は東南アジア華僑全体に共有されている
 中国人墓地で共通するのは戦時中の日本軍に対する“抗日”である。墓碑に個人の事績として抗日運動が記されている墓もある。またタクロバンやマニラの墓地には、抗日英雄記念碑が建てられていた。マニラには『抗日烈士英雄門』、『フィリピン華僑抗日烈士記念碑』、『フィリピン抗日烈士記念館』があった。中国語の碑文によると日本軍は華僑の財力に目を付け軍資金徴発のため華僑社会を過酷に支配したようだ。
 マレーシア、シンガポールインドネシアなどの華僑も同様の苦難を強いられた。東南アジアの経済を支配する華僑は日本軍の蛮行を決して忘れていないことを日本人は心に留めなければならない。
 中華民国総領事館員全員を殺害した大日本帝国の国際感覚欠如
 マニラ中国人墓地の広大な敷地の中央にひときわ高く聳える慰霊塔があった。碑銘には『楊光生(正式の漢字はサンズイに生)総領事と殉職館員記念碑』とあり蒋介石から「効忠成志」の揮毫を贈られている。端正な楊光生の肖像には「丹心千古青史永存」(真心は永遠に歴史に残る)と記されていた。
 楊光生は米国プリンストン大学で政治経済学修士号、哲学博士号取得。ワシントン大学ジョージタウン大学で客員教授。帰国後は精華大学教授。国民党政府の要請で外交部の要職を歴任。その後ロンドン総領事館兼務で欧州各国への対外宣伝活動に従事。経歴が示すように国際派知識人である。
 1940年からマニラ総領事。日本軍占領後は華僑の保護に挺身。当時の日本政府は重慶蒋介石国民党政府を承認せず、南京の汪兆銘政権を中国代表とした。在マニラ日本領事館は楊総領事に国民党政府を捨て、汪兆銘政権の配下に入ることを要求。さらに華僑を指導し、大東亜共栄圏構想に従い日本軍に協力して巨額の軍資金を供出させるよう要求。
 楊光生が日本の要求を拒否すると、日本軍は“抗日工作”の罪名で逮捕。数カ月の説得工作・脅迫にも楊総領事は屈せず、遂に日本軍は1942年4月に総領事と館員をマニラ中国人墓地で秘密裏に殺害。これが『外交九烈士殉職事件』である。
 欧米各国が中国政府として正式承認していた蒋介石政府にとり、日本軍による外交官殺害は、日本軍の残虐非道をアピールする格好の対外宣伝材料となったであろう。フィリピンの日本軍政下の陸軍や、外務省の当局者の中に国際情報戦略を少しでも考える国際派エリートはいなかったのだろうか。
 自分たちの要求に従わない不都合な人間は殺してしまえ、という短絡思考が軍政下で蔓延していたとすれば、大日本帝国にはそもそも統治者としての資格も能力もなかったと言える。
 以上 次回に続く
 高野凌
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 8月11日 YAHOO!JAPANニュース Wedge(ウェッジ)「フィリピンの中華学校中国共産党の世界戦略
 『日本の対極にある国、フィリピン島巡り(続編)』第7回
 高野凌( 古希バックパッカー
 フィリピンの中国人社会はマレーシアやタイとはどこか違う
 マゼランがセブ島に上陸して以来、フィリピンは400年もスペインの支配下にあったが、唐の時代から現代まで大陸から中国人はフィリピン各地に綿々と移住してきた。そして大半は混血によりフィリピン社会に同化した。
 フィリピンではスペイン系はメスティーソ、中国系はチノイ、フィリピン系はピノイと呼ばれる。人口比率では諸説あるようだがチノイは20%弱、メスティーソは数パーセントで圧倒的多数はピノイのようだ。代々混血して生活・言語もピノイに同化しているので一見してメスティーソ、チノイと分かるケースは少ない。例えばコラソン・アキノベニグノ・アキノの二人の大統領を輩出したアキノ家や大財閥はチノイである。
 アジア各国の華僑社会に詳しい知人のI氏によると華僑はその土地で中華街を形成する。そして華僑会館(出身地別会館もある)、中華学校、中華新聞、中華商工会議所、中国人共同墓地などを設ける。筆者の見聞ではボルネオ島のコタキナバルの中華街が典型的だ。(I氏の知見を含めて『驚異の華僑ネットワークの真髄を覗く』ご参照) 本稿ではフィリピンの中華学校を取り上げる。
 中国人キリスト教会と新設のキリスト教中華学校
 『ドマゲッティ中国人キリスト教会』のイースター・ミサの後の朝食会。当日は180人ほどが参集。大半の信者は中国語を話せないチノイである
ギャラリーページへ
 ドマゲッティ中心街に位置する1928年創立の聖十字架中国中学を訪問(本編第5回参照)。この老舗中華学校の過半の生徒はピノイである。教育水準が高くキャリア形成に有用な中国語を習得するのが入学動機だ。近隣の中国人キリスト教会に行くと郊外に運動場、プール、実験室などを完備した中華学校、“DACCA”を新たに開校したと説明を受けた。
 3月31日。ドゥマゲティ中心街から郊外へ約6キロにあるDACCA訪問。広い敷地に体育館、運動場、テニスコート、プール、そして新しい四階建ての校舎。イースター休暇で休校していたがガードマンから話を聞けた。
 DACCAとはドゥマゲティ博愛中国人キリスト教徒学院(Dumaguete Agape Chinese Christian Academy)の略称。2011年開校、現在生徒数約200人。幼稚園、小学校、中学(2年まで)。校舎や敷地の規模から今後さらに生徒数を増やして高校までの一貫教育体制にするという計画も頷けた。
 聖十字架中国中学の正門。案内してくれたディレクター氏は教団から派遣さ れた40歳くらいの教育管理の専門家
 繁華街に位置する聖十字架中華学校は生徒数約660人で狭い中庭を囲んで校舎が敷地一杯に建てられ拡張余地はない。それで郊外に新たに中華学校を建設した訳だが支援母体のドゥマゲティの中国人キリスト教会は信者数300人ほどだ。
 キリスト教徒以外も含めてドゥマゲティの中国人社会はせいぜい1000人程度の規模と聞いた。改めてフィリピンにおける華僑の財力と教育熱心ぶりに感嘆した。
 『ドマゲッティ博愛中国人キリスト教学院』の掲示板に学校の運営指針をビ ジョン、ミッション、コア・バリューが掲げられていた。他の中華学校でも同様の運 営指針が掲げられていた
 ネグロス島西部のバコロドの華明中学
 歴史を感じさせるバゴロドのセント・ジョン・ミッション華明中学の正門。キャンパスには大きな近代的校舎・体育館が並んでいた
 4月2日。バゴロド市は人口56万人、ネグロス島最大の港湾都市。ホステルの近くに華明中学があった。英文名称はSt.John Mission School。カトリック系の中華学校だ。
 守衛に話すと校長室へ案内された。1959年開校、今年創立75周年。現在当該本校に1300人、郊外の分校に400人、合計1700人が在籍。女性校長は穏やかな人柄で紅茶とクッキーを勧めながら説明してくれた。母体は中華学校であるが生徒は中国系フィリピン人(チノイ)は半数。残りはピノイという。
 幼稚園・小中高一貫校である。やはり将来ビジネスで有用という実利面から中国語は生徒に人気があるという。
 リベラルな女性校長
 校長先生自身もこの学校で学びマニラの大学を卒業してから大学で教えていたという経歴。15年前から当校の校長を務めている。校長自身はフツウのフィリピン人の家庭で育ったので中国語はできないが、父方の先祖が100年くらい前に福建省から渡来したらしいという。
 校長によるとほとんどのフィリピン人は祖先に中国から渡来した人がいるので余り中国系フィリピン人(チノイ)を区別するという意識がないし区別する意味もないという。
 商業港湾都市の中華街の老舗中華学校
 4月4日。フィリピン中部のスペイン植民地時代から栄える商業港湾都市。港近くの中華街は活気に満ちている。その中華街のど真ん中に位置するのが中華学校。入口に地元中国商工会議所が全面的に支援していると大書されていた。
 守衛室で「日本から来た」と挨拶すると、女性校長先生のところまで案内してくれた。20世紀初頭に開校したフィリピン屈指の名門中華学校らしい。運営は商工会議所と同窓会が資金面を支えている。中華街のメインキャンパスだけでは手狭なので郊外にキャンパスと学生寮・運動場などを増設したと。現在本校800人余+新校舎600人余=合計1600人在籍。幼稚園・小中高+商科大学という一貫教育。生徒はチノイよりピノイのほうが多い。
 高校卒業後はマニラなど国内大学のみならず海外留学する生徒が多いという。全国私立学校コンクールで数学、科学、弁論で優勝・準優勝しているほど学力レベルは高いという。マンダリン(標準中国語)の授業では面白いことに中国系生徒よりもフィリピン人生徒の方がむしろ熱心らしい。
 興味深い女性校長の来歴と奇異な国際感覚
 女性校長は精力的な敏腕経営者という雰囲気。香港生まれで1960年代末に小学生の時に家族とフィリピンに移住。当時は中華人民共和国成立後約20年、東西冷戦期でチェコの“プラハの春”をソ連軍が蹂躙、中ソ対立激化という時代。
 彼女自身もこの中華学校の卒業生。なんと英語・広東語の他に北京語(標準中国語)・福建語・タガログ語・ビサヤ語を話すというマルチ・リンガル国際人。彼女は親戚・友人がいるのでしばしば香港へ遊びに行く。さらには中国大陸にも頻繁に視察や観光で訪問するという。
 共産党支配に対する批判的見解を引き出そうと質問したが、彼女は「現在の香港や中国に何ら違和感を覚えないし経済的に発展して安定している香港や中国が好きだ」と断言した。さらに「香港では政治的自由が奪われているのでは?」と水を向けると「法律に抵触しなければ自由に生活できるし問題ない」と反論。
 そして「最近は福島の汚染水が恐いので魚介類を食べない。日本人は政府の言論統制のせいで汚染水の深刻な問題を知らされていない。日本の言論規制は先進国では最下位と報道されているのは当然ですね」と口にした。まるで、中国外務省報道官のような発言である。ましてや、処理水ではなく、汚染水と言うところなどもそっくりである。後々考えてみたら……。
 日本の中華学校は中国派と台湾派に
 帰国後に日本国内の中華学校を調べてみた。日本に亡命中の孫文が在日華僑子女の教育のために提唱して現在の横浜中華学院が設立されたのが嚆矢という。その後東京、大阪、神戸にも開設された。戦後中華人民共和国が成立すると、台湾の国民党支持派と中国支持派に分かれたようだ。台湾支持派は横浜中華学院、東京中華学校、大阪中華学校、中国支持派は横浜山手中華学校神戸中華同文学校となっているらしい(筆者注・学校に通っている子どもたちが中国系や台湾系かを支持しているのかどうかは筆者には分からないし、思想の話をしているわけではなく、あくまでも歴史的経緯を記している)。
 ちなみに横浜山手中華学校には2008年に当時の胡錦涛国家主席が訪問している。夏休みのキャンプは中国で修学旅行も北京だ。中国の公立学校との交流も盛んなようだ。中国からの物的支援もあり神戸中華同文学校は中国駐大阪領事館から大型衛星アンテナの寄贈を受けている。他方で台湾系の3校も相互に密に交流して台湾国立大学と提携している。
 韓国政府認定の韓国学校朝鮮総連系の朝鮮人学校のように分かれているのだ。
 フィリピンの中華学校の特徴はなにか
 ドマゲッティ市中心街の聖十字架中国中学、同市郊外の博愛中国人キリスト教徒学院、バコロド市のセント・ジョン・ミッション華明学校、そして老舗中華学校の四校を訪問したことでフィリピンの中華学校については以下の特徴があることに気づいた。
 生徒の過半数は純粋なフィリピン人(ピノイ)である。
 授業は英語・日常言語(ビサヤ語またはタガログ語)で行われる。
 標準中国語は選択科目として教える。
 フィリピン政府から認可された正規の私立の幼稚園・小中高一貫教育機関である。カリキュラムも教育省の指導要領に準拠。
 キリスト教系の中華学校が多い。スペイン植民地時代から戦前までの期間に移住してきた中国人は大半がカトリックに改宗しているので中華学校の設立・運営にキリスト教団が関わってきたものと思われる。例えばボルネオ島のコタキナバルの小中高一貫中華学校はマレーシア政府から認定された正規教育機関であるが、①②③⑤は大きく異なる。生徒は華僑子弟中心、授業は英語・中国語で実施。もちろん中国語は必須科目。キリスト教団の関与・支援はない。フィリピンのキリスト教中華学校は他の国の華僑学校とはかなり異なっている。
 中国共産党の在外中国人組織化による影響力拡大戦略
 中国共産党は世界各地の6000万人以上と推計される在外中国人を中国国務院華僑事務弁公室(国僑)で統括している(『驚異の華僑ネットワークの真髄を覗く』拙稿最終章ご参照)。 つまり在外中国人を組織して中国共産党の影響力の浸透拡大を世界各地で図っている。当然在フィリピンの大使館・領事館・政府系機関の担当官が国際親善・文化交流・交換留学生促進など様々な名目の活動を行うと同時に裏の活動も行っているであろう。
 フィリピンでは教育省の予算不足により公立学校ですら校舎・教員不足が深刻である。文科省から私学助成金が生徒人数分に応じてもらえる日本の私学と異なりフィリピンで私学の運営は財政的に厳しい。キリスト教団の財政支援のない一般の中華学校中国共産党にとり格好のターゲットであると推測する。老舗中華学校の女性校長の気になる発言の裏には有形無形の中国共産党の影響力があるのだろうか。
 以上 次回に続く
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