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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2020-10-14
🛲5」─4─ベンガル飢饉、餓死者約300万人。歴史的飢饉はチャーチルのインド人嫌悪が原因。〜No.39No.40No.41 *
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2020-10-16
🛲5」─5─昭和天皇とインド。チャンドラ・ボースと靖国神社。パキスタン地震と自衛隊。1989年~No.42No.43No.44 *
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2020-10-20
🛲5」─8─パンジャーブ州飢餓。戦前の日本人達は、インドの食料増産の為に植林活動を行った。1965年。~No.52 *
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2024-06-27
💖18)─4─戦争の最中、日本陸軍と宣撫官は1,000万人以上の中国人飢餓民を助けていた。〜No.77No.78No.79
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2017年8月14日 クーリエ・ジャポンクーリエ・ジャポン「「終戦記念日」特別寄稿 「日本軍が去った後、村は火の海と化した」目撃者が語るインパール作戦の真実
ナガランドの著名な平和活動家ニケツ・イラル氏(左)の自宅で取材にこたえるサヴィド・ナギ氏
PHOTO: YUI NAKAMURA / THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION
ナガランドの著名な平和活動家ニケツ・イラル氏(左)の自宅で取材にこたえるサヴィド・ナギ氏
PHOTO: YUI NAKAMURA / THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION
NHK朝ドラ「ひよっこ」のヒロインの叔父・宗男が凄惨な戦争体験を明かしたことで、じわじわと関心を集めている「戦い」がある。太平洋戦争中、インド北東部で遂行された「インパール作戦」だ。
補給路がないという杜撰な戦略のもと進められたこの作戦は、「太平洋戦争で最も悲惨な戦い」と評され、参戦した日本兵のおよそ9割に当たる約7万8000人が命を落としたと言われている。その主な死因は戦死ではなく餓死だ。敗走路となった現在のアジアハイウェイ1号線にはおびただしい数の遺体が積み重なり、そのいたましい光景から「白骨街道」という名がつけられた。
この激戦は、戦場となったインパールやコヒマの人々にも大きな爪痕を残した。だが、日本でもこの負の歴史が積極的に語り継がれてこなかったように、現地でも長らく触れることは禁忌とされてきた。ところが、いま地元インドの人々の手によって、その記録を後世に伝えようとする動きが起きている。
なぜ、彼らは忘れかけていた戦争の記憶を収集しようとするのか? 地元の人たちの目に、日本軍の姿はどのように映ったのだろうか?
インパール作戦の真実
この記事は1回目/全2回
無謀な作戦のせいで膨大な数の犠牲者を出した「インパール作戦」は、日本にとっては太平洋戦争最大の汚点であり、葬り去りたい過去でもある。だが、戦場となったインド北東部では、身元不明の遺骨や遺品の発掘や、戦争経験者の証言収集などといった、激戦の記録を残そうとする取り組みが始まっている。
インパール作戦の真実
この記事は2回目/全2回
笹川平和財団主任研究員の中村唯氏の寄稿でお届けする。
「インパール作戦」を記録する人々
インド北東部マニプール州の州都インパールでは、土に眠った武器や遺品を掘り出すことで、「インパール作戦」の歴史を記録し、検証する取り組みを続ける人々に出会った。
2013年に設立された「第2次大戦インパール作戦財団」(以下、インパール作戦財団)の共同創設者の一人ラジェシュワル・ユムナン氏は、遠くパンジャーブ州の大学で社会学を修めた後、故郷のマニプールの電信電話会社に就職した。彼はインパール作戦の調査を始めたきっかけについて、こう語る。
インド北東部マニプール州
PHOTO: VIPIN KUMAR / HINDUSTAN TIMES / GETTY IMAGES
「すべては10年前に始まりました。当時インドは、携帯電話が爆発的に普及しはじめた頃で、電波塔を建てるために州内の遠隔地まで足を延ばすようになりました。そこで、村人からたくさんの戦争の話を聞いたのです。
彼らの話から、戦争の規模の大きさと深刻さに驚きました。親戚が当時の様子や被害について話題にすることはあっても、その歴史を我々は学校でまったく学んでいなかったからです」
マニプールの作家のクライジャン・ニマイチャラン氏によると、1944年に開始したインパール作戦より以前から、インパールの人々は戦争に直面していたという。
1942年、すでにビルマまで侵攻していた日本軍が2回にわたってインパールを爆撃し、それを機にほとんどの市民が地方へ疎開。特に1回目の爆撃は規模が大きく、市街地が焼失した。
その数ヵ月後、市場や病院が機能を停止したため、連合軍の部隊が到着するまで2~3ヵ月の間、人々は過酷な生活に苦しんだ。さらに、ビルマから非常に多くの難民がやってきたことが追い打ちをかけ、餓死した人たちも多かった。
当時の日本軍
PHOTO: 2ND WW IMPHAL CAMPAIGN FOUNDATION
戦争の記憶によってつながる人々
その後、連合軍がやってきてから、生活は多少落ち着きを取り戻し、日本軍を迎え撃つために次々と建設された道路などのインフラ工事で稼いだ人たちも増えた。
1年後の1943年4月20日、再び街は空爆に襲われる。だが、戦争中、最も住民が被害を受けたのは、日本陸軍2師団とインド国民軍がインパールに侵攻した、1944年3月からの3ヵ月間である。
日本軍が敗退する7月まで、マニプール各地で戦闘が繰り広げられた。戦争で生活は困窮し、コレラなど疫病も流行。現地の人々の生活がようやく元通りになるのは、2年後の1946年ごろだったという。
先述のラジェシュワル氏は語る。
「私が特に驚いたのは、村々から発見される爆弾や遺品や武器、爆弾の多さでした」
2008年ごろから、戦跡の発掘調査はより本格的になった。軍人だった父の影響を受け、独自に戦争について調査をしていたエンジニアのアランバム・シン氏、そしてジャーナリストら友人たちもメンバーに加わった。
ラジェシュワル・ユンナム氏(左)とインパール作戦財団のメンバーたち。アランバム・シン氏(左から2人目)の自宅を改装した展示室にて
PHOTO: YUI NAKAMURA / THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION
活動を進めるうち、インパールに慰霊目的で訪問する元兵士や家族たちと知り合いになった。友人になった英国陸軍の元兵士から記録や情報を共有してもらい、遺族や戦友の代わりに花を手向けるなどの活動も始めた。日本人の友人もできた。
「村々で始めた活動が、一気にグローバルに広がったことに興奮しました」とラジェシュワル氏。
その後、英国に拠点を置き、日英両国の相互理解と和解を促進するために結成された「ビルマ作戦協会」との交流を深め、有志のボランティア活動だったものを、インパール作戦財団として少しずつ制度化した。
2014年5月19日の「インパール作戦70周年記念行事」には、日英豪の各国大使が出席し、大きく報道された。活動の知名度が上がると、マニプール各地から若者も数多く参加するようになり、現在ボランティアの数は100人ほどに膨れ上がっている。
いまだに眠る身元不明の遺骨
発掘調査では、土の中に眠っている日本兵の遺骨にも出会った。初めて対面したときは、衝撃に震え、思わず手を合わせたという。
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