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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
フランスの第三身分は、日本の庶民(百姓・町人)とは違っていた。
フランスの貧民は、日本の賤民や部落民とは違っていた。
故に、フランス人民裁判は、国王と王妃を血に興奮する公衆の面前でギロチンで首を切断し、王家を消滅させ、王国を崩壊させた。
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2022-07-31
🏞75)─1─ルイ16世は蝦夷地・樺太調査目的でフランス艦隊を派遣した。1785年。~No.308 (天明5年)
2022-08-01
🏞75)─2─イギリスの蝦夷地植民地化計画と徳川幕府の対応。1796年。~No.309 (寛政8年)
2022-08-03
🏞75)─3─ロシアの対日戦略目的は初期は友好・交易で中期以降は領土・植民地であった。~No.310
2018-11-26
🏞76)─1─開国・尊皇攘夷前史。寛政日露交渉。松平定信。大黒屋光太夫。林子平。エカテリーナ女帝。~No.311No.312・ @ ㉔
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2024年8月4日7:00 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「フランス革命は行き過ぎだった」…近年、革命の評価が批判に変わってきた理由
パリオリンピック開会式の「マリー・アントワネット生首演出」が議論を巻き起こしている。フランス人にとって、フランス革命とはいったいどんな位置づけなのか?
【画像】マリー・アントワネット生首演出のコンシエルジュリーで虐待されたルイ17世
じつは近年、「あの革命は行き過ぎていた」という批判がなされている。革命の評価が変化した背景を探る。
【本記事は、『物語 パリの歴史』(高遠 弘美著)より抜粋・編集したものです。】
変わる革命への評価
「詩的レアリスム」の巨匠ルネ・クレール監督が1932年に発表した映画“Quatorze juillet”(7月14日)は、革命記念日の7月14日をタイトルにした作品ですが、日本では「巴里祭(ぱりさい/ぱりまつり)」というタイトルで公開されました。パリの下町を舞台に花売り娘とタクシー運転手の恋が抒情的に描かれた名作です。
ただ、原題は「革命記念日」「国祭日」を表す日附で、革命を祝うのはパリだけではありません。この日、パリではシャンゼリゼ大通りを軍隊が行進し、大統領が閲兵するほか、上空を飛行機部隊が整然と飛ぶ軍事演習さながらの光景が繰り広げられますが、地方では場所によって、昼間は鼓笛隊の行進があり、夜も更けてようやく暗くなる11時過ぎ頃から花火大会が催されます。
ルイ16世は愚昧ではなかった?
ルイ16世処刑の場面(GettyImages)
1789年7月14日、権力の象徴的存在だったパリのバスチーユ監獄を民衆が襲撃します。一般に、これをきっかけにフランス革命が勃発したとされること、以後しばらく記念祭が挙行されたことから、この日が革命記念日とされるようになりました。
フランス革命と言えば、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが斬首されたことが有名です。フランス歴代の多くの国王が死ぬまで、パリ以外の、ロワール川沿いの城館やヴェルサイユ宮殿で大半を過ごしたのと比べて、ルイ16世の場合は最初はともかく、とくに最期がパリと深く結びついています。
前の章で触れたように、ヴェルサイユ宮殿からパリの中心部のチュイルリー宮殿に移され、ヴァレンヌ逃亡事件以後は、民衆の軽蔑と憎しみを買い、タンプル塔に幽閉され、そこから直接現在のコンコルド広場に据えられた断頭台へ運ばれた、というだけで、ルイ16世とパリとの関わりは強く感じられます。
そういうなかで、ルイ16世は錠前作りと狩猟だけにうつつを抜かす愚昧な王だったという印象をお持ちの方は少なくないと思います。しかし、2005年に刊行されたジャン=クリスチャン・プティフィス著『ルイ十六世』(邦訳は2008年に上下巻で刊行)に代表される最近の研究では、ルイ16世は科学や哲学にも深い教養を持ち、農奴制を廃し、プロテスタントとユダヤ人の同化政策を進めるなどした英明な君主で、外交面でもアメリカ独立戦争に多大な影響を与える等、優れた啓蒙専制君主たりえた王だったとも言われるようになりました。
ただ優柔不断なところがあり、自ら信じる道を遮二無二進むことはできなかったことが、古代さながら生け贄によって体制刷新を図ろうとした時代の欲するままに、悲劇的結末を呼び込んだというのです。
歴史上の人物だけではなく、大事件も解釈が変わることは珍しくありません。フランス革命を、前近代社会から近代社会へと脱皮する転回点として高く評価してきた時代はそろそろ終わりを迎え、近年は行き過ぎた運動として批判する傾向が強まっています。
【つづき「フランス革命の「本当のきっかけ」…じつは「革命記念日」7月14日バスティーユ襲撃とは別に起きていた」】
高遠 弘美(フランス文学者/翻訳家)
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8月4日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「フランス革命の「本当のきっかけ」…じつは「革命記念日」7月14日バスティーユ襲撃とは別に起きていた
高遠 弘美フランス文学者/翻訳家
パリオリンピック開会式の「マリー・アントワネット生首演出」が議論を巻き起こしている。
じつは近年、「フランス革命は行き過ぎだった」と批判され、革命の評価が変わってきている。あの革命でいったい何が起きたのか?そのプロセスをたどる。
【本記事は、『物語 パリの歴史』(高遠 弘美著)より抜粋・編集したものです。】
「レヴェイヨン事件」…革命の引き金
「大革命」とも称されるフランス革命はバスチーユ襲撃がきっかけだったのではなく、1789年4月26日から28日にかけて、パリのフォーブール・サン・タントワーヌ地区で起こった大暴動「レヴェイヨン事件」を境にして一気に拡がったと考えるほうがよさそうです。フォーブール・サン・タントワーヌ通りは、今のバスチーユのオペラ座から見て二本東寄りの、11区と12区の境界にある通りです。
ジャン・バチスト・レヴェイヨンは、壁紙製造業者で、バスチーユから1キロメートルほど進んだあたり、現在のメトロ8号線「フェデルブ・シャリニー」駅近くのモントルイユ通り31番地2号に、自宅兼工場を持っていました(今では壁に標識がつけられています)。
レヴェイヨン事件(GettyImages)
その年はパンの価格の暴騰がひどく、日々の糧にありつけない労働者があまたいました。レヴェイヨンがパンの価格を下げるために提案した方法が結局は賃金を下げることだと誤解した労働者たちは、レヴェイヨンらの人形を燃やし、その自宅兼工場へ押しかけます。衛兵隊と衝突し多数の死傷者が出ました。それは単に、経営者対労働者の対立ではなく、富裕層に対する貧困層の食べるための戦いでもありました。
フランス革命は着々と烽火を上げ始めていました。
「第三身分とは何か」
レヴェイヨン事件と並んで、人々の意識を根本的に変えたのが、同年5月の全国三部会を見据えて1月に匿名で発表された政治家シエイエスのパンフレット「第三身分とは何か」でした。
聖職者と貴族以外の平民が第三身分と呼ばれていましたが、シエイエスは第一身分と第二身分に属する者たちの特権を廃し、国民の代表たる第三身分の労働者の利益を守るべきであり、三部会の人数も三つの身分代表を同数にし、票決も数で行うことを主張。大反響を呼びました。輿論は貴族や聖職者の特権の廃止と、国民の代弁者である第三身分の台頭を強く望んでいたのです。
シエイエス(GettyImages)
ところが全国三部会では票決の仕方で、第一身分と第二身分対第三身分で意見が対立。いつまで議論しても埒があかないので、第三身分の人々は国民議会を結成します。第一身分の聖職者たちはそこに合流することを決めましたが、第二身分の貴族たちが強硬に反対して、国民議会の議場を閉鎖してしまいます。
国民議会派は6月20日、ヴェルサイユ宮殿の球戯場に集まって、王国の憲法が制定されるまで、決して解散しないことを誓います。これが俗に言う「テニスコートの誓い」として知られる集会でした。
テニスコートの誓い(GettyImages)
6月27日、国王は第一身分と第二身分の議員たちの合流を命じ、実質的に国民議会は国王の承認を得るのですが、反対派の圧力で、ルイ16世はパリとヴェルサイユに軍隊を駐留させます。
シャルル10世(GettyImages)
マリー・アントワネットと王弟アルトワ伯(のちのシャルル10世)に実権を握られていた国王政府は、7月11日、民衆に人気のあった財務総監ジャック・ネッケルを解任しました。その報せがパリに届いた翌日から、パリの各地で不穏な動きが活発化します。
【つづき「「陛下、暴動ではございません。革命でございます。」…チュイルリー宮はこうして「虐殺の場」と化した」】
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