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2022年7月31日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「【出口学長・日本人が最も苦手とする哲学と宗教講義】そもそもシーア派はどうして生まれたのか?
出口治明
© ダイヤモンド・オンライン 提供 Photo: Adobe Stock
世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)学長。世界史を背骨に日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説した『哲学と宗教全史』が「ビジネス書大賞2020」特別賞(ビジネス教養部門)を受賞。発売3年たってもロングセラーとなっている。
◎宮部みゆき氏(小説家)が「本書を読まなくても単位を落とすことはありませんが、よりよく生きるために必要な大切なものを落とす可能性はあります」
◎池谷裕二氏(脳研究者・東京大学教授)が「初心者でも知の大都市で路頭に迷わないよう、周到にデザインされ、読者を思索の快楽へと誘う。世界でも選ばれた人にしか書けない稀有な本」
◎なかにし礼氏(直木賞作家・作詞家)が「読み終わったら、西洋と東洋の哲学と宗教の大河を怒濤とともに下ったような快い疲労感が残る。世界に初めて登場した名著である」
◎大手書店員が「百年残る王道の一冊」
◎日経新聞リーダー本棚で東原敏昭氏(日立製作所会長)が「最近、何か起きたときに必ずひもとく一冊」と評した究極の一冊
だがこの本、A5判ハードカバー、468ページ、2400円+税という近年稀に見るスケールの本で、巷では「鈍器本」といわれている。“現代の知の巨人”に、本書を抜粋しながら、哲学と宗教のツボについて語ってもらおう。
シーア派とスンナ派の仲
イスラーム圏ではシーア派とスンナ派が、常に争っているように認識している人が多いのではないでしょうか。
それは事実とは大きく異なるのですが、ここではシーア派とスンナ派について、そもそもの誕生の由来から振り返ってみます。
まず、留意すべきことはキリスト教での宗教戦争のような血で血を洗う争いは、シーア派とスンナ派の間にはなかった、ということです。
キリスト教のローマ教会とプロテスタントとの間に起きた激しい宗教戦争については、本書の宗教改革のところで説明します。
イスラーム教の世界では、聖典の成立過程からも明らかなように、何が真実の教えかという疑念や対立は生じませんでした。
それではシーア派とスンナ派の対立点は何か。
極言すれば、派閥争いです。
スンナとは言行とか慣行を意味します。
クルアーンとハディースに書かれているムハンマドの言葉と行動を、そのまま慣行として大切にしていこうとする考え方です。
これに対してシーア派はアリーの派閥(党派)を指しますが、実はシーアの原義が派閥という意味です。
したがってシーア派は日本語としては「派閥派閥」になってしまって、意味を成しません。
しかし、シーア派という言葉がいつの間にかなじんで一般的になってしまったのでしょう。
スンナ派とシーア派の勢力関係を見ると、世界的にはスンナ派が多数派です。
シーア派は劇的な成立過程が影響して、イランを中心に強い存在感を誇っています。
では、「シーア・アリー」の成立過程を振り返ってみましょう。
シーア派(シーア・アリー)はどうして生まれた?
ムハンマドの死後、成立したばかりのイスラーム共同体(ウンマ)は彼の3人の戦友たちによって、順次継承されました。
アブー・バクル、ウマル、ウスマーンです。
イスラーム帝国の基盤を築いた人たちです。
彼らはカリフと呼ばれるようになります。
預言者ムハンマドの代理という意味です。
632年にムハンマドが死亡し、ウスマーンが656年に暗殺されるまで、カリフ位は順当に引き継がれましたが、4代のカリフにアリーが決まったときに問題が起きます。
それまでの3人がムハンマドの戦友であったのに対して、アリーはムハンマドの娘婿でした。
それだけではなく、彼はムハンマドの従兄弟(いとこ)でもありました。
もちろん、そのような関係からカリフに選ばれたのではなく、指導者としての資質を評価されたからです。
ところが彼のカリフ就任に「待った」をかけた男がいました。
その男はクライシュ族の名門であるウスマーンが属していた、ウマイヤ家のムアーウィヤです。
彼はアリーにウスマーン暗殺の真相究明を求め、それができないのであれば、カリフの地位を自分に譲れと述べました。
そこには次のような事情がありました。
アリーが4代カリフに選ばれたとき、イスラームの支配する領域は、すでに世界帝国と呼べる広さに達していました。
西はエジプトを越えてトリポリまで、東は現在のアフガニスタンにまで拡大していたのです。
ところがムハンマドや彼を受け継いだカリフは、小さな都市であるマディーナのカリフの住居で統治を行っていました。
その住居は普通の民家であって、宮殿ではありません。
防壁もなく堀に囲まれるでもなく、警護の兵もそれほどたくさんはいませんでした。
帝国というよりは集落の行事を決めるように、首脳部が集まり膝をつき合わせながら議論し、政策決定がなされていたのです。
民主的で素晴らしいのですが、ウンマが帝国規模にまで成長・拡大してくると、統治機構もそれに合わせて整備される必要があります。
つまり、支配体制の変化が求められる時代を迎えていたのに、対応策が取られていなかったのです。
ムハンマドの死後、初代カリフのアブー・バクルと性格の強い2代ウマルの時代までは事なきを得ていたのですが、3代ウスマーンは議論のあげく反対派の過激分子たちに暗殺されてしまいました。
防御設備もない住居です。実行は簡単でした。
そしてウスマーンの暗殺を受けて、新たにアリーが4代カリフに選ばれたとき、ウマイヤ家のムアーウィヤが強硬な申し入れを行ったのでした。
ムアーウィヤ(在位661-680)はその当時、イスラーム帝国の領土となっていたシリア総督の地位にありました。
彼はイスラーム共同体はすでに帝国となっているのだから、きちんとした防御施設のある宮殿を構え、近衛兵のような護衛軍をはじめとして専門の軍隊を整備せよ。そして官僚組織をつくって組織的な行政を行わないと大国の安定は維持できないと考えていたのです。
ムアーウィヤとカエサル
ムアーウィヤの考え方はローマ帝国を切り拓いたカエサルと似ていました。
彼は世界の大国になったローマは、元老院のような責任の所在が不明確な共和政体ではもはや統治できないということを訴えた政治家でした。
ムアーウィヤには、もちろんイスラーム帝国を支配したいという野望もあったと思います。
しかしその政治感覚はひときわ優れていたと思われます。
けれどアリーは、ムハンマドと慣れ親しんで生活してきたこともあり、昔からの仲間と協力しながらイスラーム教を広めていくという、伝統的な発想を重視していました。
ムアーウィヤは反旗を翻(ひるがえ)し、イスラーム帝国に大反乱が生じたのです。
この反乱には決着がつきませんでした。
アリーは同じムスリム同士の争いの無益さを考え、ムアーウィヤに和議を申し込み、両者は和解しました。
アリーはカリフ、ムアーウィヤはシリア総督のままで、一旦事態は収まります。
しかし一部の過激なグループが、怒り出しました。
アリーは正統な手続きによって4代カリフとなった人です。
一方でムアーウィヤは、反乱者で一地方の総督にすぎません。
「反旗を翻したムアーウィヤは許されざる者である。しかしそのムアーウィヤを、ペナルティを課すこともなく許してしまったアリーも堕落している」
彼ら過激派は「ハワーリジュ派」(立ち去った者たち)と呼ばれましたが、怒りに任せてアリーとムアーウィヤの双方に暗殺者を送りました。
その結果、シリアのダマスカスの宮殿にいたムアーウィヤは無事でしたが、アリーはクーファのモスクで暗殺されました。
暗殺事件の後、アリーの長男であるハサンは、ムアーウィヤに帝国を任せて身を引きました。
そしてマディーナの自宅で酒色に耽(ふけ)り、ハッシシを吸いながら世捨て人の生涯を送りました。
661年、ムアーウィヤが開いたウマイヤ朝
こうしてムアーウィヤが新しいカリフとなり、ダマスカスに遷都してウマイヤ朝を開きます(661)。
アリーには3人の子どもがいましたが、次男のフサインは兄とは異なり、反乱を起こしたムアーウィヤに納得していませんでした
しかし、兄がムアーウィヤを認めたので不満はありましたが黙認せざるをえず、悶々(もんもん)とした日々をすごしていました。
このフサインのもとにメソポタミアの軍営都市(ミスル)クーファから、使者が訪れます。
クーファの人々はアリーを支持していました。
彼らはフサインに、アリーの遺志を継いで本当のイスラーム帝国を東方につくりませんかと呼びかけたのです。
フサインは喜んで申し出を受け、一族を引き連れてクーファに向かいました。
総勢は女性や子どもを含めて50名前後だったと伝えられています。
ところがフサインが旅立ったという情報は、ダマスカスのウマイヤ朝のもとに届きました。
すでにムアーウィヤは死去しており、子のヤズィードの時代になっていました。
ヤズィードはフサインがクーファで反乱の旗を掲げたら厄介なことになると考え、彼らを阻止するために正規軍を派遣します。
カルバラーの戦いとシーア派
そしてバグダードに近いカルバラーの地でフサイン一族を襲撃し、女性と子どもを残してフサインを含むほぼ全員を殺害しました。
680年のことです。
このカルバラーの戦いがあった日を、シーア派では「アーシューラー」と呼びます。
無残に殺害されたフサインの殉教命日として、この日、シーア派の男たちは自分の身体を鞭(むち)や鎖(くさり)で打ち、泣き叫んで行進しては祈ります。
カルバラーの地で殺害されたフサイン一族は、ムハンマドの血統を正しく引き継いでいるので、フサインにつながる一族のみに、すべてのムスリムの宗教的・政治的首長となる権利を与えるべきだ、このように考える人々が「シーア・アリー」(シーア派)となりました。
『哲学と宗教全史』では、哲学者、宗教家が熱く生きた3000年を、出没年付きカラー人物相関図・系図で紹介しました。
僕は系図が大好きなので、「対立」「友人」などの人間関係マップも盛り込んでみたのでぜひご覧いただけたらと思います。
(本原稿は、13万部突破のロングセラー、出口治明著『哲学と宗教全史』からの抜粋です)」
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