🔯61」─3─高い未婚率で消滅したベネチア共和国は人口激減する日本の未来。~No.227No.228 

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 2015年8月29日 東洋経済ONLINE「今の日本が「滅びた国々」に酷似しているワケ
 存続するために必要な戦略とは
 日本が国家として存続していくために必要なものとは(写真:ジャパ/PIXTA)
 日本は今、歴史の「特異点」を越え、1500年以上継続した国家が存続しうるかさえ心配になるという。『日本が世界地図から消滅しないための戦略』の著者、月尾嘉男氏に聞いた。
──古代のカルタゴベネチア共和国にそれほど似ているのですか。
 歴史上長期にわたって安泰で、大いに繁栄を謳歌していたのに消えてしまった国々だ。カルタゴは紀元前に建国後670年ほどでローマに、ベネチアは1100年ほどでナポレオンによって地中海の覇者の座から引きずり下ろされ、消滅した。
 最先端技術を持てない国は弱い
 月尾嘉男(つきお・よしお)
●1942年愛知県生まれ。東京大学工学部卒業、東大大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士(東大)。名古屋大学工学部教授、東大工学部教授、東大大学院新領域創成科学研究科教授、総務省総務審議官などを経る。著書に『100年先を読む永続への転換戦略』『先住民族の叡智』など
 カルタゴが滅びた要因を今の日本と比べつつ分析すれば、大きく三つに集約される。一つは、もともと本土は人口20万ほどの国でローマと戦うような大軍はとても持てなかったこと。ヌビア族というアフリカの先住民族を傭兵として雇った。だが、傭兵はカネでどちらにも転ぶ。ローマとの3次、120年にわたるポエニ戦争で問題が噴出した。この事実からの教訓は、安全保障を米国に頼る日本の面倒を米国は最後の最後まで見てくれるかといえば、それはわからないということ。
 二つ目は、カルタゴは経済大国だったが、文化大国ではなかったこと。つまり、カネ稼ぎには大いに才能があった。その証拠に第2次ポエニ戦争で負け、ローマが50年年賦でとんでもない賠償金を課した。1年分がローマのGDP国内総生産)に近かったという。それでもカルタゴは頑張って半分ぐらいの年数で支払った。こんなに稼げるやつはいずれ反抗してくるとローマは見逃さなかった。逆に警戒心をあおったのだ。
 三つ目は、ローマのマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスという政治家の恨みを買ったこと。後に大カトといわれた彼は第2次ポエニ戦争に兵士として従軍し、ほうほうの体で逃げ帰った体験を持つ。戦争が終わって視察団長としてカルタゴに出向いた大カトは、帰国後ローマの市民に見事なカルタゴ産のイチジクを見せながら、「ここからわずか3日の船旅先のアフリカ北岸にこんなに豊かな産物を生産し繁栄している国がある」と演説する。彼はその後どのような演説でも、いつもデレンダ・エスト・カルタゴカルタゴを殲滅すべし)と締めくくったという。
 大カトは、カルタゴからすれば誹謗(ひぼう)に近いことまでまくし立て、ローマ人のカルタゴを滅ぼそうとする士気を鼓舞し、それが第3次ポエニ戦争に結び付いた。今の日本に立ち返れば、何やらどこか似ていないか。
──ベネチアは?
 まず技術革新に対応できなかった。アルセナーレといって今もイタリア海軍が使っている造船所を造り、そこで早く安く大量に軍艦を造る画期的な技術を開発した。だが、レパントの海戦で連合軍に参加し、それまで無敵だったオスマントルコに勝った頃には、ポルトガル、北欧、オランダなどで新しい帆船の技術が開発されていた。この風上にさかのぼれる帆船は、大型になるから造船費用も高くなる。これに対してベネチア議会は造船費用をそれほど増やさなかった。結果、船の数が減って弱体化していく。
 最先端技術を持てない国は弱い。最近、日本の技術関係者がショックを受けたのはロボットのコンテストだ。1次審査の際は東京大学助教クラスが開発したロボットが断トツだった。翌年、2次審査になったときには、そのチームは米グーグルに買収されていた。日本は6チームが残っていたが、いずれもビリから並んでしまった。ちなみに1位は韓国だった。技術でトップでないと、結局国力を弱めることにならないか。
──同時に地政学的な問題もあったようですね。
 確かに、変貌する地政学的な問題があった。ポルトガル王室の肝いりで、喜望峰を回る航路をバスコ・ダ・ガマが開拓する。ベネチアの船でアジアに行くには途中で陸路を行く必要があった。新しい帆船ならいきなりアフリカ大陸を回り、東アジアのコショウや絹の買い付けができる。その発着地点はポルトガルリスボンやスペインのカディスやパロスになり、ベネチアは従来の地図の中央ではなく、端っこに位置するのと同様になる。新興のポルトガル、スペインが発展しベネチアは凋落していく。
 戦後日本の発展要因には、ソ連や中国に対する最前線という地政学的な位置が大いに関係した。米国を筆頭とする資本主義国の出先の位置として格好だったのだ。しかし、今や世界の主要地間をノンストップで行き来できるようになり、日本の中ソ近接は有利な地位ではなくなった。日本は、かつて中継地として繁栄し今やアラスカの寒村に戻ったアンカレッジのようになる可能性がある。米中、米ロの関係いかんで、日本の位置が世界的に見て大事かどうかはわからなくなってくる。
 国はつねに安泰であるわけではない
──ベネチアは未婚率も高かったとも。
 ベネチアは法律で本土(陸地)に土地を持ってはいけないと決めていた。ところが貴族は本土の貸家業で儲けるのがリスクも少ないと土地を買いだす。土地を持つと、子供が多ければ相続で争いになる。子供は少なくと、ベネチアでは16世紀でも結婚適齢男子の5割近くが結婚せず、18世紀には66%が未婚だった。最近の日本の20代、30代の婚姻率を見ると、16~18世紀のベネチアとうり二つなぐらい似ている。
 たまたまカルタゴベネチアと二つの国を紹介したが、それは日本が、その二つの国が弱体化し滅びたときの条件にあまりにぴったり当てはまるからだ。国はつねに安泰であるわけではないと気づいてほしいものだ。
 2006年から12年まで、「地球千年紀行~先住民族の叡智に学ぶ~」と題するテレビ番組を作っていた。極端な表現を使えば、国家、国境はもちろんのこと、言葉、宗教さえ伝統的なものを廃された人たちの姿を放映した。世界70カ国に5億人ぐらいはそういう状態の人がいる。歴史は国家興亡の記録である事実を知ってもらいたかった。
──では、日本はどうしたら。
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 一言で言うと日本が「特異点」(シンギュラリティ)を越えたこと、つまり社会の構造が根底から変わってしまう産業革命のような節目を、多くの分野が1990年代前半には通過したことを自覚することだ。経済大国になることはあきらめて、世界の人々を魅了する魅力大国になるように精を出す。日本くらい外国の人があこがれる文化がいっぱいある国は少ない。それを日本の力にして文化大国になればいい。
 たとえば最近になって和食が世界的なブームといわれているが、さかのぼると40年近く前に当時のフォード米国大統領が自国民の栄養改善に理想的と太鼓判を押してさえいる。
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 軍事大国ローマ共和国の侵略で消滅した経済大国カルタゴは、日本に似ている。
 ローマ共和国は、さしずめ中国共産党政府かロシアである。
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 18世紀のベネチアは未婚率が66%で国力(経済力・国防力)が衰退し、ナポレオンの大軍に攻められても武器を持って国を守る国民・兵士が少なかった為に防衛戦争の継続ができなくなって降伏し、大国イタリア王国に吸収され、地球上から自主独立国家ベネチア共和国は消滅した。
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 日本が迎える少子高齢化による人口激減の人生100年時代とは、老人が多く若者が少ない少生(産)多死社会である。
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 現代の日本人は昔の日本人に比べて、口で言うほど歴史が好きではないし歴史が理解できない。
 何故なら、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないからである。
 その傾向は、高学歴な知的エリートや進歩的インテリに多い。
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 ウィキペディア
 ヴェネツィア(イタリア語: Venezia ( 音声ファイル))は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。
 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名を持つ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。漢字表記は勿搦癸亜, 勿搦祭亜, 勿耨茶.
 歴史
 15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。そのうえ、大砲の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまった。その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まった。また、1497 - 98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代へ遷るとともに貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速された。これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国教皇、フランス、スペインは同盟を結び、ヴェネツィア領土内にある財産を没収した。1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権を取り戻したが、海洋国家としての地位は回復できなかった。
 1797年、ヴェネツィア共和国ナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊した。カンポ・フォルミオ条約により、ナポレオンはその領土をオーストリアに引き渡した。オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲ったが、1814年には奪回。オーストリア港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。その翌年、ヴェネツィアロンバルディアロンバルド=ヴェネト王国を作った。ヴェネツィア人はイタリアの政治家ダニエーレ・マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱(1848年革命)を起こし、ヴェネト共和国を建国した。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏した。1866年に普墺戦争が始まると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国編入された。
 1987年、世界遺産文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された。
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 ヴェネツィア共和国
 最も高貴なる共和国ヴェネツィア(ヴェネト語: Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、イタリア語: Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国ヴェネツィアきょうわこく、Repùblica de Venessia、Repubblica di Venezia)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「晴朗きわまる所」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。
 経済
 ヴェネツィア共和国は、イタリア最大の水系であるポー川を含む河川と、アドリア海の制水権を獲得しつつ商業を拡大させた。のちにはイオニア海、東地中海へと領地を拡大して支配力を高めた。
 食料交易
 食料を自給できないヴェネツィアにとって、初期の交易では食料の調達が特に重要とされた。ポー川をはじめとして内陸からアドリア海に流れる河川にそって交易が行われ、イタリア王国内にあるヴェネツィア修道院や貴族の土地や、内陸の都市から食料を入手した。重要な河川には警備のための要塞や艦隊が用意された。
 海路では、東ローマ帝国の食料交易などに加えて、教皇領のあるマルケ地方、シチリア王国、ラテン帝国やアカイア公国などのギリシア諸国、クレタ島などから食料を輸入した。さらには、小麦、ワイン、オリーブ油、いちじく、チーズ、塩などの食料を海外から内陸都市へ再輸出することを独占し、対立する都市には禁輸を行うなどの政治的手段も用いた。
 東ローマ帝国での交易
 ヴェネツィア商人は東ローマ帝国内での特権によって、帝国内の都市間や、シチリア王国、十字軍国家、エジプトなどの諸国家と交易を行った。胡椒や絹などの東方貿易の商品のほか、オリーブ油、ワイン、綿、羊毛皮、インディゴ、武具、木材、奴隷などが取引された。帝国内では大土地所有者が支配的地位にあり、商人は排除されていたため、帝国内で多大な利益をあげた。
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