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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
1837年 カロライン号事件。イギリス領カナダは、アメリカ同様にイギリスから独立するべく叛乱を起こした。
ニューヨーク、バーモント、ミシガンなどの北米各州のアメリカ人は、カナダ人独立運動を支援しするべく、義勇兵と武器や物資をアメリカ船カロライン号に乗せてナイヤガラ川のアメリカ領とイギリス領の間を往復していた。
イギリス軍は、カロライン号を急襲し、船体に火を付けてナイアガラ滝に投じて沈めた。
国際法は。カロライン号事件は自衛権に基づく措置として認めた。
アメリカ領海内で、イギリス海軍は、イギリスの植民地であったカナダの反乱分子が潜伏していたカロライン号を攻撃し撃沈した。
アメリカは、イギリス海軍の戦闘はアメリカの主権を侵害する行為であるとして激しく非難し、外交問題に発展した。
イギリスは、反乱を企む犯罪者集団が目の前に居る以上、反乱を未然に防ぐ為には他国の主権の及ぶ領土でっても攻撃する事は自衛行為であるとして、正当性を主張した。
自衛権として先制攻撃が認められるかどうか、それが他国の主権下の領土でも行使できるかが、論争となった。
アメリカの国務長官は、1842年に、他国の主権を侵害し他国人に被害を与えない事を条件として自衛権行使による先制攻撃を認め、カロライン号事件におけるイギリス側の主張を受け入れた。
「切迫し、圧倒的で、他に手段が残されておらず、熟考の時間が存在しない自衛の必要性」
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1839年 中央アメリカ連邦解体。
アメリカは、潜入したイギリス人スパイを逮捕した。
イギリスのパーマストン外相は、イギリス人を釈放する様に恫喝した。
ビューレン大統領は、イギリスの軍事的圧力に屈してスパイを開放した。
アメリカ世論は、イギリスの横暴に激高したが、イギリスの軍事力の前では沈黙するしかなかった。
フランスは、北米で失った植民地を再獲得する為に、ウジェーヌ・モラフをメキシコに派遣した。
モラフは、カリフォルニアにフランス人入植地を建設する為に現地調査に入った。
イギリスは、フランスに対抗して、カリフォルニア獲得計画を立案し始めた。
1840年 アヘン戦争。
南北カナダ統一。
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1841年 ロシア・アメリカ会社は、カリフォルニアでの乱獲でラッコが減少した為に、フォート・ロス砦をスイス出身でメキシコ政府のカリフォルニア総督アルヴァラードの支援を受けたジョン・オーガスタ・サッターに売却して、カリフォルニアから撤退した。
1842年 アシュバートン条約。メーン州でのカナダ・アメリカ国境画定。
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2016年8月号 Voice「原悦子とフリードリヒ・リスト 渡辺惣樹
アメリカ流保護貿易思想
経済学者フリードリヒ・リストは、たしかにドイツ歴史学派の大家である。明治期には自由貿易か保護貿易かの論争があり、当時の経済学界ではリストの主張する保護貿易理論を学んだ者が多かった。彼は歴史を振り返りながら、発展段階によっては保護貿易を採用すべきだと主張した。彼自身ドイツ人であり、その著作『政治経済学の国民的体系』(1841年)はドイツ語で発表された。そのため『ドイツ歴史学派』の重鎮とされる。だが彼がその理論を培ったのはアメリカだった。
リストは1825年6月にペンシルベニア州に移住し、1832年までアメリカで暮らした。このころのアメリカは農業国であった。アメリカの富はイギリスに輸出する綿花によるものだった。独立を成し遂げたとはいえ、まだまだアメリカの工業は幼稚であり、イギリスの工業力の前に立ちすんでいた。当時のアメリカ知識人は、アメリカの将来をいまのままの農業国でいくのか、工業化をめざすのか真剣に悩んでいた。
こうした知識人のなかに、豊かな天然資源と人的資源の存在をいち早く気付き、アメリカはイギリスに十分に対抗できる工業国に変貌できると信じた一群がいた。マチュー・カレイやヘンリー・クレイがその代表である。彼らは、イギリスの経済学者の説く自由貿易思想をアメリカの方針にしてしまえば、アメリカの工業化は永遠にできないと恐れた。自由貿易理論が正しいと説くイギリスの経済学者アダム・スミスやデイヴィッド・リカードに対抗できる理論を構築しなくてはならなかった。リストは、芽吹き始めたアメリカ流保護貿易思想に強い影響を受けたのである。
その思想はアメリカンシステムと呼ばれる。高関税政策、関税収入によるインフラ整備(鉄道網、港湾施設、運河)、中央銀行創設がこの思想の核であり、イギリスに対抗できる中央集権的な国家づくりをめざした。リストはこれをドイツに応用した。刺激を受けたプロイセンがドイツを統一し、普仏戦争(1870年)に勝利し強国に変貌を遂げた」 ・ ・ ・
1844年 ポーク大統領領は、メキシコ領カリフォルニアで商売をしていたトーマス・ラーキンをアメリカ領事に任命した。
ラーキン領事は、カリフォルニアをアメリカの領土とするには、テキサス同様に多くのアメリカ人を移住させ、移住者アメリカ人に武器を与えて武装蜂起させて独立させる事であると提案した。
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1845年 アメリカは、テキサス共和国の住民が合併を希望した為に併合した。
テキサス型解決策(テキサス・ソリューション)である。
全住民の過半数を占めたところで、1846年にオレゴン・ワシントン・オレゴン諸州を、1848年にカリフォルニア・ネヴァダ・ユタ・アリゾナ諸州を、多数意見を理由にしてアメリカ領であると宣言した。
移住者を送って多数派になったところで土地を奪うという手法は、ハワイ王国簒奪でも使用された。
国際常識では、土地の人口比率でその土地の所有が決められた。
つまり、日本国内で特定の外国人移住者が日本人よりも多数を占めたとき、その地域は日本ではなくその外国人の国の土地とされた。
中国が版図を拡大して大国となったのは、中国人の海外移住による。それが、世界の中国化である。
無防備に移民を受け入れる事は、国内国家を作り出し、ついには国家の消滅につながった。
中国の土地を奪う、常套法である。
ジョン・オサリバン「我が国の住民を西へと動かしていく一般的法則の避ける事のでない実現のプロセスで、100年以内に2億5,000万人もの人口に達するアメリカが、アメリカ大陸を占有するのは明白な神意、神の意志なのだ」
カトリック教会のアイルランド人ユージーン・マクナマラ神父は、カリフォルニアにプロテスタントのメソジスト教徒の入植者が増える事の危機感を抱き、アイルランド人家族2,000世帯約1万人の入植を計画した。
カトリック教会とプロテスタント各派は、非キリスト教地帯での信者獲得の為に熾烈な布教競争を繰り広げ、それが原因で植民地戦争が各地で起きていた。
1月 アメリカ大統領ポークは、カリフォルニアを買い取る為に、ジョン・スライデル下院議員をメキシコに派遣した。
メキシコは、自国領カルフォルニアを確保するべく、イギリスやフランスの介入を期待して買収交渉をノラリクラリと引き延ばした。
3月 ポーク大統領は、宿願としていたテキサス共和国を合衆国に編入させ、次に狙ったのはメキシコ領カリフォルニアを含む西海岸の領土であった。
世にいう、テキサス型解決策(テキサス・ソリューション)である。
奴隷制度廃止派は、奴隷制度を維持するテキサス共和国の編入には反対していた。
イギリスは、東海岸が独立した為に西海岸を手に入れるべく、カナダを運営管理している国策独占会社ハドソン・ベイ会社にオレゴンの運営を任せ、カリフォルニアの獲得に動いていた。
当時。メキシコ政府は、イギリスの金融資本から5,000万ドルの借金をしていた為に、国益を理由にしてイギリスの要求を拒否できなかった。
ポーク大統領は、自由と民主主義の理想社会を建設するという責務(明白なる使命)を掲げて、カリフォルニア領有の為にイギリスと極秘で交渉を行っていた。
アメリカは、アジア市場への参入の為にも太平洋航路を確保する必要があり、その為にも良港サンフランシスコを持つカリフォルニアを獲得せねばならなかった。
10月 ポーク大統領は、カリフォルニアを奪取するべく、ラーキン領事にテキサス型解決策の実行を命じた。
ラーキン領事は、カリフォルニアをメキシコから独立させるべく、アメリカ系住民に武装蜂起させ為の武器を渡した。
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