🏟48」─地球の寒冷化と魔女狩りでキリスト教会の絶対支配が揺らぎ始めた。~No.112 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 魔女狩りで生きたまま焼き殺された女性は無実であった。
 魔女とは、狂信宗教・カルト宗教・原理主義宗教などの犯罪宗教ではなく民族宗教・地域宗教などのローカル宗教であった。
 魔女は犯罪者ではない。
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 2020年6月号 Voice「ニッポン新潮流
 歴史論戦 渡辺惣樹
 地球寒冷化と魔女狩り
 『冷え』への
 1590年9月9日、南ドイツの商業都市ネルトリンゲンで魔女5人が生きたまま火あぶりにされた。この中世都市の中心部は1500万年前に隕石が衝突した位置にあり、衝撃で形成されたクレーターの外縁が残る。その小高い丘で5人は息絶えた。『悪魔と性交し、人びとに厄災(やくさい)をもたらす黒魔術をかけた罪』であった。
 魔女とされたほとんどは老女だった。しかし、この日の犠牲者の一人レベッカ・レンプは違った。この町の幹部(出納{すいとう}長)の妻であり、教養ある40歳の女性だった。魔女と疑われた老女が、拷問の中でレベッカの名を挙げたため逮捕された。彼女も拷問を受け、悪魔との交わりを自白するように迫られた。そのとき夫が出張で町に不在だったことが不幸だった。彼女は救いを求めて夫に手紙を書き、『このままでは嘘の自白を強要される。それなら死んだほうがましだ。毒薬を差し入れてほしい』と懇請(こんせい)した。しかしそれは叶わなかった。
 人びとが『狂った』のには理由があった。地球が寒冷化していたのである。900年から1300年までは中世温暖期といわれる時期で、地球は暖かかった。しかし15世紀に入ると徐々に地球は冷えていった。地球の『冷え』が癒えるのは18世紀初めまで待たなくてはならなかった。魔女狩り裁判の記録の多くが破棄されているため正確な数字は不明だが、11万件の裁判があり、およそ5万人が殺されたと推定されている。
 魔女狩りスコットランド、北欧、アルプス高地の国々ではほとんど見られない。激しいのはレベッカが死んだ南ドイツ、フランス東部あるいはルクセンブルクといった地域だった。みな温帯農業の限界地であり、少しでも寒冷化すれば作物に大きな被害が出た。
 『季節外れの雹(ひょう)あるいは長雨は、穀物だけではなくワイン(ぶどう)の生産に大打撃を与えた。(中略)地域社会の経済の基礎である穀物やワイン生産は異常気象によって脅かされ』、食料品の価格は高騰した。
 現代に生きる者は、地球が再び温暖化したことを知っているが、同時代人は知る由(よし)もない。終わりの見えない『冷え』に皆が怯(おび)えた。中世温暖期には作物は豊かに実り、人びとはその豊穣(ほうじょう)を神に感謝した。寒冷化が始まっても、神への信頼は変わらなかった。卑(いや)しい人間が悪魔と結託して悪さをしていると考えた。だからこそレベッカは生きたまま焼き殺されたのだった。しかし魔女狩りを続けても暖かい夏は戻らなかった。
 『自身の頭で考える』
 知識人たちが、『キリスト教会の説く摂理(せつり)では人びとの不幸を救えない』と疑い始めたのはこの頃である。そうした一人にミッシェル・ド・モンテーニュ(1533~92)がいた。彼は、フランスのぶどう産地ボルドーの貴族として生まれ、法学を学んだ。ぶどう園を所有しワイン生産もしていた家柄なだけに寒冷化には敏感であった。彼はヨーロッパ諸国を周って各地の事象を考察した。その記録が『随想録』(1580年)である。そこには旧約聖書新約聖書の引用は一つもない。『すべては自身の頭で考える』態度で観察し記録した。
 『随想録』の英語版(1603年)が出ると、シェイクスピアフランシス・ベーコンらに強い影響を与えた。おうしてゆっくりとだがヨーロッパの知識人のキリスト教義の鉄鎖(てっさ)から解放されていった。デカルト(1596~1650)も、自ら頭で考える重要性を『方法序説』(1637年)に書いた。それが『我思う、ゆえに我あり』だった。それは、『聖書には自然摂理を解く鍵はない』と訴えることと同義だった。
 デカルトが、スウェーデン女王クリスティーナ(1626~89)に招かれ、彼女の個人教授になったのは1649年暮れである。朝五時半から、暖房のない部屋で始まる個人授業を強(し)いられたデカルトはたちまち身体を壊し、肺炎で死んだ(翌年2月11日)。
 筆者も、デカルトにならって自らの頭で考えたいと思っている。だからこそ、地球温暖化CO2悪玉説はフェイクだと考える。この質(たち)の悪い主張が現れたのは、『温室効果の説明が至極簡単であっただけに、環境保護を錦の御旗に掲げての「啓蒙」』に好都合で、政府資金(税金)を引き出すにはもってこいだったからなのである。デカルトを 『殺した』のはスウェーデンの女王だった。現代人はスウェーデンの少女に殺されてはならない」
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 1600年代に徳川幕府が定めた法度=国法=法律=国是に従って行ったキリシタン禁教は、国家の宗教政策として正しい選択であった。
 ただし、キリシタン弾圧・キリシタン処刑は非人道的犯罪行為であった。
 キリシタン教禁止の国禁を破った組織的確信犯である宗教犯罪者を処刑した、豊臣秀吉徳川家康と歴代の徳川将軍は正しかった。
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 一口にキリスト教と言っても、時代、国家・地域、人種・民族、思想・哲学・主義主張などの影響を受けて教義解釈は、消極的穏健派、積極過激派、カルト的原理主義など様々に分か、色とりどりの教団や個性豊かな個人が存在した。
 江戸時代、日本が行ったキリシタン禁制とは、異教・邪教の根絶、異端審問、魔女狩りなど残虐で不寛容・排他的な積極的過激派、カルト的原理主義であった。
 もし、多神教キリスト教が多仏教の釈迦教のように八百万の神々の日本神道に、絶対真理・絶対福音・絶対教義を捨て骨抜きと成って溶け込み「あやふやな宗教になるのであれば、つまり八百万の神々の中の「毛色の変わった個性豊かな男神」になれば、日本の宗教・神秘は受け入れた。
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 キリスト教は、洗礼を受けずに死んだ親兄弟や祖先を異教徒=悪魔教徒として地獄に堕とし永遠の劫火で焼き、自殺者や水子を漆黒の闇で包まれた煉獄に落として救わなかった。 
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 キリスト教を国教とした国は、先祖伝来の民族宗教・地域宗教などのローカル宗教を消滅させた。
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 キリスト教とは、家父長制における男性優位宗教である。
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 敬虔なキリスト教徒は、絶対神の福音と愛の信仰を守る為に、魔女を見つけて生きたまま焼き殺した。
 中世キリスト教会は、異教徒は改宗可能な迷える子羊として寛大であったが、改宗したキリスト教徒には過酷で異端に走った者は絶対に許さず生きたまま焼き殺した。
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 西洋諸国やキリスト教会は、異端審問や魔女狩りという不祥事を隠蔽する為に多くの記録を破棄した。
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 熱く乾燥した砂漠で生まれたキリスト教にとって、鬱蒼として湿気を含んだ薄暗い森林は悪魔・魔女・魔物あるいは盗賊・犯罪者の巣窟であり、善良な人びとに不幸・被害をもたらす生き物を凍死させる寒さは悪魔の仕業・魔女の黒魔術であった。
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 魔女達は、陰気な森の中で焚き火を燃やして悪魔礼賛集会を開き黒魔術儀式を行っていた。
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 天使は、美しく健康的な若い女性であった。
 魔女は、醜い老婆か皆から嫌われる性悪女であった。
 美とは、生であり、善であり、正であった。
 醜とは、死であり、悪であり、邪であった。
 年老いた醜い天使はいない。
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 日本の荒ぶる神、魔物、物の怪、妖怪は、悪魔、堕天使ではない。
 日本の鬼女、般若、悪女は、魔女ではない。
 日本には、悪魔も魔女もいない。
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 日本に渡来したキリスト教は、神学論争の基で異端審問や魔女狩りを実行した中世キリスト教で、昨日までの隣人を異端者や魔女として生きたまま焼き殺した白人キリスト教徒であった。
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 日本へのキリスト教伝道とは、宗教戦争、つまり聖戦であった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人と同様に奴隷として売って金儲けしていた。
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 ウィキペディア
 魔女狩り(英: witch-hunt)は、魔女とされた被疑者に対する訴追、裁判、刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の一連の迫害を指す。魔術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。現代では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは無知による社会不安から発生した集団ヒステリー現象であったと考えられている。
 かつて魔女狩りといえば、「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」と言われていたが、このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されている。「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」と考えられている。もとより「Witch-hunt」という女性名詞を用いた俗称(男性名詞はWizard)から日本では「魔女狩り」と翻訳されるが犠牲者は女性のみならず、セイラム魔女裁判ベナンダンティ弾圧に代表されるように男性も多数含まれていた。

 ヨーロッパにおける魔女狩り
 古代以来、何らかの超自然的な手段で他者を害することのできる人がいると信じられていた。ヨーロッパにおいてこの信仰はラテン語でマレフィキウムと呼ばれる「害悪魔術」の概念につながっていく。
 ギリシア語のパルマコン (pharmakon) は医薬と毒薬という両義性をもつ言葉で、これから古代ギリシアで妖術に相当するパルマケイア (pharmakeia) という言葉が派生した。イオニアの古代都市テオースで、毒ないし悪しきまじない (pharmaka deleteria) で人や国家に危害を加える者は死すべし、という禁令があったことを示す史料があり、他の都市にも同様の掟があったと考えられる。
 古代ローマではいかなる魔術も犯罪として処罰の対象であった。共和政ローマ最初期の成文法「十二表法」では、超自然的な方法で他人の畑作物を自分のものにする行為などに対する刑罰が規定されていた。リウィウスの『ローマ建国史』によると、疫病で多数の死者が出た前331年に、170人がウェネフィキウム(veneficium、毒殺ないし妖術)の嫌疑をかけられて処刑された。さらに前2世紀には妖術の廉で数千人規模の人々が処刑される事件が数回起こったという(前184年に約3千人、前182-180年に約9千人)。社会不安の高まりがパニックを引き起こしたことや拷問の横行など、後のヨーロッパの魔女狩りと同様の特徴がみられる。
 中世ヨーロッパでも、暴力や窃盗と並んで「呪術によって出た害」も裁きの対象となっていたが、世俗的な犯罪としての妖術には特別重い刑が科されるというわけでなく、他の犯罪と同じように被害に応じた刑が科せられていた。また、同じ呪術でも良い目的に用いられると考えられたもの、いわゆる白魔術は一般的に良いものとみなされていた。中世ヨーロッパの各地では、刑事裁判も民事裁判と同様に告発的訴訟手続を通じて行われており、原告と被告の当事者が対等の立場で争い、地元の有力者が参審人として慣習法に基づいて判決を提案するという形式が取られていた。告訴する側が被告の有罪を証明して裁判官に認めさせることに失敗すると、告発者の方が罰を受けなければならなかった(タリオン法)。被告の無罪を証明する方法として神判や決闘が行われることもあった。記録に残る中世の妖術裁判の事例が少ないのは、そのような訴訟手続では妖術師を裁くことが困難であったためではないか、とノーマン・コーンは論じている。一方、中世の民衆が行った妖術師に対する私刑については、年代記等にさまざまな事例が記録されている。
 かつて「魔女狩り」といえば、「中世ヨーロッパにおいて12世紀のカタリ派の弾圧やテンプル騎士団への迫害以降にローマ教皇庁の主導によって異端審問が活発化し、それに伴って教会の主導による魔女狩りが盛んに行われるようになり、数百万人が犠牲になった」などと語られることが多かった。しかし1970年代以降、さまざまな研究によってこのようなステレオタイプな見方は覆されることになった。ノーマン・コーンとリチャード・キークヘファー (Richard Kieckhefer) はそれぞれ独自に、それまで14世紀前半の南仏で大規模な魔女迫害が起こったと言われていたのは、実は19世紀の小説家ラモト=ランゴンの空想の産物を歴史家が真に受けたものにすぎない、ということを明らかにした。実際には、記録に残っている最初の大規模な魔女裁判が起こったのは中世も終わりに近づいた15世紀前半のことであった。異端の追求は行っていても、呪術の問題は管轄外であった異端審問官が魔女狩りとかかわりを持つようになるのは、15世紀に入ってからのことである。中世のカトリック教会においては占術や呪術は取り除くべき迷信とされたが、13-14世紀の異端審問官が民衆の呪術的行為に積極的に介入することはなかった。教皇アレクサンデル4世は1258年に、異端審問官が占術や呪術の件を扱うのは、それが異端であることが明らかな場合に限ると定めた。また、15世紀の初期の魔女裁判においても、審問を行ったのは必ずしも異端審問官ではなく、司教裁判所や世俗裁判所が糾問主義的(=異端審問的)な裁判手続をもって執行する場合もあった。ヨーロッパ大陸では、中世から続く当事者主義的な訴訟手続は、司直が職権として訴訟を開始し判決までを取り仕切る糾問主義的な訴訟手続に取って代わられた。教会法廷の扱う魔女裁判はやがて減少し、魔女裁判の最盛期には世俗法廷で行われるものが大半となった。この時代、ドイツの一部の村では「委員会」という組織が結成され、住民を代表して魔女を告発するだけでなく、証人を尋問したり、領邦裁判所に圧力をかけるなどして魔女迫害を推進した。イングランドでは国王の任命した職業的裁判官が各地方の巡回裁判所で魔女裁判を行った。

 時期と地域、犠牲者数
 魔女狩りはかつて「長期にわたって全ヨーロッパで見られた現象」と考えられていたが、現代では時期と地域によって魔女狩りへの熱意に大きな幅があったことがわかっている。全体として言えることは、魔女狩りが起きた地域はカトリックプロテスタントといった宗派を問わないということであり、強力な統治者が安定した統治を行う大規模な領邦では激化せず、小領邦ほど激しい魔女狩りが行われていたということである。その理由としては、小領邦の支配者ほど社会不安に対する心理的耐性が弱く、魔女狩りを求める民衆の声に動かされてしまったことが考えられる。
 時期を見ると16世紀後半から17世紀、さらに限定すると中央ヨーロッパでは1590年代、1630年頃、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。
 地域別に見るとフランスは同じ国内でも地域によって差があった。ドイツでは領邦ごとの君主の考え如何で魔女狩りの様相に違いがあった。イタリア、ヴェネツィアでは裁判は多かったが、鞭打ちで釈放され処刑はほとんどなかった。スウェーデンでは強力な王権のもとで裁判手続が厳守されており、三十年戦争期には占領したドイツ領邦で魔女狩りを抑止していたが、17世紀中頃より大規模な魔女狩りが発生している。スペイン(バスク地方を除く)では異端審問が行われていたが、これが魔女狩りに発展することはなかった。オランダでは1610年を最後に魔女が裁判にかけられていない。ポーランド、少し遅れて18世紀のハンガリーでは激しい魔女狩りが起こった。イングランドでは1590年代がピークであったがすぐに衰退した。対照的に、イングランドに隣接し1717年以降同君連合を形成していたスコットランドでは1590年代〜1660年代と長きにわたっており、一方アイルランドではほとんど見られなかった。北アメリカの植民地ではあまり見られなかったが、1692年にニューイングランドのセイラムで起こった大規模な魔女騒動(セイラム魔女裁判)が例外的な事件であった。それゆえに人々に衝撃を与えアメリカの歴史に暗い影を落とした。同時に、魔女狩りの当事者による公的な謝罪が行われた唯一の事件でもあった。 魔女狩りの犠牲者に関しての最も極端な説は、18世紀の歴史家ゴットフリート・クリスティアンフォイクトの用いた算出方法に基づく900万人である。これはあまりに極端であるとしても、かつて魔女狩りについて(客観的な根拠がないまま)犠牲者数が数十万人から数百万人と見積もられていた時代もあった。しかし近年行われている一次史料からの推計に基づいた1428年から1782年までの魔女裁判による全ヨーロッパの処刑者数は、ヴォルフガング・ベーリンガー、ロビン・ブリッグス (Robin Briggs)、ロナルド・ハットンといった研究者らが各々提示している推定値を共約すると最大4万人となる。なお、地域共同体内での私刑にあった者の数を知ることはまったく不可能なため、この犠牲者の数には含まれない。
 1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であるとされる。

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 宣教師達は、キリシタン大名の領地を完全ある「神の王国」=教皇領に生まれ変わらせる為に日本人キリシタンを使って領内の神社仏閣を破壊し、僧侶や神官を暴力的に追放した。
 中世キリスト教教会の日本戦略とは、日本を教皇が統治するキリスト教国に作り変え、キリシタン大名教皇に忠誠を誓う神聖騎士団長に承認し、教皇領を異教徒や異端者の攻撃から守る聖戦に狩り出す事であった。
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 アジア諸国における反日とは、イデオロギー的正義論ではなく宗教的神学論争である。
 つまり、悪魔的日本を滅ぼす反日教で、罪を許す事を一切認めない狂信的で排他的で不寛容な原理主義色が強い信仰である。
 韓国の反日は、キリスト教魔女狩りである。
 中国の反日は、儒教的異端審問である。
 敬虔で熱心な反日教徒は、日本国内、日本人の中にも数多く存在する。
 日本と韓国・朝鮮、中国とが、幾ら話し合ったところで和解できないのはこの為である そして、日本が幾ら反省し謝罪し資金を提供しても許されないのは、未来永劫ない。
 原理主義的宗教はカルト的信仰である以上、手の施しようがない。
 反日教が静かに消えるのは相手がいなくなった時、つまり、嫌悪する日本国が崩壊し、憎悪する日本民族日本人が消滅した時である。
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