🔯46」─2─ヴェネツィア・ジェノヴア戦争が大航海時代の端緒となった。1295年~1380年~No.164No.165 

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 真の弱者は、「負けて勝つ」事で生き残って、「損して得(とく)を取れ」ではない。
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 大航海時代を後押ししたジェノヴア銀行。
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 2020年3月号 歴史街道「貿易戦争の世界史
 『覇権争い』はここから始まった
 ヴェネツィアvs.ジェノヴア
 地政学的な劣勢を強みに変えて
 宇山卓栄
 12世紀以来、イタリアの諸都市は、レヴァント(東方イスラム圏)との貿易で大きな利益を上げていました。この貿易は、ルネサンス時代(14世紀から16世紀)の繁栄を生む経済的な基盤となりました。
 レヴァント貿易で栄えたイタリアの2大港湾都市が、ヴェネツィアジェノヴァです。イタリア半島の付け根の東側に位置するヴェネツィアアルプス山脈を東側に迂回し、グラーツを経由して、ウィーンに至るルートでヨーロッパ内陸部と接続していました。
 半島の付け根の西側に位置するジェノヴァアルプス山脈に遮られ、北上することができず、海路で西側に移動し、フランス南部沿岸やスペイン沿岸と接続していました。
 ヴェネツィアジェノヴァ戦争とジェノヴァはレヴァント貿易の利権を巡り、衝突していました。両都市は1295年、ヴェネツィアジェノヴァ戦争を始めます。この戦争は1380年まで続き、ヴェネツィアが勝利し、地中海の交易権を握ります。
 ヴェネツィアは、レヴァント貿易の品物を陸路でヨーロッパ中心部に売っていました。その利益は、ジェノヴァが海路でフランスやスペインの沿岸都市に売るよりも遥かに高かったのです。ヨーロッパ中心部と接続していたヴェネツィアが、地政学的な優位性をジェノヴァよりも有していました。
 しかし、ジェノヴァはその劣勢を逆に強みに変えていきます。ジェノヴァは新たにイベリア半島(スペイン)南部とアフリカ北西部沿岸に経済的拠点を設けます。そして、ポルトガルやスペインの王権と深く結び付いていきます。
 ジェノヴァは、モロッコ港湾都市セウタなどに集まる黄金や物資の豊富さから、アフリカ大陸に大きな可能性を感じていました。アフリカ大陸を南に回り込み、インドへと到達することのできる新航路の情報などを、この頃、ジェノヴァは詳細に掴み始めていました。 
 ジェノヴァは特に、港湾都市リスボンの可能性に着目し、ポルトガルに積極的に資金を拠出(きょしゅつ)し、インド航路を開拓させ、15世紀の大航海時代を幕開けさせます。
 歴史家フェルナン・ブローデルは著書『地中海』で、『ジェノヴァは、何度も進路を変え、そのたびに必要な変貌を遂(と)げた』と記しています。
 ジェノヴァヴェネツィアに敗北したことにより、新たな貿易のビジネスチャンスを掴み、大航海時代において、ポルトガルやスペインとともに世界を開拓し、覇権を握りました。」
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 ウィキペディア
 ヴェネツィアジェノヴァ戦争は、1256年から1381年までの125年間に、ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国およびそれぞれの同盟国の間で、地中海での覇権をめぐり断続的に行われた一連の戦争。実際に戦火を交えた時期は4回に分けられ、その合計は28年に過ぎないが、これに含まれていない時期にも互いの私掠船が略奪しあったり、小規模な衝突が発生したりという事が地中海全域で発生し続けた。
 第一次戦争(1256年 - 1270年)ではヴェネツィアが優位に立ったが、ジェノヴァビザンツ帝国黒海に進出するのを阻止できなかった。第二次戦争(1294年 - 1299年)ではジェノヴァが戦闘では圧倒的な勝利を収めたが、ジェノヴァ内での内紛もあって対立の決着には至らなかった。第三次戦争(1350年 - 1355年)ではヴェネツィアアラゴン王国と同盟し、両陣営の戦力が拮抗したが、一回の大敗北と内紛によりヴェネツィアの勢力が後退した。
 第四次戦争(1377年 - 1381年)では、ヴェネツィアは一時ジェノヴァ連合軍によって本国を占領されかける危機に陥った。最終的には盛り返したヴェネツィアが勝ったものの、双方が甚大な損害を出した戦争は痛み分けに終わった。

 第一次戦争(1256年–1270年)
 
 第二次戦争(1294年–1299年)
 「クルツォラ戦争」も参照

 ビザンツヴェネツィア戦争 (1296年–1302年)

 第三次戦争 (1350年–1355年)

 第四次戦争 (1377年–1381年)
 「キオッジャ戦争」も参照

 その後
 キオッジャ戦争の後も、ヴェネツィアジェノヴァのの対立関係は残った。しかし、ヴェネツィアが立て直しに成功して大陸部の領土を広げ繁栄していく一方でジェノヴァは蓄積した戦債の処理に失敗、慢性的な経済的・政治的不安定の時代に入る。そして1396年、ジェノヴァはフランスの主権を認め、15世紀の間さまざまな国の支配下に入る時代となる。
 1400年以降、西地中海ではアラゴンの勢力が強まり、ジェノヴァにとってヴェネツィア以上の宿敵となった。1458年にアラゴン王アルフォンソ5世が死去するまで激しい対立が続き、両国は3度の全面戦争を経験した。
 ヴェネツィアジェノヴァの紛争は、1403年のモドンの戦いなど散発的に続いた。また1431年から1433年にかけてヴェネツィアとミラノが戦った時、当時ミラノに従属していたジェノヴァも旧敵と海戦をしている。しかしこののち、ヴェネツィアジェノヴァのあいだにかつてのような好敵手の関係が復活することは無かった。
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 ジェノヴァ(伊: Genova ( 音声ファイル))は、イタリアの北西部にある都市。その周辺地域を含む人口約58万人の基礎自治体コムーネ)。リグーリア州の州都であり、ジェノヴァ県県都である。ジェノバとも表記する。
 リグリア海に面した港湾都市で、中世には海洋国家(ジェノヴァ共和国)として栄え、商工業が発展した都市でイタリアの金融業の中心地としての長い歴史を持つ。現代においてもミラノ、トリノなど北イタリアの産業都市を背後に持つジェノヴァ港はイタリア最大の貿易港であり、地中海有数のコンテナ取扱高を誇っている。コムーネ人口は全国6位(2011年現在)。
 歴史
 古代・中世
 ジェノヴァの古名 Janua または Jenua は ケルト語の入り口の意、他の説によると先住民族の王だったと思われるヤヌス(イタリア語ではGiano)から来たとも。
 紀元前6世紀頃から人類が居住していたとされる。ローマ時代には以前より天然の良港という環境を生かし[要出典]、海運業や軍港として発展した。
 ジェノヴァ共和国
 「ジェノヴァ共和国」も参照
 1100年頃より自治都市となり、その後はジェノヴァ共和国として発展する。ヴェネツィア、ピサ、アマルフィなどの他の海洋都市国家と競いながら、軍事力、経済力の影響力を増した。特に商船、軍艦による通商・金融の分野でヨーロッパ全土に権威をふるい、黒海貿易を独占するなどした。コルシカ島、カッファなどのクリミア半島南岸諸都市、コンスタンティノポリスの金角湾北部、イスラーム統治下のイベリア半島諸都市などに植民地あるいは商館を築くなど、地中海の覇権をヴェネツィアオスマン帝国と争った。16世紀には金融業で財を成した貴族が多く現れ、繁栄がピークに達した。アンドレア・ドーリア海軍提督の頃はスペイン王に協力し、多くの貴族が金融で富を築く。その頃は la Superba、すなわち「華麗な都市」との異名があった。
 フランス革命戦争からイタリア統一まで
 1797年、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に侵攻され、その傀儡国家であるリグリア共和国となり、1805年にはフランスに併合、ナポレオン失脚後のウィーン会議後も共和国であったため回復させてもらえず、ウィーン議定書によりサルデーニャ王国編入され、ジェノヴァは独立を失った。その後リソルジメントサルデーニャ王国イタリア半島統一を成し、イタリアの有力な都市の一つとして発展した。
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 ジェノヴァ共和国ジェノヴァきょうわこく、伊: Repubblica di Genova、リグーリア語: Repúbrica de Zêna, 羅: Respublica Ianuensis, 別称: Serenissima Repubblica di Genova)は、ジェノヴァを中心にして1005年から1797年まで存在した都市領邦。
 歴史
 台頭
 古代ジェノヴァは、属州の通過点であった。ローマ帝国崩壊後、東ゴート王国ビザンツ帝国ランゴバルド王国、カロリング朝の支配領域に入り、9世紀半ばから10世紀半ばにかけてはムスリムの襲撃をうける。 956年、イタリア王が国王証書でジェノヴァの住人に対し慣習と所有権を保証する。

 海洋共和国との競争

1283年、シチリア王国アンジュー家支配に対する反乱が起きた(シチリアの晩鐘)。アンジュー家シチリアから追われ、代わってアラゴン連合王国の王家であるバルセロナ家、後にその分家によって王位が継承された。アラゴン側に就いたジェノヴァは、シチリアにおける自由貿易特権を獲得した。ジェノヴァの銀行は、新たにシチリア貴族となった人々への貸し付けで利益を上げた。

 黄金時代
 その後、ジェノヴァジェノヴァの銀行とともに、スペイン帝国の新参の協力者となって顕著な復興を遂げた。

 1575年から1576年にかけて、ジェノヴァで内乱が発生した。コムーネ創設期からの貴族グリマルディ家、ドーリア家、スピノラ家は尊敬されていたが、旧勢力の力に急速に衰えが見え始めていた。旧勢力が銀行業を扱う一方、新興貴族のサウリ家、ブリニョーレ家らは綿と絹の貿易で収入を得ていた。この内乱の後、新勢力と旧勢力の力は拮抗することになった。
 ジェノヴァの銀行業組合の空白が始まったのは、1557年にフェリペ2世がスペインを国家破産させた時だった。この事態はドイツの金融会社を混乱に陥れ、スペイン・ハプスブルク家の財政担当・フッガー家優勢時代の終わりを告げた。ジェノヴァの銀行家たちは、扱いにくいハプスブルク家の制度に流動性のある信用と、頼れる定期収入を提供していた。その見返りとして、信用の劣るアメリカ大陸産の銀出荷先が、急速にセビーリャからジェノヴァへと移管され、さらなる投資のための資本を提供するようになった。ジェノヴァ人銀行家アンブロジオ・スピノラは、例を挙げると、17世紀初頭のネーデルラントでの八十年戦争において、自らが召集した軍を率いて戦っていた。17世紀のスペインの衰退は、ジェノヴァの再度の衰退をもたらしもしたのである。そしてスペイン王室の頻繁な破産は、特にジェノヴァの貿易商社の多くを破綻させた。
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 歴史の事実として、戦争と貿易と宗教は一体で、貿易と交流、布教と慈善、戦争と植民地拡大と奴隷使役である。
 人類の歴史とは、競争の歴史、闘争の歴史、戦争の歴史であり、平和の歴史はその間の休息の時間でしかなかった。
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 敵対者よりも正確な情報を相手よりも早く掴み、相手よりも優位に立つ為にリスクを覚悟で相手よりも先に行動を起こす。
 誰もやっていない事を、自分が前に実行する為に、実行できるように自分を変貌させる。
 それがイノベーションである。
 一番を目指す事で、二番に甘んじる事は何も得ないと同じ事である。
 ナンバーワンであり、オンリーワンであり、総合的なトータルワンである事である。
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