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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本を国防戦略は、周辺諸国を侵略して領土拡大もしくは植民地拡大ではなく、周辺諸国に親日政権を樹立してロシア・ソ連、共産主義そしてキリスト教の侵略から天皇・母国、国民・民族を護る防波堤・砦にする事であった。
中国・朝鮮は古代から日本を仮想敵国であったがゆえに、内政干渉しても親日政権を樹立させる事が急務であった。
日本軍は、中国と朝鮮がロシア・ソ連・共産主義に味方をして日本を攻撃してくるのなら、その意図を砕くために侵攻計画を練っていた。
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中国の近代用語の7割が、日本国語で作られた和製漢字であった。
中国語の口語文は、日本国語の影響で生まれた。
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櫻井良樹「辛亥革命は,その後,混迷を深めていく日本の中国政策の出発点となった.本書は,その出発点において,北京で外交処理にあたっていた外交官(伊集院彦吉),参謀本部で中国政策立案の責任者の位置にあった軍人(宇都宮太郎)などが革命をどう見たのか,混乱する中国に対して日本政府および陸軍はいかに対応しようとしたのか.中国に駐屯・派遣された列強軍,および日本のそれは,革命とどのように関係し,また前後の時期を通じてどのような国際協調をとっていたのかを描く.また革命が,大正期日本政治に与えた影響を,大正政変から第一次世界大戦期までを中心に見たものである.」
『辛亥革命と日本政治の変動
辛亥革命に始まる政治的混乱は,大正期日本の政治変動とどのような相互関係にあったのか.』
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辛亥革命を行った主要幹部の多くは日本留学生であった。
右翼は、辛亥革命に協力した。
革命派は、日本の協力を得て革命に成功するや知日派から敵日派となり、日本軍を撃退する為にアメリカやイギリスから資金援助を受けナチス・ドイツやソ連から軍事支援を受けて軍隊の強化をおこない、無防備な日本人居留民(主に女性や子供)を虐殺した。
最も邪悪だったのが中国共産党であった。
日本軍は、対ソ戦略から、ファシスト中国(国民党)ではなく中国共産党に接近し密約を結んだ。
日本軍は、ファシスト中国軍に味方するドイツ軍やソ連軍を撃破した。
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中学校社会 歴史/辛亥革命
辛亥革命と中華民国の建国
孫文(そんぶん)。(生1866~没1925)
1905年(日露戦争後)には東京で、のちの辛亥革命の母体になった中国同盟会(ちゅうごく どうめいかい)を結成した。1925年に死去。
現在では、台湾および中華人民共和国で、国の父などと言われており尊敬されている。
中国同盟会、前列右端が孫文。後列中央のヒゲの多い人物は宮崎滔天(みやざき とうてん)という日本人。1890年。
日露戦争後の1911年に中国大陸で革命が起きて 中華民国(ちゅうかみんこく)が建国され、 孫文(そんぶん、スンウェン)という人物が中華民国の代表者に選ばれる。この一連の革命が 辛亥革命(しんがい かくめい)である。
孫文は、政治の方針として、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」(みんせい)の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えた。
解説
革命前の状況
日露戦争の以降、戦争に勝った日本から近代化の方法を見習おうと、清からは多くの留学生が日本にやってきた。清の政府も、戦後は、戦前までの方針をあらため、封建社会は維持しつつも、日本政府とも協力して近代化のための改革を進めることにした。
日本国内では、言論の自由などが保障されていたので、清などの周辺国からは革命家などが日本へ亡命のために滞在した。日露戦争に日本が勝ってからは、より多くの外国人が日本に学びにきた。欧米に植民地にされている国からも、欧米を倒すために近代化の方法を学ぼうと、多くの者たちが日本に訪れた。
これから紹介する孫文(そんぶん、スンウェン)も、政治運動などのため、日本に滞在していた時がある。
当時の日本政府は、欧米との友好の政策方針のため、あまり日本国内での反欧米の革命家の滞在や活動を好まなかったが、民間人や一部の政治家などが、周辺国の革命家を支援した。
そして、まだ孫文たちが革命を起こさないうちに、中国で革命が急に起きる。次の節で説明する。
辛亥(しんがい)革命
1911年、中国の四川省での鉄道の国有化および、その鉄道の外国への借款に対する反対の暴動が起き、この反乱に応じて、武昌(ぶしょう、ウーチャン)で軍隊が反乱を起こした(鉄道借款が国権を売り渡す行為と批判された。)。
そして各地で反乱が起こり、清からの独立宣言が次々と起きた。 これが辛亥革命(しんがい かくめい)である。
当時、中国人の革命運動家として有名であった孫文(そんぶん、スンウェン)は、この辛亥革命を起こしてない。革命当時、孫文はアメリカに滞在しており、アメリカで革命の知らせを聞いた。孫文は、アメリカのほかにも、日本に滞在し中国での革命のための運動をしていた時期もある。中国大陸では、清国の王朝を倒そうとする革命運動は、当然、取り締まりを受けていたので、日本やアメリカで孫文は中国での革命のための運動を行っていたのであった。
革命後、孫文は中国大陸に帰国した。
そして、革命運動の代表者が決まっていなかったので、1912年に臨時政府の代表者として孫文が 臨時大総統(りんじ だいそうとう) として選ばれた。
孫文は、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」(みんせい)の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えていた。
そして孫文たちは、中華民国(ちゅうか みんこく)の建国を宣言した。中華民国の首都は一時的に南京(ナンキン)に変わった。
まだ、清の皇帝は生き残っている。清の宮殿なども、残っている。
しかも孫文は、臨時の代表者にすぎない。
実際に中華民国で権力をにぎったのは、かつて清国の政治家であり、軍を掌握していた袁世凱(えん せいがい、ユワン シーカイ)だった。孫文には軍隊を管理する能力がなく、孫文に大した実権はなかった。
袁世凱は、清の皇帝を退位させ、そして袁世凱が最高権力者の大総統になった。皇帝が退位したことにより、清の王朝は終了した。
そして中国の首都は南京(ナンキン)から北京(ペキン)にもどった。
袁世凱は、独裁政治を始めた。
結局、孫文は日本に亡命することになった。
1915年に、袁世凱は病死した。袁世凱の死後、中国はまとまらず、各地に軍閥(ぐんばつ)が出てきた。
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ウィキペディア
中国同盟会は、清末、1905年8月20日、孫文らにより東京で結成された政治結社。略称は同盟会。孫文を中心に清朝打倒を目指す革命運動の指導的役割を担った団体である。
成立
1905年7月、黒竜会の指導者であった内田良平により孫文が東京に赴き中国同盟会の設立準備に着手した。8月20日、頭山満が提供した赤坂区の民家の2階で興中会(孫文・胡漢民・汪兆銘など)、光復会(陶成章・章炳麟・蔡元培・秋瑾など)、華興会(黄興・宋教仁・陳天華)などが合併して中国革命同盟会(後に日本政府の干渉により中国同盟会と改称)が成立、孫文を総理、黄興を庶務に選出すると同時に『軍政府宣言』、『中国同盟会総章』及び『革命方略』などの文書を採択し、国内外に支部及び分会を設置、華僑、会党、新軍と連絡し全国規模の革命組織となった。
辛亥革命前
同盟会は孫文が提唱する「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を綱領に採用、機関誌として『民報』を発行した。同盟会は孫文の唱える中華民国政府の元に立法・行政・司法を設置する三権分立を確立することを目標とし。編集長の陶成章と章炳麟のもと胡漢民と汪兆銘が執筆した『民報』は帝政維持を主張する康有為・梁啓超により『新民叢報』と激しい論戦を繰り広げた。
同盟会は1906年にシンガポールに南洋支部を設立し、東南アジアでの活動を展開するなど運動の発展を見たが、1907年、孫文が会員の同意を得ることなく日本政府から資金を受けて日本を離れたことに反発して光復会が離脱、孫文は汪兆銘、胡漢民等と共に南洋本部を組織、黄興なども孫文への支持を継続している。
同盟会は清朝打倒のための1906年より地方支部との協力のもと萍瀏醴起義(1906年12月:丙午萍瀏之役とも)、黄岡起義(1907年5月:丁未黄岡之役とも)、七女湖起義(6月:丁未恵州七女湖之役とも)、欽廉防城起義(9月:丁未防城之役とも)、鎮南関起義(12月:丁未鎮南関之役とも)、欽廉上思起義(1908年3月:戊申馬篤山之役とも)、雲南河口起義(4月:戊申河口之役とも)、広州新軍起義(1910年2月:庚戌広州新軍之役とも)、黄花崗起義(1911年4月27日:辛亥広州起義とも)の武装蜂起を行うがいずれも失敗している。特に黄花崗起義では多くの成員の犠牲者を出している。
辛亥革命後
辛亥革命勃発後、同盟会の本部は東京より上海に移された。1912年に南京に臨時政府が成立すると閣僚9名のうち3名が同盟会成員から選出されたが、この時期には同盟会は三民主義や土地分配を巡り意見対立、更に章炳麟や黎元洪による共和党結党により分裂状態に陥っていた。
1912年8月7日、同盟会は宋教仁を中心として、統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会と併合、北京において国民党(中国国民党とは別組織)が成立した。1913年に袁世凱が大統領に就任すると、この国民党は強制的に解散させられた。
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孫 文(1866年11月12日(清同治5年10月初6日) - 1925年(民国十四年)3月12日)は、中華民国の国父・政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として、近年「国父」と呼ばれる。
中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935年から1948年まで発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。中国国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。
革命家へ
日本へ亡命
清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
1900年、義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と結婚した。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。
アメリカとヨーロッパへ
のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した。 以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。
1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。
長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言ってきた。同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の蒋介石と出会う。
中華民国建国
1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。
国民党と第二革命・第三革命
1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得。 同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした。宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウによる強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。
1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位する。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁は病死するが、段祺瑞が後継者になる。
広東軍政府と護法運動
詳細は「護法運動」を参照
この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立する。しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明との路線対立により、広州を追われた。
再び日本へ
孫文は一時的に再び日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。
この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年 - 1916年の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった。
五・四運動の影響
1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「抗日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。
この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[8]。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。 旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。
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宮崎 滔天(みやざき とうてん、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 大正11年(1922年)12月6日)は、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師。欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと[1]、大陸浪人として活躍した。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた。
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和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6月22日) - 1926年(大正15年)11月1日)は、明治・大正時代の自由民権活動家、アジア主義者。板垣退助の秘書。辛亥革命の支援者。
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