🗽7」─3─トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』。平等の「自然権」と禁制の「自然法」。殺人における平等性とアメリカ独立宣言。〜No.22No.23No.24 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    

 西洋は、罪の文化で罰の意識が強い。絶対神と救世主(メシヤ)の奇跡と恩寵に個人として感謝し祈った。
 中国は、徳の文化で義の意識が強い。
 朝鮮は、恨の文化で怒の意識が強い。
 日本は、恥の文化で穢れ意識が強く、血と死を恐れおののき忌避し、平らかに平穏無事をよしとした。己に恥じぬ美しい生き方。

 島の日本と大陸の西洋・中国・朝鮮とは違う。

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 マルクス主義共産主義には、文化はないし意識もなく、あるのは一党独裁の暴力と死の恐怖支配だけである。

 血を好み、死体の山を築いた。
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 2019年3月号 Voice「日本は世界最古の民主国  竹田恒泰
 第9回 万人の闘争をいかに止めるか
 神を国家の統治原理から除く 
 前号で現代のアメリカが『マクドナルドで買ったコーヒーで火傷をしたら訴える』という極度の訴訟社会になっており、その遠因は『独立宣言』の思想にあるのではないか、と指摘しました。『独立宣言』は権利の根拠を神に求めておきながら、神に対する義務については記さない、という欠陥がある。そのため、いつしか『権利は自分のわがままを押し通すことだ』という一面的な解釈が生まれてしまったのではないか。そして権利の濫用(らんよう)は現代のアメリカだけではなく、欧米の人権概念を輸入した日本にも当てはまる問題だ、と述べました。
 『独立宣言』の中心的な起草者であるトーマス・ジェファーソン(1743~1826,第3代大統領)は、アメリカ合衆国の父の1人とされます。ただ、ジェファーソンが独立宣言を書き始めてから草稿(そうこう)が大陸会議に手渡され、採択されるまでの期間は約三週間しかありませんでした。草稿の内容は当時、知識人のあいだで流行していた啓蒙思想を土台とするものでした
 草稿案のベースの一つとなったのは、イギリスの哲学者・思想家トマス・ホッブズ(1588~1679)の思想でした。ホッブズの主著『リヴァイアサン』の言葉『万人の万人に対する闘争』はあまりにも有名です。
 これから詳しく見ていきますが、ホッブズは人間の『自然状態(政治社会が形成される前に、人間が置かれた状態)』をお互いに争う『闘争状態』とみなし、そこから国家がうまれると説きました。
 長谷川三千代先生(埼玉大学名誉教授)によれば、『このホッブズこそ、のちに人々が「人権」と呼ぶことになる概念を最初に提示した人物』(『民主主義とは何なのか』)ということになります。
 ホッブズの偉大さは、神という概念を持ち出さず国家の統治原理を説明する理論を構築したことです。多生荒削りな部分があるとはいえ、その理論展開は至極(しごく)明快で、同寺に人間に対する洞察がじつに細やかで鋭い。私も、社会思想家としてのホッブズに大いに刺激を受けた一人です。
 そもそも、ホッブズはなぜ神を統治原理から除こうとしたのか。その動機について、長谷川先生うあ次のように解説していらっしゃいます。
 『ホッブズがその当時のキリスト教のあり方を眺めて、そこに一抹(いちまつ)の危惧を感じ取ったのではないか、とも想像される。実際、15、16世紀のヨーロッパにおいて、キリスト教は「良き統治(エウノミア)」を支えるものというより、「悪しき混乱(デュスノミア)」をもたらす元凶としての側面が目立つようになってしまっており、これは、新教という或る種のキリスト教原理主義の出現とともに、キリスト教の内に本来もともとひそんでいた反社会的な性格があらわになってきた現象、とも言えるものであった。それを正しく見て取ったからこそ、ホッブズは断固として自らの理論から「神」を占め出したのだ、という見方も成り立つであろう』(同前)
 ホッブズが『リヴァイアサン』を執筆した時期は、新教、つまりピューリタン(新教徒)による革命が進行していたころでした。1694年にクロムウェル率いるピューリタンがチャールズ1世を処刑し、イギリスは一時期、共和政に移行しましす。内戦の勃発と国王の処刑という事態はホッブズにとって忌まわしい出来事であり、この混沌が彼をして国家ノ統治原理を一から構築する使命感に駆り立てさせたのです。
 殺人における〝平等性〟
 では、ホッブズの『リヴァイアサン』を読んでいくことにしましょう。たいへんな大著ですが、本稿では、これら2章におけるホッブズの主張を中心に読み解いていきます。
 ホッブズは、そもそも人間は生まれながらにして平等であることを説きます。ところが、その理由がじつに斬新というか、意外性に富んでいる。すなわち、人間は殺し、殺され合う力において平等だからだ、というのです。
 『自然は人びとを、心身の諸能力において平等につくったのであり、その程度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかにつよいとか、精神のうごきがはやいとかいうことが、ときどきみられるにしても、すべてをいっしょにして考えれば、人の人とのちがいは、ある人がそのちがいにもとづいて、他人がかれと同様に主張してはならないような便益を、主張できるほど顕著なものではない、というほどなのである。すなわち、肉体のつよさについていえば、もっとも弱いものでも、ひそかなたくらみにより、あるいはかれ自身とおなじ危険にさらされている他の人びとの共謀によって、もっとも強いものをころすだけの、つよさをもつのである』(『リヴァイアサン』水田洋訳、岩波文庫
 たとえば『もっとも弱いもの』が『もっとも強いもの』を殺す手段として古来、行われてきたのが暗殺です。第一次世界大戦は1914年6月、ボスニアの州都サラエボで、オーストリア皇位継承者夫妻がセルビア人の民族主義者に暗殺されたことがきっかけで起こりました。名もなき青年が放った『一弾』がその後、4年3ヵ月にも及ぶ凄惨な大戦争に発展したのです。
 人間の歴史は、こうした一弾を通じた暴力の連鎖に溢れています。平和で民主的な国家であるはずの現代日本でも、理不尽な殺人事件が後を絶ちません。
 最近、私がとくに痛ましいと感じるのは、2018年6月に東海道新幹線内で起きた無差別殺人事件です。車内で鉈(なた)を振り回す凶漢に対し、乗客の梅田耕太郎さんが勇敢にも立ち向かった末、犯人に切りつけられてしまい、亡くなりました。報道によれば、梅田さんは東京大学の大学院を卒業し、日本の将来を背負って立つことを期待された優秀な研究者だったそうです。他方、犯人がいわゆる社会的な落伍者であったことは間違いなく、梅田さんの輝かしい経歴に比べて対照的というほかありません。しかし立場の差異を問わず、無残な殺人は起きてしまった。殺人にはこのような理不尽ともいえる『平等性』があるわけです。
 争いの原因となる人間の本性
 ホッブズが生きていた時代に起きたことは、前述した国民による国王の処刑でした。さらにその後クロムウェル率いるイギリス軍は、アイルランドスコットランドでも凄惨な虐殺事件を起こしている。果てしなき暴力の連鎖をいかに止めるか──このような問題意識に基づき、ホッブズは考察を進めています。
 ホッブズによれば、争いの原因となる人間の本性には次の3つがあるといいます。第一は『競争』、第二は『不信』、第三は『誇り(グローリー)』です。いわく『第一は、人びとに、利得をもとめて侵入をおこなわせ、第二は安全をもとめて、第三は評判をもとめて、そうさせる。第一は自分たちを他の人びとの人格、妻子、家畜の支配者とするために、暴力を使用し、第二は自分たちを防衛するために、第三は、一語一笑、ちがった意見、その他すべての過小評価のしるしのような、些細なことのために、それらが直接にかれらの人格にむけられたか、間接にかれらの親戚、友人、国民、職業、名称にむけられたかをとわず、暴力を使用する』(同前)。
 とくに言論に携(たずさ)わる者にとって、注視すべきは第三の『誇り』に関する部分でしょう。たとえばインターネット上の論戦では、時として『支持者』を名乗る人びとが勝手連的に介入し、炎上の火がさらに広がって収拾がつかなくなることがあります。
 もともと言論には党派性があり、対抗勢力への批判が嵩(こう)じて特定の個人をネット上でいっせいに攻撃する、相手のところへデモの押しかけて謝罪の要求や制裁を声高に叫ぶというのは論外です。かといって、圧力に屈して自ら矛(ほこ)を収めてしまうのもまた論外。言論には言論で対抗する、という基本軸を外してはなりません。
 いずれにせよ、人間はひとたび理性のタガが外れればいつ何時『万人の万人に対する闘争』を始めかねない本性をもっている。
 ただしホッブズは、その一方で人間には『平和』に向かう諸情念がある、と主張します。なぜなら平和を求める理由の一つに『死への恐怖』があり、さらに快適な生活への欲求や働いてお金を稼ぎたい、という思いがあるからだ、といいます。
 理性によって自然権を捨てよ
 ホッブズのいうように、人間は殺し、殺され合う関係において平等であり、自分の生命を維持するためには『先手をうつことほど妥当な方法はない』(同前)存在だとすれば、人間同士の対立は行き場を失いかねません。どぎつい言い方をすれば、それは『やられる前にやれ』という理屈だからです。生命保存の欲求が自らの命を危機に晒(さら)す、という悲劇的な逆説のなかに私たちは生きていることになります。
 ホッブズは、人間が自分の生命を維持するために意志と力を行使することを決して否定しません。むしろ、各人が生命保存の意志と力を等しくもつことを人間の自由として認め、それを『自然権』として位置付けました。ここにホッブズの独創性があるわけですが、さらに大事なのは、彼自身がそのようにして位置付けたはずの『自然権』を放棄せよ、と主張していることです。
 人が生まれながらにしてもつとされる『自然権』について、アメリカの独立宣言では『自然権』は『生命、自由、および幸福の追求』とされ、普遍の権利を確保するために政府が設置される旨(むね)が記されています。
 しかしホッブズは『自然権』を、一度は手にしながら進んで手放すべきものだというのです。なぜなら、そうしなければ人間同士の『万人の万人に対する闘争』は終わらず、社会に平和が訪れることはないからです。
 自然権に関するホッブズの見方の違いは決定的に重要で、現代の権利の概念が歪(ゆが)んだものになってしまった原因もじつはこの点に求められます。しかし結論を急ぐ前に、もう少しホッブズの言説に耳を傾けることにしましょう。
 ホッブズは、人間は誰しも『自然権』をもつ、としながらもその自然権を捨てよ、というわけですが、いったいそれはどのようにして可能なのか。この点がホッブズ啓蒙主義といわれる所以(ゆえん)ですが、それはまさに『理性』の働きによってである、というのです。
 たとえ人間には生命を維持するための『自然権』があるといっても、殺人が自由に認められる社会は存在しません。その禁止こそが動物にはない、人間がもつ理性のなせる業(わざ)だといえる。ホッブズはそのような理性によって発見さえた戒律、一般法則のことを『自然法』と呼び、『自然権』と明確に区別しています。
 さらにホッブズは、人間の理性がつくり出した『自然法』のなかでも、最も重視すべき『基本的自然法』として『第一の自然法』を定義しています。次の文言がそれです。
 『平和をもとめ、それにしたがえ』(同前)
 この大原則を定めたうえで、さらに彼は『第二の自然法』を導き出します。
 『人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だとおもうかぎり、他の人びともまたそうであるばあいには、すべてのものに対するこの権利を、すすんですてるべきであり』(同前)
 この部分が、前述の『自然権』を放棄せよ、と説いた箇所です。また、『他の人びともまたそであるばあいには』という条件が付されている点に注意が必要です。つまり『自然権』の放棄には、全員同じという付帯条件が必要になる。いつ他人に殺されるかわからない人間が、自分だけ先に『自然権』を放棄する、という不利を甘受(かんじゅ)するはずがないからです。
 さらにいえば、社会の構成員のあいだに『自然権』を相互放棄するという契約がなければ、自然権の放棄は実現しません。ここから『人びとは、むすばれた信約(引用者注:契約のこと)を履行(りこう)すべきだ』との『第三の自然法』が導き出されることになります。
 国家権力による制裁
 第一から第三までの『自然法』の要点を一つにまとめると、『自然権の相互放棄に関する契約を結ぶことを』というるでしょう。しかしさらに発生する問題として、自然権を相互放棄する契約をいかに強制力のあるかたちで遵守させるか。
 ここで登場するのが、国家です。もし社会の構成員の誰かが契約を破ったら、国家権力によって制裁を受ける。罰による『恐怖』がなければ、人間はいつ何時、契約を破って『闘争状態』に戻るかわからない。国民は国家の下で契約を結び、自分たちの安全と福祉を共通の条件のもとに確保できる。このように、契約によって国民と国家間で権利を成立さしめる思想のことを『社会契約論』といいます。ホッブズはその元祖ともいえる存在です。 最強の力をもつ怪物 
 もちろん歴史上、ホッブズが述べる『社会契約』がいつ、どの国で締結されたという具体的な記述は存在しません。『社会契約論』とは、あくまでも神という概念を抜きにして国家の成立を説明するためのフィクションにすぎない。にもかかわらず、ホッブズの考え方は民主主義の『原点』を考えるうえで、たいへん貴重な示唆(しさ)を含んでいると思います。
 また、ホッブズは『国家とは人工物に擬する』という興味深い試みを行っています。その比較として用いたのが、本のタイトルともなっている『リヴァイアサン』。旧約聖書の『ヨブ記』に登場する海中生物です。あらゆる武器が通じず、最強の力をもつ怪物をホッブズはなぜ国家に例えたのか。長谷川先生はで『民主主義とは何か』で、次のように解説しています。
 『ホッブズはその名を選んだことを自ら説明して、それが「ヨブ記」に「あらゆる傲(おご)り高ぶる子らの王」──人々の傲慢(ヒュプリス)を屈服させるもの──として描かれていることを指摘しているのである。すなわち、神なき世界において、ただ自らの権利をかざして傲り高ぶる人間たちは、第13章(引用者注:『リヴァイアサン』の第13章)に見た通りの悲惨な状態に陥るいかない。彼らがふたたび幸福な人間らしい生活を送るためには、何よりもその傲慢を克服することが不可欠である。そして、そのためにこそ「国家(コモン・ウェルス)」が建設されなければならない──これがホッブズの基本的な考えだったのである』
 ホッブズは当時すでに、神なき国家に生きる民が無闇(むやみ)に権利を主張するようになる事態を見抜いていた、ちうるでしょう。ところが人々は傲慢にも、ホッブズが捨てるように諭(さと)した『自然権』を『神から与えられた至高(しこう)権利』として祀(まつ)り上げてしまった。この伝統により、後世の国民が理性を欠いたまま好き勝手に権利を主張するようになったのも頷けようというものだ。
 民主主義は国民性次第
 さらに、もし『自然権』を至高のものと考える人間が生きるか死ぬかの極限状況に陥ったら、何が起きるのか。ホッブズが予測したおり、たちまち本性を顕(あら)わして『万人の万人に対する闘争』を始めるでしょう。
 そんな野蛮なことをするはずがない、と思う方がいるかもしれません。でも、それは民主主義化された先進国でも実際に起こりうることなのです。
 2005年8月、ハリケーンカトリーナアメリカのルイジアナ州を襲ったとき、同州ニューオリンズ市での大規模な略奪行為が発生しました。暴徒と化した住民が次々と商店を破壊し、盗みを働く映像がテレビで放映され、全世界に衝撃が広がりました。
 私が驚いたのは、ある家族がテレビ局のインタビューに対し、ショッピングセンターから略奪した〝戦利品〟を誇らしげに掲げる光景でした。父親の号令のもと、子供たちも略奪に加わっており、自分たちの行為を恥じる様子がまったく見られない。みんなが略奪行為に走っているのだから、自分たちも盗んで何が悪いのか、という開き直りを感じて啞然としたのを覚えています。
 他方で対照的だったのが、2011年3月11日に東日本大震災が起きた際の被災者の姿でした。地震津波で生活が破壊されたにもかかわらず、辛抱して礼節を失わずに協力し合い、自力で立ち直ろうとする姿は世界中の感動と敬意を集めました。各国メディアは災害に耐え抜く人びとの姿勢に驚き、日本人の精神性を讃(たた)える内容の記事を次々と載せました。
 たとえば同年3月20日付の『ニューヨーク・タイムズ』は、『アメリカは日本から何かを学ぶべきである』(The Japanese Could Teach Us a Thing or Two)と題した論評を掲載しました。この記事を書いたニコラス・クリストフ氏は、東日本大震災で日本人の『団結が深まった』と指摘し、『我と欲を捨てる精神と冷静さ、規律を尊重するという日本人の行動規範を福島の原発で危険な作業を続ける作業員が体現している』と称賛しました。苦難に耐える日本人を『立派な高貴だ』と記したのは、自国のニューオリンズで起きた略奪に対する深い遺憾の念があったからでしょう。
 いくら大規模な災害に見舞われようと、略奪や暴動をしないのは日本人にとっては当たり前のことで、国内ではニュースにすらならない。ところが外国では驚嘆に値する行為であることを、私もこのとき初めて知りました。
 以来、私は民主主義と一口でいっれも、それを『正しい』ものとして運用するには人びとの立派な精神が不可欠である、と考えるようになりました。そして国民の精神を形づくるものは国家が辿った歴史や伝統、宗教観にほかならない。まさに『民主主義は国民性次第である』という点を確信するに至ったのです。
 現代の『万人の万人に対する闘争』
 繰り返しますが、ホッブズは『自然権』と『自然法』を分かつのは理性である、と考えました。理性が生んだ『自然法』を、神なき国家を成立させるための基礎として据(す)えたわけです。
 ところが、アメリカの『独立宣言』やフランスのは『人権宣言』、ホッブズが放棄を唱えた『自然権』を再び神の名の下に置いてしまった。その結果、いま起きているのは際限なき自己の欲望の拡大と、権利の濫用ではないか。これは形を変えた、現代の『万人の万人に対する闘争』なのではないか。そう捉えたとしても、決して言い過ぎではないと思います。
 むろん、いくら理性が大事といっても絵空事にすぎない、という批判は成り立つでしょう。『国民を啓蒙すれば闘争をやめて平和に向かう』と考えた啓蒙主義の思想は甘いといえばそうでしょう。現に、世界の歴史はそのような生易しいものではありませんでした。二度の世界大戦が民主主義を選んだ国の意思によって起きた事実を見ても、人間の本性は闘争を好むものかもしれません。
 しかし、東日本大震災で日本の被災者が見せた節度ある行動は、無闇に権利ばかりを主張する現代風の個人主義とはまったく異なる日本人の『精神的気質』が表出したものです。私は、この精神的気質のなかにこそ民主主義に不可欠な『理性の復権』を見ます。その要諦(ようてい)を一言で表せば、私利私欲ではなく、公共の福利のためにこそ民主主義はある、ということです」

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 現代日本人のローカルな古典や教養を否定するグローバルな知見や知識では、人類・人間も自然も生物も理解できない。
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 人間は、自然に生きる生物である以上、自然界の掟として、勝者に殺す権利があり敗者に殺される義務がある。
 自然に生きるとは、そういう事である。
 だが、強者が勝者ではなく、弱者が敗者とは限らない。
 自然界の殺し合いにおいて、偶然と幸運、経験からの学習能力と生き残る為の特技で弱者が強者に勝つ事がある。
 弱肉強食であるとともに強肉弱食もありうるといのが、自然の恐ろしさである。
 生物史に於いて、強者は絶滅し、弱者は生存競争に耐えて生き抜き子孫を残した。
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 自然権は、市民が暴徒となり、欲望に駆られた暴動、略奪・強奪、放火、暴行、殺人、強姦等を正当化し、欲望を素直に満たす行為は人に与えられた当然の権利と認めている。
 欲望の実現は、人間の偽らざる本性である。
 人間が自然に素直に生きるとは、自然権を当然の権利として行使する事である。
 血と死が、自然権を強化する。
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 力の覇道や徳の王道を貫く強者は、一時は絶対王者となるがいずれは衰えて滅びる。
 強者必滅を証明しているのが、中国や朝鮮などの東アジア史、中華の歴史である。
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 絶対神天地創造の主による隣人愛の福音を絶対真理とする西洋は、理性を働かせ、弱者救済として強者より弱者、富者より貧者を救済した。
 反宗教無神論マルクスレーニン主義共産主義)は、神の隣人愛信仰による弱者救済を否定し、科学至上主義と自然権を社会の絶対真理とした。
 それが、自己責任追求と自力救済否定の「働かざる者喰うべからず」と「一人は万人の為、万人は一人の為」である。
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 日本民族日本人は、人類の中で、東アジア人(中国人・朝鮮人等)の中でも、病的なほどに自然権意識が稀薄である。
 その意味で、日本民族日本人は、自然と生物の掟を拒否し、人として世界常識がない人間である。
 つまり、日本民族日本人ほど自然及び生物そして人間社会に反した生き方をしている。
 日本のグローバル化とは、日本民族日本人を自然及び生物の掟と人としての世界常識で生まれ変わらせる事である。
 現代日本グローバル化を受け入れて徐々に変化し、自然及び生物の掟と人としての世界常識が社会に根付き始めている。
 人は変わりうる生物である。
 その優れた順応性ゆえに、極寒の極地から猛暑の砂漠、海底から宇宙空間まで棲息圏を広げている。
 同時に、多くの生物種を無意味に絶滅・死滅・消滅させてきた。
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 日本民族日本人の特性は、臆病ではないが気の弱さ・精神力の脆弱さ、争い競うを事を嫌う、それ故に凶暴化して暴動や略奪を行わない。
 日本民族日本人と中華人である中国人、韓国人・朝鮮人とは違うのである。
 日本人が世界人に成長できないのは、争い競う事を嫌う「気の弱さ」「精神力の脆弱さ」という日本民族の特性にある。
 日本民族日本人は、生存競争力が低い、強者・勝利者ではなく弱者・敗北者である。
 それ故に、日本は世界で理解されないし、日本人は世界で嫌われる。
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 世界が日本を最も恐れたのは、災害時での、国家や社会が崩壊しない団結力・統率力と欲望に駆られた暴動や略奪を行わない自制心・自律心であった。
 世界は日本民族日本人の特性を破壊するべく、GHQ占領期に日本大改造策を施し、その成果が1980年代後半から都市部から徐々に表面化し始めている。
 世界常識・世界基準を日本に根付かせたいと願う国際派日本人は、グローバル化を正義として日本民族日本人の特性の崩壊に躍起となっている。
 その一つが、外国人移民・難民の推進である。
 国際派日本人の中核となっているのが、反ナショナリストの反天皇反日的日本人である。
 グローバルは、ローカルを滅ぼす。
 グローバルとローカルの共生・共存はありえない。
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 人間が持つ残酷な野生を押さえ込む為に絶対正義・絶対価値観が求められ、キリスト教は自己犠牲と隣人愛を説き、儒教は徳・仁・礼・義を説いた。
 世界の普遍的な宗教や哲学、思想、主義はこうして生まれてきた。
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 地獄の様な無慈悲にして虐殺は、世界基準・世界常識が支配する大陸で繰り返されていた。
 日本には、小規模な殺し合いはあったが、世界規模の虐殺は起きなかった。
 人類史上もっと悲惨な大虐殺を行って来たのは、宗教ではなく主義主張で、その際たる主義が共産主義マルクス主義)であった。
 現代で共産主義を行っているのは、中国と北朝鮮である。
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 人類の生き方に、ローカルな日本流生き方とグローバルな世界・大陸流の生き方がある。
 日本流の生き方とは、地が終わる辺境、生死の境界に生きるという方法である。
 人類・人間とは、大地の上を主体性を持って動き回る生物であって、陸地から切り離された海の上や海中・海底で漂って生きる浮遊生物ではない。
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 世界における普遍的な「正しさ」とは、自分の思いや考えそして神への理解を他人と激しく論戦して導き出すものであり、日本流に争いを避け曖昧に中途半端にいい加減に放置しては求められないと信じられている。
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 自然災害などにおける日本人被災者の秩序を保って行動する生き方は、生存を最優先とする自然に生きる自然権において認められない「悪」である。
 つまり、日本は正しいとは限らない。 
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 日本をグローバルな「自然に生きる自然権」で大改造する為には、外国人に「平等権」を与えて移民として大量に受け入れる事である。
 外国人移民とは、日本から民族的ローカルを消滅させ世界基準のグローバルにする最良の手段である。
 外国人移民及びその子孫が多数派となり、日本民族日本人が少数派になれば、日本に世界基準の下での「自然な平等権」が行き渡る。
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 東アジア=中華とは、自然権の平等が支配する世界であり、自然法の効力が薄い社会契約が通じない社会である。
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 個体として強弱・優劣は、そく勝者と敗者となる。
 弱者であっても、死を恐れない勇気があり、他より優れた賢さがあり、他に負けない特別能力や特殊技能があれば、弱者は一つにまとまって集団となれば強者と戦って勝つ事ができる。
 その実例が、日清戦争日露戦争であった。
 近代化したばかりの日本は世界の弱小国であったが、清国(中国)もロシア帝国も世界が恐れるほどの強大な軍事植民地帝国であった。
 世界的常識人であれば、弱小日本が強大国の清国やロシア帝国と戦えば「必敗」と確信を持って発言していた。
 人類史・世界史どころか生物史の「強者必勝・敗者必敗」という弱肉強食の原則が覆った瞬間が、日清戦争日露戦争であった。
 故に、日清戦争日露戦争における日本の正々堂々とした勝利は、強者・優位者・上位者に恐怖を与え、弱者・劣位者・下位者に勇気を与えた。
 日本の勝利は、背水の陣として、全滅・玉砕を覚悟した、「窮鼠猫を噛む」の捨て身の撃って出て反撃したからである。
 それは、信仰や宗教ではなく民族や天皇を守る為ならば死んでも本望という武士道精神・日本精神・大和心であった。
 敵意・悪意・邪心をもって不埒にも近寄れば斬る、強者・優位者・上位者ならばなおさら容赦せず「叩っ斬る」である。
 日本の聖戦とは、宗教や哲学ではなく、神への信仰や主義思想への教条でもなく、生身の伝統・文化を持った民族としての生存の為であった。
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 昔の日本人と現代の日本人は、全くの別人である。
 差別主義や排他主義の現代の右翼・右派・ネットウヨクは、昔の日本人を猿真似をしているだけで全くの別人である。
 勿論、理想主義や平和主義の現代の左翼・左派・ネットサヨクは昔の日本人を完全否定している輩である以上、昔の日本人とは違う。
 現代日本には、武士・サムライはいないし、武士道精神・日本精神・大和心もない。
 左右に関係なく彼らは、伝統・文化を持った日本民族日本人ではない。
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 日本と対極にあって相容れない存在が、暴力と死の恐怖体制を究極の正義とする反宗教無神論一党独裁体制の共産主義である。
 ゆえに、日本は「生存を賭け」て共産主義と一人孤独な戦争を続けていた。
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 男子の精子劣化、女子の卵子老化、生殖機能の退化、繁殖能力の衰退によって、日本民族日本人は消えゆく民族である。
 それを招いたいるのは、現代の日本人である。
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 グローバル社会は自然災害や戦争で法秩序が崩壊すると、ローカル社会では起きないような、暴動や強奪、殺人や強姦、放火や破壊が自然発生的に起きる。
 日本は、西洋・中華などの世界とは違う。
 日本がグローバル化すれば、日本でも同じ様な事が起き始める。
 崩壊を食い止めるのは至難の業(わざ)だが、崩壊は簡単に起きる。
 崩壊を食い止める事は苦悩と苦痛を伴うが、崩壊させる事は痛快で快感を生み出す。
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 日本社会は、日本神道・日本仏教・日本儒教による多種多様性、多重性、多層性、多元性の複合・複雑に入り乱れた状態で平和を保っていた。
 日本神道は女性神天照大神天皇家・皇室の祖先)によって女性的で、日本仏教は如来と観音によって両性的で、日本儒教孔子と聖人君子によって男性的であった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人奴隷交易で大金を稼いでいた。
 神の王国を創ろうとするキリスト教原理主義者からすれば、異教国日本は滅ぼすべき悪の王国であり、異教徒の祭祀王天皇は生きたまま焼き殺すべき悪魔教の王であり、異教徒日本人は邪悪な悪魔教から救い出すべき迷える子羊であった。
 ローマ教皇は、「改宗日本人は奴隷にしてはならない」との教書を発し、背く者は「破門する」との布令を出した。
 日本人に対して、「奴隷になりたくなければキリスト教に改宗しキリシタンになれ」と命じたに等しい。
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 自然権として、人は人を殺す権利がある。
 つまり、キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストには、昭和天皇や皇族を殺す権利がある。
 同時に、日本民族日本人には天皇や皇族を守る為にキリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストを弾圧し、拷問し、処刑する権利がある。
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 自由、人道、人権、道徳、倫理、礼節などが、ない世界では哲学や思想で尊重すべきものとして強調されるが、ある世界では考えたこともなく当然として哲学や思想は生まれなかった。
 あればつくらず、なければつくり、必要であれば持つ、必要でなければ持たない、である。
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 現代日本人特に高学歴知的エリートは江戸時代や明治中期までの日本人に比べて、多くの情報を仕入れ西洋の哲学・思想・主義を覚えて知識を増やしても、人としての教養を高める事ができていない。
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