✪148」─1─メキシコ独立。パナマ運河建設計画。日本人のメキシコ移住。バラグアイ戦争。ボーア戦争。1810年 ~No.409No.410No,411No.412@   

パナマ運河 百年の攻防 〔1904年建設から返還まで〕

パナマ運河 百年の攻防 〔1904年建設から返還まで〕

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   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・
 ウィリアム・イングドール「金を出す者に決定権がある」(『マネーハンドラー ロックフェラーの完全支配 アグリスーティカル{食糧・医薬}編』 p。266)
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 1810年 メキシコは、スペインから独立した。
 1816年 ナポレオン軍は、ワーテルローの戦いで敗北した。
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 1824年 ニカラグアやコロンビアなどは中央アメリカ連邦を結成して、メキシコから分離独立した。
 連邦は、運河建設法を成立させ、ニカラグア・ルートの運河建設が現実化した。
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 1836年 メキシコ領テキサスは、メキシコからの独立を宣言した。
 サンタ・アナ将軍は、政府軍を率いて独立派テキサス軍が立て籠もるアラモ砦を✦✥攻撃して陥落させた。
 アメリカは、テキサスを併合する為に内戦に介入して派兵し、メキシコ軍を敗走させた。
 テキサスは、メキシコから正式に独立したが、9年後にアメリカと合併した。
 メキシコは、併合に反対して軍隊を送り、メキシコの安全を守る為にアメリカとの戦争に突入した。アメリカ軍に、首都を占領されて降伏した。メキシコは、テキサスに関する全ての主権を放棄し、アリゾナコロラドなどの北部を1,500万ドルでアメリカに譲渡した。
 アメリカは、メキシコ全土を併呑しようと圧力をかけていた。
 メキシコは、独立を守る為にイギリスに接近した。
 イギリスは、アメリカから中南米の利権を守り、ニカラグア運河建設で有利な立場に立つ為にメキシコを支援した。
 フランスは、ナポレオン3世の甥のマキシミリアン皇帝を擁立して親仏政権を樹立した。メキシコ人は、フランス支配を打倒する為の内戦を続け、4年後に自主権を回復した。
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 1857年 イングランド銀行の金が大量に国外に流失した為に、イギリスの信用は失墜して、ロンドンで金融パニックが起きた。
 イングランド銀行は、公定歩合金利を引き上げ金の流失が止まった。
 1858年 フェリクス・ベリーは、ナポレオン3世の命を受けて、コスタリカニカラグアから運河建設と経営の権利を獲得した。
 1864年 バラグアイ戦争。バラグアイ対ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ三国同盟の戦争。
 6年間の戦争で、三国同盟軍はパラグアイで無差別大量虐殺を行い、パラグアイの人口は130万人から22万人に激減した。
 パラグアイのロペス大統領「祖国とともに死なん」
 1876年 フランスは、スエズ運河建設を完成させた。
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 1879年5月 フランス人外交官フェルディナン・ド・レセップスは、パリで開催された両洋間運河研究国際会議でパナマ運河の可能性を力説した。
 会議は、「パナマのリモン湾とパナマ湾を結ぶ海面式運河をパナマ地峡に建設する事を実現可能である」という見解を、賛成多数で採択した。
 レセップスは、コロンビア政府からパナマ運河建設の権利をえ、アメリカに建設事業への支援を要請した。ヘイズ大統領もエヴァーツ国務長官は、パナマ運河建設には興味があったが支援要請には拒否した。
 1880年3月 パナマ運河会社が設立し、建設が始まった。難工事と資金難から、88年12月に建設が中止され、翌89年2月4日に万策尽きて会社は破産を宣告した。レセップスは、収賄事件で逮捕された。
 これが、第三共和政を揺るがす大事件に発展したパナマ事件である。 
 レセップスの提案に共鳴していたフィリップ・ビュノー・ヴァリラは、資金難を解消する為に、ロシア帝国のアレクサンドル2世に建設の権利を売る交渉を行っていた。アレキサンドル2世は、フランスのロスチャイルドの支援を受けてベリア鉄道の建設中であったが、中南米への進出の足掛かりになるとして交渉にを興味を示していた。だが、1881年に暗殺されて権利売却計画は中断された。
 アメリカは、パナマ運河建設権利を取得する為に策略を巡らしていた。
 1889年 ワシントンで、第一回汎アメリカ外相会議が開催された。
 1897年 榎本武揚は、日本人青年35名をメキシコの南端チアパス州ソコヌスキ郡に移住させた。中南米への、日本人移住の始まりである。
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 1898年 米西戦争アメリカは、フィリピンを植民地化し、独立派フィリピン人約60万人を死に追い遣った。アメリカは、フィリピンをアメリカ化する為に、学校で全教科を英語で教えた。
 キューバは、スペインからの独立を宣言するが、アメリカ軍の占領下に置かれた。アメリカの保護国として、軍事同盟や互恵通商条約などの対米従属の屈辱的条約を押し付けられた。
 アメリカは、中南米への影響力を強める為に独立した新生国家を併合するか保護国とした。
 フレデリック・J・ターナー「空き地がある。空き地は後退し、アメリカ人の定住地が西に広がる。これがアメリカの発展という事だ。……拡張はアメリカ人に共通する気質である」
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 1899年 ボーア戦争セシル・ローズとアルフレッド・ミルナーは、南アフリカの金とダイヤモンドを独占する為に、ロンドンのロスチャイルドからの資金提供を得てオランダ系ボーア人に戦争を仕掛けた。
 イギリス軍は、3年近く苦戦し、多くの犠牲を払ってながらも勝利した。
 2万5,000人のボーア人と2万4,000人を強制収容所に送り込んで殺害した。沈まない帝国といわれたイギリスの凋落は、この時から始まった。
イングランド銀行は、南アフリカで生産された金塊を獲得し、世界の貨幣用金の大半を獲得して、世界の金価格を設定した。 
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 ボーア戦争は、イギリスとオランダ系アフリカーナーボーア人あるいはブール人とも呼ばれる)が南アフリカの植民地化を争った、二回にわたる戦争。南アフリカ戦争、南阿戦争、ブール戦争ともいう。イギリスはシネマトグラフにより、世界で初めてこの戦争を動画で記録した。イギリスは戦果をふまえ、オランダの背後にあるドイツ帝国を脅威と受け止めた。そして三国協商日英同盟・日仏協商・日露協約による包囲網を急ピッチで完成させた(三国同盟も参照)。それまでイギリスが栄光ある孤立を維持できたのは、ユグノー資本が民間レベルで列強の国際関係に干渉できたからである。しかしドイツの飛躍的な国力増大を前に、政治を利用した総力戦で伸張を阻む作戦が立った。

 第一次ボーア戦争
 「en:First Boer War」も参照
 第一次ボーア戦争
 戦争:ボーア戦争
 年月日:1880年12月16日 - 1881年3月23日
 場所:南アフリカ
 結果:トランスヴァール共和国の勝利
 交戦勢力:指導者・指揮官:戦力。
トランスヴァール共和国:ポール・クルーガー:3,000人。
イギリス:ヴィクトリア女王、ウィリアム・グラッドストン:1,200人。
 第一次ボーア戦争とは、トランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとした戦争(1880年12月16日 - 1881年3月23日)のこと。そのためトランスヴァール戦争 (Transvaal War) とも呼ばれる。
 19世紀、17世紀ごろからケープ植民地に入植していたオランダ系移民の子孫であるボーア人たちは、アフリカ南部の支配権を巡ってイギリスと激しく対立していた。オランダはドイツ帝国の経済的繁栄にあやかっており、カトリック勢力の突き上げにあいながら、英仏のユグノー資本から脅威と受け止められていた。
 イギリスのケープ占領とオランダの植民地譲渡により、ボーア人は新天地を求めてアフリカ大陸内部へ更なる植民を開始し、ズールー族を駆逐して1839年にナタール共和国を建設する。しかし、これは1843年のイギリス軍の侵攻により潰える。ボーア人は更に内陸部へ移動し、1852年にトランスヴァール共和国を、1854年にオレンジ自由国を設立。イギリスも両国を承認した。
 1860年代以降、トランスヴァール東部で金鉱が、オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が発見されると、白人の鉱山技師が大量に流入しはじめた。イギリスはこの技師たちの保護を大義名分としてオレンジ自由国を領有化する(この技師たちの中には、後にデ・ビアス社を創設するセシル・ローズも含まれていた)。
 内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めてズールー王国方面へ進出しようとした。しかし、この動きを警戒したイギリスはトランスヴァール共和国の併合を宣言し、ボーア人はこれに抵抗して1880年12月16日、ポール・クルーガーを司令官として大英帝国に宣戦を布告。両国は戦争状態へ突入する。
 この戦いにおいてボーア人たちはカーキ色の農作業服姿であったのに対して、英国軍の軍服は鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手の格好の標的となったという。
 1881年2月27日、マジュバ・ヒルの戦い(英語版)で英国軍はボーア人に惨敗。これにより1881年3月23日、プレトリア協定(英語版)が結ばれ、イギリスはトランスヴァール共和国の独立を再度承認することとなり、戦争は終結したものの大英帝国の面目は丸つぶれとなった。イギリスは同年設立したオスマン債務管理局で仇をとるつもりであった。

 第二次ボーア戦争
 「en:Second Boer War」も参照
 第二次ボーア戦争
 戦争:ボーア戦争
 年月日:1899年10月11日 - 1902年5月31日
 場所:南アフリカ
 結果:イギリス軍の勝利、フェリーニヒング条約の締結。オレンジ自由国トランスヴァール共和国の消滅
 交戦勢力:指導者・指揮官。
オレンジ自由国トランスヴァール共和国:ポール・クルーガー。
イギリス、イギリス領インド、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドヴィクトリア女王、ソールズベリー侯爵、ホレイショ・ハーバート・キッチナー、ウィルフリッド・ローリエ
 第二次ボーア戦争は、独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国大英帝国の間の戦争(1899年10月11日 - 1902年5月31日)。
 イギリスは既にアフリカ大陸の東西両岸に海底ケーブルをもっていたので、開戦前の10月3日から電信の検閲に取り掛かった。またすでにサンクトペテルブルク会議で、参加国へ通知した上ならば電信を止めてよいとの言質を得ていたので、14日にコードとサイファーによる暗号電文の一切を禁じた。
 イギリスは収容所戦略・焦土作戦などを国際的に批判されながら長期戦を戦い抜き、最後のボーア人を1902年5月に降伏させた。同月、フェリーニヒング条約を結んで終戦した。これにより英国は両国を併合した。その後もイギリスは北へ進軍し、ドイツ領南西アフリカとドイツ領東アフリカを分断した。
 背景
 オスマン債務管理局にドイツの資本が割り込んできてイギリスはエジプトへ押し出されつつあった。 トランスヴァール共和国で豊富な金の鉱脈が発見されたことにより、英国の何千人もの鉱山技師たちがケープ植民地から流入を始めた。外国人が殺到し、鉱山近くに続々と住み着いたことから、ヨハネスブルグの街はほとんど一夜にしてスラム街と変わってしまった。
 これらの外国人はボーア人より多かったが、全体としてみればトランスヴァール共和国の少数派のままだった。アフリカーナーたちは彼らに投票権を与えず、金産業に対しても重税を課した。これにより、外国人および英国人の鉱山主からボーア人政府打倒の圧力が高まっていた。
 1895年、セシル・ローズはジェームソン (Jameson Raid) による武装クーデターを企てるが、失敗に終わった。
 英国人に対しての不平等な待遇は、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を正当化するための口実として用いられた。英国植民地の重要なリーダーたちの中にもボーア人共和国の併合を支持する者がいたためである。このキーマンとされるのは、ケープ植民地の知事(高等弁務官)アルフレッド・ミルナー卿、英国植民地相ジョゼフ・チェンバレン、鉱業シンジケートのオーナーたち(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などである。ボーア人たちを攻め落とすことなど簡単だと確信していた彼らは、再び戦争を引き起そうとしていた。
 オレンジ自由国の大統領マルチナス・ステイン (Martinus Steyn) は、1899年5月30日にブルームフォンテーントランスヴァール共和国の大統領クルーガー及びミルナー卿との会議を開いたが、交渉はあっという間に決裂した。
 1899年9月、チェンバレントランスヴァール共和国に対し、大英帝国臣民への完全に同等な権利を付与することを要求する最後通告を送った。だがクルーガー大統領もまた、チェンバレンからの最後通告を受信する前に、彼の方からも最後通告を出していた。これは、48時間以内にトランスバール共和国およびオレンジ自由国の全域から全て英国軍を退去するように求めるものであった。

 第1フェーズ:ボーア軍の攻勢(1899年10月-12月)
 1899年10月12日に宣戦が布告され、ボーア軍はそれ以降、1900年1月の間にケープ植民地とナタール植民地に最初の攻撃を開始した。ボーア軍は、レディスミス(Ladysmith)、マフェキング(ロバート・ベーデン=パウエル指揮下の軍隊によって防衛されていた)およびキンバリーを包囲した。包囲による籠城生活が数週間に及ぶと、これらの街の兵士と市民にはたちまち食糧が不足し始めた。包囲されているこれらの街は、継続的な砲撃にさらされ、街路は非常な危険地帯となった。
 この年の12月中旬は、英国軍にとって非常に困難な時期で、特に1899年の12月10日から15日は「暗黒の一週間」 (Black Week) と呼ばれる。この一週間で英国軍はマゲルスフォンテーン (Magersfontein) 、ストームベルグ (Stormberg) 、コレンゾー (Colenso) において続けざまに壊滅的な打撃を被った。
 12月10日のストームベルグの戦いにおいて、英国軍の司令官、Sir William Gatacre将軍は、オレンジ川の50マイル南での鉄道ジャンクションを取り戻そうとしたが、オレンジ自由国軍の抵抗にあい、死傷者135人、捕虜600人という大損害を被った。
 英国軍を含めて、当時の世界の正規な軍隊では、歩兵が密集して横隊陣形を組んで攻撃前進するというのが普通のスタイルであった。それに対してボーア軍の主体は民兵部隊で特定の編制をもたず、連装式ライフル銃を装備した騎乗歩兵が主体であった。特定の陣形を組まずに分散して展開し、敵に近づくと馬を降りて、ブッシュや地形の起伏を巧みに利用して身を隠し命中精度の高い射撃を行ったのである。
 12月11日のマゲルスフォンテーンの戦いでは、ポール・サンフォード・メシュエン男爵(メシュエン3世)が指揮する14,000人の英国軍が、キンバリーを攻略するために用意された。ボーア軍指揮官であったデ・ラ・レイ (Koos de la Rey) とクロンジェ (Piet Cronje) は、英国軍の型にはまった作戦行動を逆手に取り、軍事教則にとらわれない場所に塹壕を掘り、射手(ライフルマン)を配置する作戦を実行した。これが図に当たり、キンバリー、そしてマフェキングを救出するはずだった英国軍は死者120人、負傷者690人を出す壊滅的な打撃を受けた。
 しかし、暗黒の一週間の最悪の日は、12月15日のコレンゾーの戦いである。
レディスミス救出のためにツゲラ (Tugela) 川を渡ろうとしたレドバース・ブラー (Redvers Buller) の指揮する21,000人の英国軍が、ルイス・ボータ(ボーサ)指揮する8000人のトランスヴァール共和国軍に待ち伏せされた。砲撃と正確なライフル射撃の組合せにより、ボーア軍は川を渡ろうとした全ての英国軍を撃退した。ボーア軍の犠牲者40人に対して英国軍は1,127人の犠牲者を出し、更に悪いことには退却の際に放置した大砲10門を鹵獲される体たらくであった。

 第2フェーズ:英国軍の攻勢(1900年1月から9月)
 更に英国軍は、レディスミスを攻略するためのスピオン・コップ (Spion Kop) の戦い(1900年1月19日から24日)で再び敗れ、ビューラーは再度コレンゾーのツゲラ川西側を渡ろうとして、ボータ率いるボーア軍との激戦の末、1,000人の犠牲者を出した(この時のボーア軍側の犠牲者は約300人)。ビューラーは2月5日に、Vaal Krantzで再びボータの軍を攻撃して、今度も敗北する。
 1900年2月14日に増援が到着するまで、ロバーツ卿指揮下の英国軍が駐屯軍を救い出すための反攻を開始することはできなかった。最終的にキンバリーは、2月15日にジョン・フレンチ将軍の騎兵部隊によって解放された。
 パールデベルグ (Paardeberg) の戦い(1900年2月18日から27日)で、ロバーツ卿はついにボーア軍を打ち破り、クロンジェ将軍と4,000人の兵士を捕虜とした。これによりボーア軍は弱体化し、やっとのことで英国軍はレディスミス解放へと駒を進めることが可能となった。
 マフェキング解放は、イギリス全土に熱狂的な祝賀を引き起こした(このお祭り騒ぎを表現するためにマフェック (maffic) という単語が作られたほど)。同年2月、イギリスは軍を再集結させると、西方から2つの共和国の攻略を開始し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが陥落し、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが占領された。
 ほとんどの英国民は2つの首都占領によって、ほどなく終戦に至るだろうと考えていた。しかし、ボーア軍は新たな拠点Kroonstadで会合し、英国の供給網および通信網を寸断するゲリラ戦を立案した。
 この新たな方針による最初の戦果は、3月31日、クリスチャン・デ・ウェット (Christian De Wet) が指揮する1,500人のボーア軍がSanna's Post(ブルームフォンテーンの東23マイルにある給水設備)において、英国軍が厳重に警護するキャラバンを待ち伏せし、155人の犠牲者、428人の捕虜、7丁の銃、117台のワゴンを捕獲したものであった。
 最後の“フォーマルな”戦いは、ロバーツ卿がプレトリア近郊でボーア軍野戦兵の残党を攻撃した6月11日から12日のダイアモンド・ヒル (Diamond Hill) の戦いであった。ロバーツ卿がダイアモンド・ヒルからのボーア軍の排除に成功したにもかかわらず、ボーア軍の指揮官ボータはそれを敗北と見なさなかった。何故ならボーア軍の犠牲者が約50人であったのに対し、英国軍は162人の犠牲者を出したからである。
こうして、“フォーマルな”戦争は終わりを告げ、戦争は新たなステージに移ることとなった。

 強制収容所
 詳細は「強制収容所」を参照
 1900年6月ごろより、英軍司令官のホレイショ・キッチナーは、ボーア軍支配地域で強制収容所(矯正キャンプ)戦略を展開し始める。これによって12万人のボーア人、先住民黒人が強制収容所に入れられ、さらに焦土作戦を敢行。広大な農地と農家が焼き払われた。この収容所では2万人が死亡したとされる。
 第3フェーズ:ゲリラ戦(1900年9月から1902年5月)
 英国は1900年9月までにトランスヴァール北部を除く両方の共和国を管理していた。しかし、彼らは分隊が物理的に存在する間を制御するのみであった。分隊が町または地区を去るとすぐに、その領域での英国の制御は消えて行った。25万人の英国軍兵士では2つの共和国が有する巨大な領域を効果的に制御するのは不可能であった。英国軍の分隊同士に巨大な距離があるため、ボーア軍の特別攻撃隊(コマンド部隊)はかなり自由に動き回ることができた。ボーア人指揮官も、ゲリラ戦のスタイルを採用することに決めた。
 特別攻撃隊は、いつでも英国人に対し攻撃してよいとの命令を与えられており、各人の出身地区に派遣された。彼らの戦略は、敵に可能なかぎりの損害を与え、敵の増援が到着する前に移動するというものであった。西トランスヴァールのボーア軍特別攻撃隊は、1901年9月以後非常に活発に活動した。
 いくつかの重要な戦いが1901年9月から1902年3月の間に起こった。
 1901年9月30日、Moedwilで、そして10月24日、ドリエフォンテーン (Driefontein) で、デ・ラ・レイ将軍の軍は英軍を攻撃するが、強い抵抗に遭い、退却を余儀なくされた。
 1902年2月には、次の大きな戦いが起こった。2月25日にデ・ラ・レイが、Wolmaranstadの近くのYsterspruitで英軍を襲撃したのである。デ・ラ・レイは敵の分隊を捕虜とし、彼の率いる部隊が相当の長期間にわたって活動できるだけの大量の弾薬を鹵獲することに成功した。
 デ・ラ・レイのボーア軍は、メシュエン卿 (Lord Methuen) に率いられた英国軍をVryburgからKlerksdorpまで追跡した。1902年3月7日の朝、ボーア軍はTweeboschで移動しているメシュエンの後衛を攻撃した。これにより英軍は混乱に陥り、メシュエンは負傷しボーア軍の捕虜となった。Tweeboschの戦いは、デ・ラ・レイの勝利のうちの1つであったが、ボーア軍のこの勝利は、英軍のより強い反応を引き出すこととなってしまった。
 1902年3月の後半には、英軍の大規模な増援が西トランスヴァールに送られた。英国軍が待ちに待った機会は1902年4月11日、Rooiwalで訪れた。ここでGensの軍と合流したのである。Grenfell、Kekewich、Von Donopは、ケンプ将軍の軍と接触した。英軍兵士は山の側に配置され、ボーア軍の騎馬攻撃を十分な距離を持って迎撃し、存分に打ち倒した。これは、西トランスバール戦争、更にはアングロ・ボーア戦争の最後の大きな戦闘であった。
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もっと神の国の歩きかた―萌え萌え日本神話講座2―

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