🗽10」─2─ヴァンデ農民戦争と30万~40万人虐殺。日本人はフランス革命を理解できない。~No.37 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 フランス国旗
 意味、青は自由を、白は平等を、赤は博愛を表わす。
 由来、フランス革命軍が帽子に付けた帽章の色に由来する。
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 日本国歌君が代」が嫌いな日本人は、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を愛唱する。
 日本人の中には、人民の勝利と「自由と平等と博愛」の精神であるフランス革命に憧れる。
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 フランスの大衆(第三身分)と日本の庶民(百姓・町人)は違う。
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 カール・シュミット「民主主義の本質を為(な)すものは第一に同質性、第二に必要な場合には異質的なものの排除ないし絶滅ということである。すなわち民主主義の政治的力は他処者(よそもの)と異種の者──つまり、同質性を脅す者を排除ないし隔離できる点に示される」(『現代議会主義の精神的地位』みすず書房
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 2018年10月号 Voice「日本は世界最古の民主国 第四回  竹田恒泰
 国民は『神』であるという物語
 ベルサイユ宮殿から連れ出された王
 前回(2018年9月号)、フランス革命の導火線に火をつけた端緒は、ラキ火山アイスランド)の噴火による冷夏で小麦粉の価格が暴騰したことにある、と述べました。また、奇(く)しくもフランスと同時期に日本でも浅間山が噴火し、冷夏による飢饉と民衆の暴動(打つこわし)が発生したことを紹介しました。
 しかしフランスの場合、最終的に時の君主(国王)であるルイ16世の処刑にまで至ったのに対し、日本では飢饉に苦しむ民衆が、光格天皇がお住まいになる京都御所へ一斉にお参りする『御所千度参り』が起きました。フランスとは逆に、災害によって君主(天皇)の権威復活したわけです。
 ……
 新たな立法府として開かれた国民公会は、立憲王政を廃止し、共和制への移行(第一共和制)とルイ16世の反革命容疑による処刑を決めました。
 こうしてルイ16世は殺され、ほどなくして王妃もギロチンで処刑されてしまいます。ここで注意すべきは、『ルイ16世は暴徒に殺されたわけではない』という点です。国王は(裁判所の決定ではなく)議会の賛成多数、つまり民主主義の決定によって処刑されたのです。しかし、これははたして理性に基づく正しい判断だったのか。むしろ歴史上、民族主義の暴走を示す事例の一つとして捉えるべきではないでしょうか。
 ヴァンデ地方の大規模な内乱
 戦後の風潮で広がった『フランス革命は、民主主義を体現した人類史の輝かしい一コマである』という認識が誤りであることは、革命以降の歴史を辿ることでも明らかです。
 その後、ルイ16世処刑に接したヨーロッパの君主国は革命の波及に警戒し、イギリスを中心に対仏戦争に備えた同盟を結成します。
 これに対し、国民公会は『30万人募兵令』を制定します。各市町村から志願兵の不足分を半ば強制徴募する内容が農民から大きな反発を浴び、各地で内乱が勃発しました。最大規模のものは1793年、フランス西部のヴァンデ地方を中心に起きた内乱(ヴァンデ戦争)です。国民公会とのあいだで凄まじい戦闘が繰り広げられ、農民への弾圧は苛烈を極めました。一説によれば30万人から40万人が犠牲になった。といわれます。
 ヴァンデ地方の農民が蜂起した理由は、国民公会による政治が『圧政』そのものだったからです。革命前と比べて税金が二倍になったうえ、兵役という『血税』まで課せられることになった。もとは貴族の特権を奪い、平民の生活を改善するはずだった革命政府が、今度は民衆を苦しめて『王政時代のほうがはるかにましだった』という不満を生んだのです。
 ヴァンデ戦争は、国民公会が住民に『反革命』のレッテルを貼り、子供や女性を含めて多くの一般市民を虐殺しました。捕虜たちを裸にして船ごと川に沈める、というおぞましい処刑方法まで実行された、といいます。反乱の関係者を残らず抹殺し、食料を没収して村落を焼き尽くす部隊に付けられた呼称は『地獄部隊』。事ほど左様に、フランス革命にはつねに『影の部分』がつきまといます。
 熾烈な権力闘争と『反革命』のレッテル
 さらにフランス革命の本質を考えるうえで、少し長いですが、フランスの政治学者・歴史学者であるアレクシス・ド・トクヴィルの『フランス2月革命の日々──トクヴィル回想録』(岩波文庫)を引用します。
 『アンシャンレジームの後を引き継いだのは立憲王政であった。この王政の後に共和制が、共和制の後に帝政、帝政の後に王政復古がくる。その後にやってきたのが7月王政だった。この相次ぐ変わり目のそれぞれで、人は自分勝手に自らの事業と称したものを完成させ、フランス革命は終了したと宣言したものだった。こう宣言することで、人は実際にそうなのだと信じ込んだ。悲しいかな、私も王政復古のもとで、そうあってほしと望んだし、復古王政の政府が倒れた後も、そのように考えていたのだ。そしてまたフランス革命が始められた』
 トクヴィルが記したように、フランス革命は民衆が王政を倒して万事解決とはなりませんでした。前述のように革命後、ルイ16世を戴(いただ)く立憲王政の時期が1年続き、その後も共和制(第一共和政)から帝政(第一帝政)、さらに王政復古と混乱が続いたのです。
 第一共和制で独裁的な権力を握ったのは、革命急進派(ジャコバン派)のロベスピエールでした。そもそも『共和制』と『独裁』という組み合わせ自体が矛盾ですが、彼は恐怖政治を断行して政敵を次々とギロチンで処刑しました。挙げ句の果てに、当のロベスピエールも反対派のクーデターに遭(あ)って失脚(テルミドール9日のクーデター)、ギロチン台に送られて始末。このとき、約100人もの同士が併せて一度に処刑されました。
 この苛烈さは、フランス革命の本質をよく表していると思います。熾烈な権力闘争のなかで、反対派に『反革命』のレッテルを貼って粛清する。この、血で血を贖(あがな)う殺し合いが本当に『世界に誇るべき歴史』といえるのでしょうか」
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 1795年7月14日 フランス議会は、血生臭い革命歌『ラ・マルセイエーズ』をフランス共和国の国歌として制定した。
  1番
 行こう 祖国の子らよ
 栄光の日が来た!
 我らに向かって 暴君の
 血まみれの旗が 掲げられた
 血まみれの旗が 掲げられた
 聞こえるか 戦場の
 残忍な敵兵の咆哮を?
 奴らは我らの元に来て
 我らの子と妻の 喉を掻き切る!
 ルフラン
 武器を取れ 市民らよ
 隊列を組め
 進もう 進もう!
 汚れた血
 我らの畑の畝を満たすまで!
  2番
 何を望んでいるのか この隷属者の群れは
 裏切者は 陰謀を企てる王どもは?
 誰のために この卑劣な足枷は
 久しく準備されていたこの鉄枷は?
 久しく準備されていたこの鉄枷は?
 フランス人よ 我らのためだ ああ!なんという侮辱
 どれほどか憤怒せざるを得ない!
 奴らは我らに対して企んでいる
 昔のような奴隷に戻そうと!
 ルフラン
 (繰り返し)
  3番
 何と! 外国の軍勢が
 我らの故郷に来て法を定めるだと!
 何と! 金目当ての傭兵の集団が
 我らの気高き戦士を打ち倒すだと!
 我らの気高き戦士を打ち倒すだと!
 おお神よ! 両手は鎖で縛られ
 頚木をはめられた我らが頭を垂れる
 下劣なる暴君どもが
 我らの運命の支配者になるなどありえない!
 ルフラン
 (繰り返し)
  4番
 戦慄せよ 暴君ども そして国賊どもよ
 あらゆる徒党の名折れよ
 戦慄せよ! 貴様らの親殺しの企ては
 ついにその報いを受けるのだ!
 ついにその報いを受けるのだ!
 すべての者が貴様らと戦う兵士
 たとえ我らの若き英雄が倒れようとも
 大地が再び英雄を生み出す
 貴様らとの戦いの準備は 整っているぞ!
 ルフラン
 (繰り返し)
  5番
 フランス人よ 寛大な戦士として
 攻撃を与えるか控えるか判断せよ!
 あの哀れなる犠牲者を撃つ事なかれ
 心ならずも我らに武器をとった者たち
 心ならずも我らに武器をとった者たち
 しかしあの血に飢えた暴君どもには
 ブイエ将軍の共謀者らには
 あの虎狼どもには 慈悲は無用だ
 その母の胸を引き裂け!
 ルフラン
 (繰り返し)
  6番
 神聖なる祖国への愛よ
 我らの復讐の手を導き支えたまえ
 自由よ 愛しき自由の女神
 汝の擁護者とともに戦いたまえ!
 汝の擁護者とともに戦いたまえ!
 我らの旗の下に 勝利の女神
 汝の勇士の声の下に 駆けつけたまえ!
 汝の瀕死の敵が
 汝の勝利と我らの栄光とを見んことを!
 ルフラン
 (繰り返し)
  7番
 (子供の詩)
 僕らは自ら進み行く
 先人の絶える時には
 僕らは見つけるだろう 先人の亡骸と
 彼らの美徳の跡を!
 彼らの美徳の跡を!
 生き長らえるよりは
 先人と棺を共にすること欲する
 僕らは気高い誇りを胸に
 先人の仇を討つか 後を追って死ぬのみ!
 ルフラン
 (繰り返し)
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 ヴァンデの反乱(仏: Rebellion Vendeenne)は、フランス革命期に発生したカトリック王党派の反乱である。ヴァンデ戦争(仏: Guerre de Vendee)とも言う。王党派を白軍(白服)、共和国側を青軍(青服)と言って区別した。
 1793年3月、30万人募兵令に反発する農民たちの蜂起によって、フランス西部ヴァンデ地方を中心に一気に広がり、フランス革命戦争でも苦戦していた国民公会を危機に陥れた。しかし共和国軍が反撃に転じるとカトリック王党軍はロワール川の北に追い詰められ、1794年12月のル・マン、サヴネの戦いの敗北によって組織的抵抗は壊滅した。
 以後は少人数によるゲリラ戦に変化して長く不毛な戦いが続いた。ヴァンデ側の指導者は相次いで死亡して、1796年7月にはオッシュ将軍によって鎮圧宣言が出され、寛容令もあって宗教的動機をもった農民の反乱は終息に向かったが、今度は外国に援助された王党派亡命貴族が抵抗を継続した。コンコルダートを結んで和解を進めた第一統領ナポレオンが1801年に正式に終結させた後も、彼らの活動は続いた。
 正確な数は不明だが、犠牲者は30〜40万ともいわれる。ブルターニュ、メーヌ、アンジュー、ノルマンディーで発生したゲリラ組織「シュアヌリ(ふくろう党)の反乱」と結びついており、これらの反乱は時に『西部戦争(仏: Guerres de l'Ouest)』と総称される。

 概要
 武装蜂起
 元々、ヴァンデを中心とするフランス西部は信仰心の篤い地域だった。1789年に勃発したフランス革命には当初は好意的で領主権や十分の一税の廃止を喜んで受け入れたが、その後行われた教会と僧侶に対する弾圧、国王処刑、増税、30万人募兵の不公平に反感を持つようになった。特にキリスト教否定運動に対する反発は強く、ヴァンデでは大多数の市民が教会の祭壇を守るために立ち上がったのであった。そうしたなか、司祭に扇動されて30万人募兵令に基づく徴集兵を決めるくじ引きが予定されていた1793年3月11日、メーヌ=エ=ロワール県ショレの人々が決起、各地の農民も蜂起し、わずか10日余りの間にフランス西部の3分の2の地域で騒乱状態となった。指導者にはそれぞれ軍人である地方貴族を担ぎ上げて、各地の反乱軍と合流しながら政府軍を打ち破り、ヴァンデ地方を支配下に置いた。国民公会は3月19日、「武器を所有している反乱者全員を処刑し、その財産を没収する」という厳しい処置を取ったが、国境に国民衛兵を送っているため兵力が不足しており、鎮圧することができなかった。反乱軍は次第に力を持ち始め、政府が国境の軍隊を配備しても、思うような成果はあげられなかった。
 反乱軍は自らを「カトリック王党軍」と名乗り、行商人出身のジャック・カトリノーが最高司令官に選ばれた。ヴァンデの民衆反乱は当初3万人規模を擁する大規模なものであった。この頃には連戦連勝で勢力圏を拡大し、ブルターニュのゲリラ組織シュアヌリ(ふくろう党)と合流するために6月にはナント市を攻略した。しかし、ナント市民は政府軍と協力して徹底抗戦したため、撤退を余儀なくされた。その際、最高司令官のカトリノーが戦死。そのためこの反乱はそれ以上広がらなかった。しかし、この間、フランス国内の商業および軍事活動は妨げられ、ジロンド派に非難が集中した。

 政府軍の反撃
 1793年8月に国民公会は革命政府軍にヴァンデの破壊命令を出している。指令は、「戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ」というものであった。それを受けて政府軍は森林、畑、家、教会を荒らし、人間を無差別に殺害した。一方、反乱軍では退却後、カトリノーの死の影響が大きく離脱者が続出し統制が取れなくなっていた。93年末には反乱軍はその勢力をほぼ失った。反乱軍は、英仏海峡を目指して転進したが、グランヴィルの前面で退けられ、敗退を続け、食糧もなく疫病が流行り士気も低下した。にもかかわらず政府軍の無差別攻撃により逃げ出してきた農民をも含め10余万人にも膨れ上がってしまった。彼らは遂に諦めて故郷に帰ろうとロワール川を越えて北上したが、サヴネの町での戦闘で壊滅した。捕虜になった者はナントに連行され、ロワール川に浮かぶ廃船に積み込まれて沈められた。

 その後
 その後も政府は「地獄部隊」と名付けられた連隊を派遣し、同様の作戦を続けたため、ヴァンデ地方では反乱は小規模なゲリラ戦に形を変え続いたが、1794年に反乱鎮圧に派遣されたルイ=ラザール・オッシュが軍司令官として赴任すると、捕虜の農民兵との面談から、農民が反乱に加わったのは宗教的自由のためであって、寛容政策をとれば彼らは王党派反乱から離脱するだろうということを知り、政策変更に踏み切った。この政策変更が功を奏して、1795年2月にはヴァンデ反乱軍は瓦解し始めた。同年6月15日、イギリスの支援で王党派部隊がキブロンに上陸したが、ヴァンデ反乱軍は撃退されて大半が捕虜となるなど致命的な打撃を受けた。執拗にゲリラ戦を続けていた最後の生き残りの指導者シャレットも検挙されて銃殺された。しかし、シュアヌリ(ふくろう党)がこのように長期にわたって活動を持続できたのは、地域住民からの強い支持があったためと、地元の地理に深く通暁していたためであった。
 オッシュは1796年までにヴァンデ地方の平定を宣言。 1801年には、執政官ナポレオン・ボナパルトローマ教皇と和解し、ヴァンデに対して数々の復興の政策を講じることでこの反乱は完全に終結した。
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 地獄部隊とは、ヴァンデ戦争中に共和国軍のテュロー将軍が指揮した、ヴァンデ軍の残党を殲滅させるための作戦である。
 ギャレルヌの彷徨(fr)後にカトリック王党軍が消滅した後、テュロー将軍は武装ヴァンデに対して12の殲滅部隊を細かく区分して配置する計画を立てた。反乱に参加した全てのならず者たちを退治し、中立的な住民や愛国者たちを避難させ、穀物や家畜を接収し、村や森に火をつけるよう命じた。共和国側の避難民を再度定住させる前に、最終的にヴァンデを『国家の墓地』(cimetiere national)にしようとしたのである。
 1794年1月から5月にかけて、地獄部隊はメーヌ=エ=ロワール県、ロワール=アンフェリウール県(現在のロワール=アトランティック県)、ヴァンデ県、ドゥー=セーヴル県といった武装勢力の本拠を縦横に駆け巡った。こうした作戦の一部は多くの場合年齢・性別・政治的意見に関係なく、放火、婦女暴行、拷問、略奪や住民の虐殺、最悪の人権侵害に直結した。妊婦は、圧搾機で押しつぶされ、新生児は銃剣で串刺しにされた。共和国側の兵士や官吏の証言によれば、女性と子どもたちは生きながら切り刻まれるか、生きたまま火のおこされたパン焼きのかまどに投げ込まれた。これらの残虐な行為で何万人もの人々の生命が犠牲となり、『地獄部隊』の別名がつけられて広まった。
 戦争を終わらせるどころか、この軍事作戦はシャレット、ストフレ、サピノー・ド・ラ・レリ、マリニーらヴァンデ側将軍たちが指揮するさらなる農民蜂起を引き起こすきっかけとなった。武装勢力を倒すことができず、地元の愛国者たちや政策上の一部の政府代表たちに非難され、テュローは最終的に公安委員の地位を失い、彼の解任が戦争ではなく部隊を終了させたのである。
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カトリック王党軍(カトリックおうとうぐん、フランス語: Armee catholique et royale)は、フランス革命期のヴァンデの反乱において主にヴァンデ地方で組織されていった軍事組織。ヴァンデ軍、反革命軍、白軍(対して政府軍は青軍)ともいう。カトリック王党軍というのはあくまでも彼らの名乗りであって、革命政府(政府軍、共和軍)から見れば単に反乱軍だった。

 概要
 元々何らかの準軍事組織的なものがあった訳ではなく、1793年3月11日の民衆蜂起以降に各都市や拠点で次第に膨れ上がって構成された。軍事行動をとる組織ではあったが女性や子供、老人や病人まで含まれており、区別は難しいものの主な戦闘要員だけでも最大で6万人あまりの組織になった。財政はブルジョアジーから没収した土地や独自紙幣の発行に拠っていた。
 ヴァンデ地方は西部のマレ地帯(湿地帯)、北東部のボカージュ地帯(森林地帯)、南東部のプレーン地帯(穀倉地帯)の三つに大きく分けることができ、このうちマレ地帯、ボカージュ地帯の民衆がカトリック王党軍側についた。プレーン地帯の民衆は革命政府側についた。身分や思想で言えば旧特権身分の聖職者や貴族、王党派の人々がカトリック王党軍側についた。
 民衆蜂起後の1793年6月29日、革命政府を支持した隣接する都市ナントを攻撃するが攻略できず、緒戦にして敗北、撤退した。このとき最高司令官のカトリノーが戦死する。以降大規模な攻勢にでることができず、次第に防衛戦の様相を呈する。同年10月9日にリヨンが降伏(リヨンの反乱)した後、10月17日カトリック王党軍はヴァンデで大敗を喫する。その後政府軍に追われ、英国軍、亡命貴族軍を頼ってロワール川を目指して北上を開始する(結局英国軍の支援は得られず、亡命貴族軍などいなかった)。同年12月19日にトゥーロンの王党派政府も降伏(トゥーロン攻囲戦)。それから4日後の12月23日、カトリック王党軍はロワール川の渡河に失敗して大敗し、これが決定的な敗北となる。その後戦闘は小規模化し、罠なども利用しながらのゲリラ活動になっていく。 捕らえられたカトリック王党軍捕虜は、1793年12月から1794年4月にかけて各地の刑場などでそのほとんどが集団処刑された。銃殺刑が主だったが、ナントでは4,800人余りがカリエの考案した溺死刑によって処刑された。それら以外は獄死した。
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 フランス革命戦争(仏: Guerres de la Revolution francaise, 英: French Revolutionary Wars)は、1792年4月20日から1802年3月25日までの、革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争である。当初はフランス革命に対する外国の干渉戦争であり、シベリア出兵と同様に旧債務を確認する意味をもっていた。1794年前後を境に形勢は逆転し、フランスによる侵略戦争に変貌した。
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 リヨンの反乱( 仏: Siege de Lyon)は、フランス革命期の1793年、パリの革命政府に対して王党派と穏健共和派が起こしたリヨンでの反革命反乱である。ジロンド派と関係する連邦主義の反乱の一つとされる。
 革命政府はこれを徹底的に弾圧し、リヨンの大虐殺を引き起こした。反乱鎮圧後、リヨンの都市名は改名され、ヴィル・アフランシ(Ville-affranchie)の名で呼ばれた。


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