✬127」128」─1─ターン・オブ・センチュリー(世紀の変わり目)。第一次世界大戦。メキシコ革命。アルメニア人大虐殺。対華二十一条の要求。1914年 ~No.369~No.370No.371No.372@     

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗   
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・ 
 ☆第一次世界大戦   
 ベンジャミン・フリードマン第一次世界大戦は、ドイツ人に責任のない理由から、ドイツに対して仕掛けられた。首尾よくやっている事を除けば、彼等に非はなかった。彼等は大きな海軍を組織し、世界貿易を打ち立てた。忘れてならないのは、フランス革命当時のドイツは300の小さな都市国家、公国、公爵領など、300の小さな存在から成り立っていたにもかかわらず、ナポレオン及びビスマルクの時代に、一つのもとまった国家となったという事であり、50年の間に、世界の列強の一つとなったという事だ」
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 1914年 電報や電話などの通信手段や蒸気船や蒸気機関車などの輸送手段が発達し、世界の距離が大幅に縮み、世界の統合が進めば、大国間で戦争が起きる可能性は消えたと信じられた。
 6月28日 オーストリアボスニアサライェボで、オーストリアの帝位継承者フェルディナント夫妻が反オーストラリア運動の共産主義テロリストによって暗殺された。
 オーストリア帝国は、皇太子夫妻を殺された報復としてセルビア政府に最後通牒を突き付けたが、7月下旬に要求を拒否されたとして帝国の面子に守るべく宣戦布告した。
 セルビアの後ろにロシア帝国が控え、オーストリア帝国ドイツ帝国と同盟を結んでいた。
 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、戦争拡大を避ける為に、ロシア皇帝ニコライ2世にロシア軍の出動自粛を要請した。
 ニコライ2世は、革命派の蠢動に惑わされて、やむを得ず自国民居留民保護を理由にして軍隊を南下させた。
 ドイツ帝国は、同盟国オーストリア帝国を守る為にずロシア帝国に対して宣戦布告し、中立国ベルギー王国を経由して北フランスに信仰した。
 イギリスは、同盟国フランスを救う為に、国際法違反を理由にして参戦してドイツ軍を攻撃した。
 第一次世界大戦の勃発である。
 セルビアは、アルバニアオーストリアの支援で独立した為に、海に出る事が出来なくなった。
 ロシア社会民主労働党やヨーロッパ各国の社会民主党も、自国の政府が戦争に参戦する事で、必然的に再編成が進んだ。
 プレハーノフらは国民の義務として政府を支持したが、レーニントロッキーらは反皇帝から反戦を唱えた。だが、マルクス主義者は共産主義を広める為に戦争を最大限に利用した。
 ジェイコブ・シフは、アメリカが中立を守る以上は日本も参戦すべきではないとして、参戦消極派の高橋是清に対して協力を要請した。
 高橋は、日本の恩人であるシフの電文を大隈重信首相や加藤高明外相に送り、元老らに日露戦争の際にドイツが外債発行に協力してくれた恩義があるとして参戦すべきではないと説得した。
 シフは、日本の参戦派に圧力を加える為に、日本興業銀行債券および東京市債発行引受を辞退した。
 対米協調派は、シフの強硬姿勢に驚き、態度をはっきりさせなければ両国関係に悪影響を及ぼすと懸念を表明した。
 大隈首相は、対米協調外交から、アメリカの反日感情を警戒して不参戦を決めた。
 J・P・モルガンは連合国を支持する事を明らかにし、モルガン商会は連合軍に対して金融及び物資調達に協力した。  
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 7月 ユダヤ人向けのロシア語定期刊行雑誌「我々はロシア生まれ、ロシアで成長した……ロシアのユダヤ人は……母国ロシアと切っても切り離せない関係にある。なぜなら我々ユダヤ人は何世紀にもわたってロシアに住んできたのだし、我々をロシアから切り離せる力など存在しないのだから……迫害も弾圧も我々をロシアから切り離す事は出来なかったではないか」
 ロシア領に生活するユダヤ人などの諸民族は、帝国臣民として皇帝の命令に従い割り当てられた志願兵を戦場に送った。永年にわたってロシアから差別と迫害を繰り返し受けていたロシア系ユダヤ人は、ロシア人兵士の様に戦場に立ってドイツ兵と戦う事に疑問を抱いたが、戦場に送られた以上は否応もなく敵を殺すしかなかった。
 ユダヤ人共同体は、帝国臣民の義務として人口の一割に相当する50万人以上をヨーロッパ戦線に出した。
 イギリスやフランスも、自国兵士を守る為に各植民地から数多くの現地人を弾除け兵士として戦場に投入した。
 最前線の下級将兵は、消耗品として満足な武器も与えられず、世襲制度で選ばれた将軍らの無責任な作戦の失敗で多くの犠牲者を出していた。まともな食糧も与えられず戦場の泥沼を這いずり回る兵士は、新鮮な食材をたらふく食べてユーモアたっぷりに騎士道論議を楽しむ上流階級出身の将校らに不満を抱いた。
 知識階級出身の共産主義者は、面倒見の良い優しい上官として、首脳部への不満を募らせた兵士達を味方に付けて軍隊内に同調者を増やしていった。
 最下層の人民は、最低賃金で重労働させられた上に、各種の必要経費を理由にして搾取され、衛生・生活環境の悪い居住空間に閉じ込められていた。
 栄養状態の悪い中で、戦時を理由にして食糧の配給が遅延する事に苛立ち、搾取してゴージャスな生活をする会社経営者や特権階級を殺したい程に憎悪した。
 恵まれた者がさらに冨を独占して階級格差が増大するや、家族意識は希薄となり、社会秩序は崩壊し、暴力的共産主義革命の機運が広がった。
 7月28日 オーストリア=ハンガリ−帝国が、セルビアに宣戦布告。
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 ドイツとフランスは、お互いに最大の貿易相手国でもあり、民間交流も行われていた。
 戦争を防止するには、経済相互依存も民間交流も役には立たなかった。
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 8月1日 ドイツ帝国は、ロシア帝国に宣戦布告。
 8月3日 加藤高明外相は、グリーン駐日イギリス大使に東アジアのイギリス利権を維持する為に、全面的に軍事支援を行う用意がある事を伝えた。
 ドイツ帝国は、フランスに宣戦布告。
 8月4日 ドイツ軍は、中立国ベルギー王国に侵攻。
 イギリスは、ドイツ帝国に宣戦布告した。
 アメリカは、中立を宣言。
 8月7日 イギリスは、山東半島を拠点とするドイツの武装商船から上海や香港などのイギリス権益保護を日本に依頼した。
 オーストラリア、ニュージーランドなどの自治領政府は、日本軍にイギリス帝国領内で自由に行動を許す事に反対した。
 インドやビルマの植民地官僚も、日露戦争で日本が勝利して反白人支配の民族主義が高揚した為に、これ以上の日本軍の行動には反対した。
 香港・天津・上海などのイギリス商業会議所は、競争相手である日本を中国市場から排除する為に、日英同盟の存続や中国における日本軍の軍事行動に反対した。
 イギリスの資本家は、日本を利用しながら如何に国際社会でその発言と行動を押さえ込み、中国から日本資本を締め出して市場利益を独占するかであった。
 個人的友誼と国家的友好とは、別次元の関係であった。
 加藤高明「同盟による義務であると同時に、遼東還付に対する復讐戦である」
 8月23日 日本は、国際協調主義によりイギリスの依頼を大義名分として、日英同盟に従ってドイツ帝国に宣戦布告した。
 日本海軍は、巡洋艦1隻と駆逐艦12隻を地中海に派遣した。日本陸軍は、地理的に遠い為に軍事貢献として、ヨーロッパ戦線への派兵を断念した。
 ドイツ帝国は、日本の近代化に多大なる貢献をした恩義を忘れて宣戦布告した、日本人の裏切り行為を非難した。
 ドイツ人の反日感情はこの時から生まれ、ヒトラーユダヤ人に次いで日本人を信用していなかった。ドイツは、日本よりも中国をアジアの同盟者とした。
 11月 ウィルヘルム2世は、オスマン・トルコ帝国が味方につく見返りとして帝国領内でのシオニストを擁護する政策を放棄した。トルコ皇帝であるスルタンは、ドイツ帝国の勝利に貢献する事を約束した。こうして、キリスト教国間の戦争が世界戦争に拡大された。
 イギリスは、ドイツ帝国と戦う為に義勇兵を募集したがイースト・エンド(ユダヤ人街)のユダヤ人は志願しなかった。
 ユダヤ人の敵は、親ユダヤドイツ帝国ではなくイギリスの同盟国である反ユダヤロシア帝国であった。
 だが、ユダヤ人のパレスチナ帰還に反対するオスマン帝国ドイツ帝国と同盟した御陰で、イギリス在住のユダヤ人はイギリスに協力できる様になった。
 12月 サルカムシュの戦い。オスマン・トルコ軍は、ロシア軍に大敗した。
 12月12日 シオニスト運動の指導者ハイム・ヴァイツマンは、イギリスのバルフォア外相と会談して民族の郷土建設への協力を要請した。 
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 アメリカの参戦。
 1915年 アメリカ世論は、ルシタニア号撃沈とドイツ軍による残虐行為を告発したブライス報告書で反独となり、欧州戦争への参戦に賛成した。
 ドイツ軍の非戦闘員への虐殺、強姦、掠奪は、アメリカを参戦させる為に捏造された作り話であった。
 戦後。歴史修正主義者はブライス報告書の検証を行い、ドイツ軍による残虐行為を嘘であった事を証明し、参戦に消極的であったアメリカ世論を参戦に導く為のプロパガンダであったとの結論を出した。
 ハロルド・ラスウェル「敵に凌辱される若い女性というのは、国境の反対側にいる大勢に当の凌辱者になったかのような秘められた満足感を与える。それゆえ、多分、こうしたストーリーに人気がありそこら中で見られるのだろう」
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☆日本の対華二十一条要求  
 別宮暖郎「中国(袁世凱治下の中華民国)も、日本に慫慂され、かなり遅く1917年に第一次大戦に参戦した。開戦直前から広東省内の業者が労働力を輸出し、西部戦線で戦場掃除をやっていた。袁世凱は、それを国家経由にして外貨を稼ごうとした。
 その当時、戦死者の持つ小銃は、銃撃戦が止むと拾いに行き、再度、新兵に支給していた。新兵は血染めの小銃を嫌ったという記録が残っている。工業の発達した英独仏でも、小銃を無限に生産できたわけではなく、再利用は当然であった。その為には戦場掃除は不可欠であり、当然の事ながらかなり危険な作業であった。戦場掃除に従事した中国人労働者は延べ45万人に及んだ」(『第一次世界大戦陸戦史』)
 1915年 内モンゴル遊牧民バブージャブは、川島浪速ら日本のアジア主義者らの支援で民族独立運動を起こしたが、中国軍に鎮圧されて失敗した。中国政府は、少数民族独立運動を弾圧する為に、民族主義者を反逆者として虐殺した。
 ジェイコブ・シフやJ・P・モルガンら国際金融資本は、組織的にユダヤ人迫害を行うロシア帝国を打倒する為に、暴力革命を目差すユダヤ共産主義者に2,000万ドル以上の革命資金と大量の武器を援助した。同時に、反ユダヤ主義ロシア帝国に協力する国家や個人を攻撃した。
 ジェイコブ・シフは、レーニントロッキーらを支援する組織としてアメリカン・インターナショナル・コーポレーション(AIC)を設立した。
 J・P・モルガンやロックフェラーなどの各財閥も、共産主義革命を成功させる為にAICに参加した。裕福なユダヤ人知識階層は、反ユダヤ主義を撲滅する為にAICに多額の融資を行った。
 アメリカ人中心主義者は、1869年1月に活動を停止していたKKK団を再結成した。
 移民の国アメリカは、WASP(白人、アングロ・サクソンプロテスタント)を支配階層とする差別国家であった。
 普通のアメリカ人は、独自の文化や伝統や宗教に固執して同化を拒否する東方ユダヤ人を無制限に受け入れては、安定した社会秩序が崩壊し、治安が悪化し、穏やかで静かな文化的生活が破壊されるとして、厳しい移住規制を要求した。
 キリスト教的人種差別主義者も、無制限にを移住させては人種的優位性が損なわれるとして、KKK団などの過激な人種差別団体の活動を支持した。  
 オスマン・トルコ軍は、ヴァン湖周辺ではロシア軍と一進一退の膠着状態に、カフカス戦線では劣勢となり、9割近い兵力を失い苦境に陥っていた。
 オスマントルコ帝国ないの正教会アルメニア人は、攻勢にあるロシア軍に呼応して反乱を起こしてトルコ軍を背後から襲った。
 1月 第二次大隈重信内閣(加藤高明外相)は、国際法に則って獲得した大陸における既得権益を確認する為に、袁世凱政権に対華二十一ヶ条の要求を突き付けた。
 袁世凱は、鉄鉱石売買の利益を独占するべく、14年に鉄鉱石の優先買い上げ権を認めた鉄鉱暫行弁法を布告し、外国人の採掘鉱業権を回収して外国への自由な売買を禁止した。
 それは、国際法を無視した一方的なもので、日本に不利な要求であった。
 日本政府は、南満州の鉱山採掘権や製鉄所からの購入契約といった自衛策として、二十一ヶ条の要求を突き付けた。
 日本側は、中国側と協議して第5号の希望条項を取り下げ若干の内容を緩和した上で、中国側の要請に従って5月に受諾を求める最後通牒を発した。
 袁世凱は、事実を歪曲して悪意のこもった反日宣伝を行い、各地で愛国心に燃えた学生や労働者らに激しい排日暴動をそそのかした。
 ブライアン国務長官は、日本の大陸侵略を阻止し満蒙権益を制限する為に、二十一ヵ条の要求に不快感を表明した。
 アメリカ政府は、不承認政策を採用して両国関係は疎遠となった。
 イギリスも、揚子江以南の権益を守る為に、日本の中国における影響力を低下させるべく、日本の要求を不当な要求であるとして抗議した。   
 貴族院の田健治郎は、大隈内閣の無軌道的対中強硬外交を猛烈に非難した。
 大隈重信は、外交や財政の諸問題の失敗で元老山縣有朋に辞職を約束したが、実行しなかった。
 後藤新平ら反大隈派は、大隈重信を追い詰めて辞表を出させ、元老達の支持を得て陸軍出身の寺内正毅を後継首班とした。
 日本外交は、袁世凱の謀略外交に誘導されて失敗した。 
 2月 シンガポールのインド第5軽歩兵隊が、イギリス人将校を殺害して反乱を起こした。
 日本海軍は、イギリス海軍司令官の要請を受けて部隊を派遣して反乱鎮圧に協力した。
 インド民族主義者などのアジア人独立派は、日本を白人帝国主義者に味方する裏切り者と非難した。
 イギリスで、反ドイツ反ユダヤの大暴動が起き、戦争反対のユダヤ人は国籍に関係なく無差別に襲撃された。ユダヤ人の多くは、身の危険を感じて国外に逃亡した。
 イギリス人にとってユダヤ人は、国籍に関係なく全てが外人であり敵性外国人であった。国民世論は、国内のユダヤ人全員の拘留を求めた。
 ユダヤ人指導者は、イギリス国籍のユダヤ人に対して、愛国心を持ち王室に忠誠を誓い国家への責務を果たす為に兵役に付く様に説得した。
 戦争は、反戦を訴えるユダヤ人に対する偏見、差別を助長し、暴行事件を誘発した。
 アメリカの国民世論は参戦には同意せず、議会も米欧相互不干渉宣言に従った。
 イギリスは、戦争の勝利の為にアメリカの参戦を希望していた。
 ロスチャイルドは、敗色が濃くなったイギリスに対して、アメリカ参戦のあかつきには、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設推進に協力する事を条件としてアメリカを連合国側に味方させると提案した。
 春頃 統一派のエンヴェル・パシャ陸軍大臣は、アルメニア人の反乱を根絶する為にアルメニア人を放逐する必要を主張した。
 オスマン・トルコ帝国は、宗教融和策としてアルメニア人に安全を保証して居住を許してきただけに不義理に激怒し、内部崩壊を避けるべくアルメニア人反乱を徹底して弾圧した。
 4月から5月にかけて、戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、アナトリア東部のアルメニア人を500キロ南のシリアの砂漠地帯の町デリゾールのデリゾール収容所へと強制移住させる死の行進政策を開始した。
 正規軍は、ロシア軍侵攻に備えて国境地帯に配備している為に、アルメニア人護送をクルド人に任せた。
 クルド人の狂信的イスラム教徒は、護送の途中で異教徒のアルメニア人を大虐殺(150万人)した。
 4月 イギリス人看護婦キャヴェルは、連合国から中立国ベルギー王国へ供与されている食糧を、供給を委託された第三機関のベルギー救済委員会が敵国ドイツ帝国横流ししていると、ロンドンのナーシング・ミラー誌に投稿して公表した。
 イギリスの経済封鎖当局は、中立国との関係悪化を恐れ証拠不十分として無視した。ベルギー、オランダ、デンマークノルウェー、スエーデンなどの中立国諸王国は、戦争継続に必要な戦略物資を両陣営に供給することで莫大な利益をえ、その大金を永世中立国スイスにある個人銀行や国際金融機関に預けた。
 スイスは、国家として、こうした膨大な資金を隠匿し保護する事で永世中立国の地位が認められていた。
 イタリアは、連合国側に立って参戦する条件として、将来の講和会議にバチカンを排除すろ事を求めた。イギリスやフランスは、教皇を外交の表舞台から除外することに同意していた。
 5月24日 イタリア、オーストリア帝国に宣戦布告。
 6月 ベルリンのシオニスト機構執行部は、シオニスト運動の本部という自負から中立を決定した。
 ドイツ系ユダヤ人団体は、人種差別からの解放とドイツ市民権獲得の為に若者達に愛国心を持って軍役に奉仕する事を呼びかけた。
 ユダヤ人実業家のシュパイヤーやラーテナウらは、祖国の勝利に貢献する為に軍需産業に全資産を投資した。
 ユダヤアインシュタインのみが、平和への個人的信念から戦争協力の嘆願書への署名を拒否した。
 ユダヤローザ・ルクセンブルクら左翼・左派は、反戦平和運動から参戦派ユダヤ人を国粋主義者として非難し、敗戦後は彼らを裏切り者としてその戦争責任を追及した。
 シオニズム協会会長ボーデンハイマー「我々ユダヤ人はこの地に定住できた恩を示し、ドイツ軍に協力して参戦し、反ドイツ勢力と戦うべきだ」  
 6月 2年半前にインド総督ハーディング男爵の暗殺未遂を行ったビバリ・ボースは、白人の植民地支配を終焉させられるのは天皇と日本人だけであるとして、日本に亡命した。
 イギリスは、外交ルートを使ってボースの引き渡しを日本政府に強く要求した。
 玄洋社頭山満内田良平やインド研究者の大川周明などの民族主義者や軍国主義者は、外圧を拒否し、引き渡しに反対した。
 大アジア主義者は、キリスト教国家による植民地支配を打倒する為に、日本をインドやビルマなどの独立運動の拠点基地にしようとした。  
 イギリスに移住した東方ユダヤ人は、ユダヤ人の利益にもならない欧州戦争でユダヤ人同士が殺し合う事は愚かな事であると嫌い、イギリス軍に志願する事はユダヤ人迫害を繰り返すロシア帝国を支持する事になるとして兵役を拒否した。
 そして、イギリスの青年が兵士として戦場に出兵し、負傷して帰国しても、戦死して帰還しても、忠誠を誓うイギリス国民ではないとして商売を続けた。
 彼等は、イギリスへの同化を拒否していた。
 10月 オスマン・トルコ帝国は、イギリスの蚕食から帝国領を守る為にドイツ帝国に味方して参戦した。
 ユダヤ社会主義者青年トルコ党と狂信的共産主義者らは、キリスト教アルメニア人200万人以上を虐殺し、宗教施設を破壊した。
 同時に、虐殺に反対するインテリ層を粛清した。
 アルメニア人難民は、フランスなど西欧に移り住んだ。キリスト教世界では、しばしば国民と難民・移民の間で流血事件が起きていた。  
 ロシア系ユダヤ人ジャボティンスキーは、パレスチナを回復するにはイギリスやフランスに味方すべきだと主張し、中立論のシオニスト機構執行部と対立した。
 ジャボティンスキーは、日露戦争で日本軍と戦った経験から、現人神・天皇が統治する非キリスト教国日本に感激し、日本の様な宗教的神聖国家を建設する事に情熱を燃やしていた。 
 イギリスは、1882年にスエズ運河の所有を目的としてエジプトをオスマン帝国から独立させて傀儡とし、さらにキリスト教文明の勢力拡大の為にイスラム教圏の解体を目指した。
 アラブ人の戦時協力を得る為に、マクマホン駐エジプト高等弁務官がメッカとメジナの太守フサイン(マホメットの血を引くアラブの名門ハーシム家出身)に『フセイン=マクマホン協定』の書簡を出して、「戦後のアラブ地域が国家として独立する事を支持する」と約束し、パレスチナはアラブ人の土地であるとした。アラブの反乱軍を指揮してトルコ軍をアラブ全地域から追い出したのが、「アラビアのロレンス」ことMI6(イギリス軍事諜報部第六部)のロレンス大佐であった。
 アラブ人は戦争が勝利したあかつきには、アラブ人の国ができる事を信用してイギリスの為に戦い死んだ。
 イギリス軍の勝利は、ロレンス大佐が率いるアラブ軍の支援がなければあり得なかった。
 16年に、アラブ人は協定通りにイギリスの支援を受けてヒジャーズ王国を建国した。
 イギリスの伝統的植民地支配の根本原理は「分割して、統治せよ」であった。   
 イギリス船籍の豪華客船ルシタニア号は、ドイツ海軍が危険水域と指定しているアイルランド沖を航行していた。
 Uボートは、そのルシタニア号を攻撃して撃沈した。アメリカ人128人を含む一般人1,198人が犠牲となった。
 中立国アメリカは、イギリスを支援する為に国際法や合衆国憲法を無視して軍需品をルシタニア号に積載し、故意に積み荷目録原本を隠した。
 イギリスの海軍大臣チャーチルであり、アメリカの海軍次官補はルーズベルトであった。
 10月12日 ドイツ軍は、ベルギーの付属病院を経営していたイギリス人看護婦キャヴェルをイギリス人戦争捕虜の逃亡を手助けしたとして銃殺刑にした。
 逃亡に協力しているという情報は、イギリス情報部(ワイズマン長官)からドイツ軍情報部(ウォーバーク長官)に漏れたと言われている。
 この銃殺事件は、国際的非難を巻き起こし、イギリスにおける志願兵が急増した。
 10月14日 ブルガリアは、セルビアに宣戦布告。
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メキシコ革命。1911〜16年。
 アメリカは、メキシコに軍事介入して傀儡国家を成立させた。
 アメリカは、大国となり国民を豊かにする為に、独立宣言・建国宣言・相互不干渉宣言を捨て、石油帝国主義政策を採用してカリブ海沿岸諸国の内政に軍事介入した。(ルイズ・フィッシャー著『石油帝国主義』1926年)
 マデロは、アメリカの軍事支援を得て、11年にディアス将軍の軍事独裁政権を打倒した。アメリカは、ディアス将軍とは25年間同盟関係にあったが、反米的となり、指示に従わなくなった為に見捨てた。
 大統領に就任したマデロは、最初は親米派としてアメリカの支援を受けて近代化に取り組んだが、13年には大統領権限を強化して反米政策をとった。
 ウィルソン大統領は、国際協調主義を掲げて、アメリカの指示に従わないマデロ大統領を退陣に追い込んだ。
 親米派は、マデロを国家反逆罪で処刑し、マデロ派を虐殺した。
 ウエルタ将軍は、アメリカの軍事支援で大統領に就任した。公正な国民選挙で再選されるや、メキシコの国益を守る為にアメリカの権益に挑戦して、両国関係はまたしても悪化した。
 ウイルソンは、不承認政策でウエルタ政権に外圧を強めた。
 メキシコ国民は、アメリカに対して、テキサスからカリフォルニアに至る広大な領土を武力で奪われた恨みを忘れてはいなかった。国民世論は、何れの政権に対しても反米政策を要求していた。
 チリ、アルゼンチン、ブラジルの三国は、メキシコに同情する以上にアメリカの軍事介入を警戒して調停案を作成した。
 ウィルソンは、道義上の理由から関係国以外の協議会を非難し、如何なる妥協案にも反対した。
 そうして、ウエルタ政権に対して財政的圧迫を強化し武器弾薬の供給を停止して、カランサやヴィヤなどの反乱軍に武器や資金を提供した。
 アメリカ軍は、アメリカ大陸の平和と安定という道義上のメッセージを送る為に、陸軍部隊と戦艦二隻をメキシコ領に派遣した。
 イギリスは、メキシコ石油の確保の為に、アメリカに対してウエルタ大統領が自ら職を放棄する様に圧力を掛けるように依頼した。  
 ウォール街の金融資本家らは、親米派と反米派による内戦を拡大させる為に、貧農や小作農を組織した革命家パンチョ・ピラら革命各派に武器弾薬や軍事資金を提供した。
 ブライアン長官「大統領は、反乱勢力の指導者達を支援する事で、ウエルタを排除する方針だ。平和という観点からも、資産の確保、外交努力の早期の報酬という観点からも、メキシコは、各勢力が反目しあう今のままにしておくほうが望ましいと考えられる。よって大統領は、メキシコへの武器弾薬の輸出禁止措置をただちに解除する考えだ」
 ウエルタは謝罪して事態を収拾しようとしたが、ウィルソンは謝罪を拒絶した。
 アメリカの真の狙いは、メキシコ南部の石油利権確保にあった。
 ウィルソンを裏で動かしていたのは、スタンダード石油であった。スタンダード石油は、国内石油の枯渇と石油供給不足が現実となるや、アメリカ外交を海外石油資源獲得競争へと誘導した。
 この頃から、アメリカの外交は表向き民主と自由を拡大させる事を理想としながら、裏では大量の石油を独占する事を目的とした。
 そしてスタンダード石油は、中米油田地帯のベネズエラでもロイヤル・ダッチ・シェルグループやガルフ石油などと熾烈な獲得競争を行なっていた。 
 1913年のメキシコ軍事クーデターが発生した時、メキシコの大統領夫人と子供は日本大使館に駆け込み保護を求めた。
 天皇の臣下であった堀口九萬一公使は、主権・国益を守るべく押し寄せた武装革命軍に対して、玄関先に日の丸の国旗を敷いて立ち「彼女達を捕らえると言うならば、私を殺し日本国旗を踏んで館内へ入るがよい。日本と戦争する覚悟でやれ!」と一喝し、アメリカの支援を受けた革命軍を追い返した。さらに、
 堀口公使は、単身でクーデターの総指揮官と面会し、「懐に入った窮鳥は殺さない。それが日本の武士道である!」と談判して大使館内の大統領一家の身の安全を保証させた。
 翌年 ウエルタとその家族は、無事に国外へ亡命した。メキシコ人は、命を犠牲にしても信義を貫く日本精神を持ったサムライ日本人を尊敬して、親日派となった。
 武士道精神とは、「死」を覚悟をして生きる為に最善の努力をする事であって、けっして東アジアの様な強大国に媚諂い卑屈なまでに「生」に執着する事ではない。
 東アジアは、強い方に附いて弱い者をいたぶる事を正義とした。サムライ日本人は、祖先の家名を大事にし、殺されようとも弱い者を苛める強者の風下に立つ事を潔しとはしなかった。
 まして、病人や怪我人、女性や子供などに危害を加える者は日本男子として絶対に許せなかった。
 昔の外交官は臣下として、「死」を持って、天皇の名誉を守り国家の体面を重んずる気骨があった。
 大使館とは、現代日本人が考える様な、便利な観光案内所ではなかった。
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 1914年 アメリカは、戦艦と海兵隊を派遣し、混乱を制して大統領に就任したカランサ政権を承認して傀儡とした。
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 1915年7月 T・E・ロレンスは、アラブ人をオスマン・トルコ帝国から独立させえる為に、ならず者に近いベドウィンをまとめて反乱軍を指揮できる指導者を探した。
 メッカの首長(シェリフ)であるフサインは、預言者ムハンマドの血脈を継ぐハーシム家出身で、血統と信仰と知性ゆえに、アラブ中のアラブとして全ての部族を束ねるに申し分なかった。
 アラブに於いて、強力な軍隊に守られ豪華な宮殿に住み多くの美女に囲まれた贅沢な生活をする名門名家であっても、ラクダで内陸の露営地を巡るテント暮らしの預言者ムハンマドの高貴な血筋には勝てない。
 クライシュ族ムハンマドが、神に一番近いアラブ人だかである。
 理屈ではなく、絶対神アッラーが決めた事であるからである。
 四人の息子の内で三男のファイサル王子のみが、預言者風の風情を醸し出し、揺るぎない信仰と信念から来る堂々とした立ち振る舞いが、全てのアラブ人を従わせ得ると感じた。
 他の王子達は、優れた才能を持ち、困難に立ち向かう勇気があったが、預言者のようにアラブ人を導く天分がなかった。
 ロレンス「ちらりと一目見ただけでこの人こそ、アラブ人達の反乱に十全な光を与えられる指導者であると感じた。……彼は、両手を身体の前の剣の上に組み合わせていた」(『知恵の七柱』)
 R・A・ニコルソン「(アラブの首長の)権威は高貴な血統、高貴な人格、富、知、経験から生まれてくる」
 1916年6月 アラブの反乱。
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 1916年 ウィルソンは、伝統的西半球政策から、指示に従わないカランサ政権と対立し、陸軍を派兵してメキシコ軍と武力衝突した。
 パンチョ・ピラらは、アメリカの背信行為に激怒して、1月に列車を襲撃してアメリカ人鉱山師16名を殺害し、3月9日にはニューメキシコ州コロンバスの騎兵隊駐屯地を襲撃して、町を焼き17名の市民を殺害し略奪した。
 ウィルソンは、パンチョ・ピラを山賊と位置づけ、メキシコの治安を回復する事を名目として遠征部隊1万2,000人を派遣した。
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 1917年 メキシコ政府は、アメリカの軍事的圧力に屈して新憲法が制定し、各革命勢力を武装解除して、内戦は収束した。
 カトリック教会は、国教として宗教政策を推進し、都市部から民族宗教を排除し、地方にキリスト教会を建てて国民の信仰を監督した。メキシコは、完全なるキリスト教国となり、神話や迷信や呪文による神秘的民族宗教は姿を消した。
 ウィルソンは、第一次世界大戦への参戦の為にメキシコとの紛争の長期化を避けて撤退し、南北アメリカ大陸の安全保障問題を多国間協議で解決するというアメリカ主導の構想を提唱した。ウィルソン主義である国際協調主義は、表向きの事であり、本質は大国の軍事力によるゴリ押しであった。
 欧州諸国は、その事を見抜いていた。
 外交下手の日本は、その理想主義を信じ切っていた。現代になればなるほど、全ての才能において低下が見られる。歴史においても、資料の多くが目の前にあるにも拘わらず、深く洞察する能力も失いつつある。
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