🗽19」─1─もう一つのアメリカ建国物語の真実。偽りの感謝祭。~No.73No.74No.75 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 リンカーンは、「奴隷解放の父」として奴隷解放宣言を行ったが、人種差別主義者として黒人蔑視を放置した。
 「私は、白人種と黒人種の社会的、政治的平等を実現させようとしていないし、これまでしてきたこともない。黒人を有権者陪審員にしたり、公務に就かせたり、白人と結婚させたりするつまりはないし、これまでもそうしてこなかった。……私の意見では、両人種が手を携えて社会的、政治的平等を享受することはできない。だからこそ、両人種が共に暮らす限り、上位と下位という2つの立場が生まれ、皆と等しい、私も白人が上位を占めることを支持している」
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 2018年7月19日号 週刊新潮「変幻自在 高山正之
 100年人道を待つ
 メイフラワー号でやってきた清教徒たちは1620年11月、ケープコッドの一角に上陸した。
 北緯42度、冬季は日中でも零度近い寒さだった。それに飢えもあった。
 後のことを考えると彼らがここを終焉の地としていたら米国の歴史ももう少しは明るかっただろう。
 が、人のいいワンパノアグ族酋長が七面鳥を与え、春になるとトウモロコシの育て方も教えて彼らを生かしてやった。
 元気になった清教徒は彼らの言う『開拓』を始めた。先住民を片っ端から殺し、その土地を奪っていった。
 命の恩人ワンパノアグも例外ではなかった。酋長は首を刎ねられ、彼の妻子と戦士たちはまとめられてカリブの奴隷に売られた。
 清教徒の第二船で着いたジョン・ウイスロップはインディアン殺戮をさらに徹底し、彼らの屍の上に神の祝福を受けた『丘の上の町』の建設を急いだ。
 清教徒はその建設に汗を流さなかった。代わりに黒人奴隷を鞭打って豊かなアメリカの礎を完成させた。
 この時の大統領リンカーンは考えた。インディアン殺戮と黒人奴隷が米国の建国史では都合が悪い。
 で、彼は歴史を書き直すことにした。先住民の助けで冬を越したところから先の殺戮の歴史を『清教徒は翌年トウモロコシを収穫すると先住民を招いて、お互いの友好を祝いました』と書き直した。
 リンカーンはそれを『感謝祭』と名付けて国家の祝日にした。米国をとても人道的な国柄に仕上げた。
 碌でもない国ほど衣食足りると体裁を整えたがる。その好例と言える。
 その点では米国に引けを取らない支那も経済大国になった昨今、同じように体裁を考え始めている。
 例えば胡錦濤の時代。北京から『古都を米軍の空襲から救った梁思成の像を贈ります』と言ってきた。
 どこかで聞いた話だ、そう、奈良京都が空襲されなかったのはハーバード大教授のラングドン・ウォーナーの説得があったからだという話があった。
 ネタ元はGHQ。その下請けをやっていた朝日新聞が特ダネとして報じている。
 文化財にまで気配りする米国人は文明人と言いたかったらしい。でもホントは原爆投下の第一候補で、投下地点は梅小路操作場と決まっていた。
 最後の段階で戦争大臣のスティムソンが躊躇(ためら)い広島に差し替えたことが明らかにされている。
 ウォーナー自身もこの与太話お否定した。
 それを見て『いや奈良京都を守ったのは米人ではない。我が梁思成だった』と言ってきた。
 梁思成は戊戌(ぼじゅつ)の政変で日本に逃げてきた梁啓超の息子。ただ日本との縁はそれだけで戦時中は四川省にいた。米軍についてもないし米国側に記録もない。
 だいたい支那人は自分の国の文化にも関心がない。文革を見れば分かる。
 おまけにこんな話を持ち込んだのはまた朝日新聞。それで日本側は全くの虚構と判断し丁重に梁思成の像の受け取りを謝絶した。
 しかし支那は体裁が欲しい。習近平の時代になると『支那は欧米で迫害されたユダヤ人を受け入れた世界で唯一か国の人道国』と言い出して上海にユダヤ人難民記念館を建てた。 最近はそれに加え『駐ウイーン領事の何鳳山がユダヤ人にビザを発行した』とも宣伝を始めた。
 この話も聞いたことがある。何鳳山の話はリトアニアの杉浦千畝の焼き直しに見える。証拠も梁思成に似て何もない。
 もう一つの上海のユダヤ人難民受け入れ話も地名を除けば史実とまったく違う。受け入れたのは支那政府ではなく日本租界だった。
 関東軍によって九死に一生を得てユダヤ人は満州国から上海・虹口(ホンニュウ)へ、そこから安全な国へと渡っていくのが形になっていた。
 そのときの受け入れ施設が虹口の日本人学校の校舎。今、支那が記念館を建てたまさにその場所だった。ユダヤ人はそこを中心に約2万人が生活していた。
 人道を語るとき、支那人はどこも出る幕はない」
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 良い人間とは従順な奴隷の事で、悪い人間とは反抗的な奴隷の事である。アメリカ・インディアンの悲劇。
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 アメリカ・インディアンは、日本民族の祖先の一派である極寒モンゴロイドの血を引く人々である。
 アメリカ・インディアンは平和的友好的であったが、白人入植者は好戦的敵対的であった。
 アメリカ・インディアンは、中華人(中国人・朝鮮人)ではなく日本民族に近い。
 人類が生き残る為に見習うべきは、日本民族縄文人ではなく、アメリカ・インディアンの生き方考え方である。
 何故なら、日本人の中でも日本民族日本人・縄文人の生き方考え方を否定する者が少なからずいるからである。
 日本人・縄文人の生き方考え方よりも、アメリカ・インディアンの方がシンプルで分かりやすい。
 数万年前に消えた縄文人よりも、今生きているアメリカ・インディアンに教えを請うべきである。
 その時、現代の日本人の出る幕はない。
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 岩田温『人種差別から読み解く大東亜戦争
 「第3章 アフリカ、インカ、アメリカの悲劇
 アメリカ・インディアンの悲劇
 ……
 北米の地で新しい国家を建設しようとしたのはイギリス人でした。16世紀末に、ウォルター・ローリーが2隻の船をアメリカに派遣し、ロアノーク島を探検させ、結婚せずに処女と称されたエリザベス女王にちなんで、この島をヴァージニアと名付けます。この後、ヴァージニア会社によって本格的な植民が開始されます。
 1606年、144人の入植者をイギリスからアメリカに送りますが、アメリカにたどり着けたのは104名、翌年から都市の建設に取り組んだものの、多くの人間が病や寒さによって死亡してしまいます。
 このとき、入植者達を助けたのがインディアンでした。彼らがトウモロコシの栽培の仕方を教え、何とかイギリス人たちは、飢餓を乗り越えることが出来たのです。しkし、彼らはとんでもないことを始めます。自分たちを助けてくれたインディアンたちからトウモロコシを強奪したのです。『恩を仇で返す』とは、こういうことをいうのでしょうが、それにしてもあまりにひどすぎる仕打ちです。
 インディアンの族長は、イギリス人指導者に対して、武器を携行すると、多くのインディアンが驚いてしまうから、武器を持たずに付き合おうと提案します。
 『武器を船においてらっしゃい。ここでは武器は要らない。われわれはみな友人なのだから』
 するとジョン・スミスは、この族長の弟に対して、恐ろしい暴言を吐きます。
 『トウモロコシを船に積め。さもないとお前らの死体を積むぞ!』
 穏やかで友好的なインディアンに対して、イギリス人たちがどのような姿勢で臨んでいたのかが明らかでしょう。彼らは、インディアンを搾取する対象としかみなしておらず、ともに友情を育む存在、すなわち対等な『人間』とは見做していなかったのです。彼らは躊躇なくインディアンの村々を襲撃し、食べ物を略奪していったのです。
 1610年、植民地住人2人がインディアンによって殺害されると、イギリス人は報復措置をとります。2つの村を焼きつくし、女子供に至るまで殺戮したのです。
 こうして血で血を洗う復讐合戦が始まります。
 1622年3月22日、インディアンたちは、いつものように交易品を携えて植民地の人々の家を訪問しました。しかし、この日の目的は交易ではなく、復讐でした。一斉に家々の武器を手に取り、入植してきたイギリス人を殺したのです。この時に殺された植民都市の住人は347名に及びました。
 これ以降、イギリス人はインディアンであれば誰彼かまわずに殺害するようになりました。無差別殺害が繰り返され、村々は焼き討ちされ、食料は奪われました。徹底した掃討作戦の結果、インディアンは弱体化し、遂に領土を割譲する条件を承認させられることになります。
 土地の問題についても、インディアンと入植者とで揉めることになります。両者の土地についての考え方、捉え方がまるで違っていたからです。インディアンは狩猟する土地を自分たちの共有と見做し、先祖代々の神々に感謝していました。これに対して、近代的な所有権の概念があった入植者は、ほとんどの土地には所有者がいないと解釈しました。従って、誰のものでもない土地を自分たちが『発見』して占有すれば、自分たちのものとなると言い張ったのです。
 インディアンにとって、土地は売却が不可能なものであり、全てのインディアンの共有地だったのです。あるインディアンの指導者はインディアンの土地についての考え方を次のように説明しています。
 『われわれの土地は過去を振り返って見ても、いまだかってばらばらに分割されたことなど一度としてなかった。それはいつでもすべてのインディアンのもので、だれが使ってもよいものだった。だれひとりとしてそれをほんのひとかけらでも売ることはできない』
 土地は人間が所有するべきものではなく、全ての人が使用すべきものだ。
 これがインディアンの土地に関する考え方でした。
 近代的な所有権の概念と合致しないからといって、インディアンの土地に対する解釈が一方的に誤っていると断言することは出来ません。これはひとつのものの考え方だと言ってよいでしょう。しかし、神によってアメリカ大陸が与えられたと信じる入植者たちは、非・キリスト教徒のインディアンたちを遅れた野蛮な存在と見做し、彼らの考え方を理解しよとはしなかった。
 インディアンと入植者たちとの戦いは続きます。
 ある日ピクォート族の一人が、一人のイギリス人を殺害しました。入植者は犯人の引き渡しを求めましたが、ピクォート族は、これに応じませんでした。激怒した入植者は、容赦のない反撃に打って出ました。男たちの多くは、戦士として闘い、死んでいきました。生き残った女性、子供たちはキリスト教徒たちの手によって、西インド諸島で奴隷として売却されてしまうのです。
 キリスト教の指導者であるコント・マザーは、このピクォート族の壊滅に関して次のように神に感謝したそうです。
 『この日、われわれは600人の異教徒を地獄に送った』
 神を信じる自分たちだけが正しく、非キリスト教徒、異教徒であるインディアンは地獄に送られて然るべきだ、というわけです。
 これはあまりに独善的な考え方と言わざるをえません。なお、この戦いで、入植者たちは、一部のインディアンを味方に引き込んでいました。インディアン同士を仲違いさせ、一致団結を防いだうえで、潰し合わせるというのが、入植者たちの基本方針でした。
 インディアンの最大の抵抗は、メタコットという指導者の下で行われました。基本的には入植者たちと宥和的な政策を採ろうと努力を続けますが、入植者たちの度重なる裏切りに激怒し、立ち上がったのです。神出鬼没のメタコットたちの攻撃に、入植者たちは震え上がります。しかし、戦闘はメタコットの死によって、終息します。彼の首は広場のポールに突き刺され、何と25年間ものあいださらし者にされたと言います。
 ここで入植者たちによる明らかなインディアン虐殺を紹介しておきます。時は1864年、アメリカが建国されてから100年以上の時が過ぎた後の事件です。この時代になっても、インディアンに対する残虐な行為は後をたちませんでした。最も残虐な事件として知られるのが、コロラド州のサンド・クリークで引き起こされた虐殺事件です。
 この虐殺を指揮したのはシビングトン大佐。彼は次のような野蛮な言葉を残しています。
 『インディアンに同情する奴らなど糞くらえ!』
 『本官はインディアンを殺すためにやってきたのだ。神の支配するこの世界では、どんなやり方でインディアンを殺そうとも、それは当然の権利であり、名誉あることだと、自分は信じている』
 もう、何とも表現の仕様のないほどに野蛮な言説です。インディアンを殺しにきたと宣言し、インディアン殺しは如何なる方法であっても許されるなどという発言は、狂気の言説でしかないでしょう。
 そしてこの狂気は現実のものとなってしまいました。
 シビングトンの指揮下で、アメリカ兵たちは、インディアンを残虐に殺戮しつづけました。殺戮それ自体を目的としているといか思えない。残虐に殺戮でした。老若男女、一切無関係に、インディアンがインディアンであるという理屈だけで殺されたのです。
 この殺戮は米国の議会でも問題視され、次のような証言が寄せられています。
 『シビングトン大佐が攻撃を命じ、命令は実行されました。・・・(略)・・・インディアンの村には100から130のテントがあり、私の見るところ、500人から600人のインディアンがいて、その大半は女と子供でした。翌日現場に行ってみますと、男、女、子供の死体は、どれもこれもみな頭の皮をはがされていました。
 死体の多くは、これ以上むごたらしくはないほど切り刻まれ、男女、子供の見境なしに生殖器が切り取られていました』
 飢えに苦しんでいた入植者にトウモロコシを渡し、その栽培方法を教えてくれた人々。自然を愛し、先祖代々の暮らし方を守りながら自然の中で暮らしてきたインディアンに罪があったとは思えません。突然『発見』され、野蛮だ、未開だと罵られ、文明化を迫られ、搾取され、ときに殺戮されたインディアン。
 彼らを殺した側の人間が『文明』人であるとは到底考えられません。
 最後に、インディアンの言葉を紹介しておきましょう。他のどんな言葉よりも重みのある言葉だと思います。
 
 『白人たちよ。いったいだれが、お前たちにくるように頼んだというのだ。偉大なる精霊はわれわれにここで生きるようにこの国をくれたのだ。お前たちにはお前たちの土地があるではないか。・・・(略)・・・今、お前たちわれわれに生きるためには働けばよいではないかとおい。しかし、偉大なる精霊がわれわれを作ったのはわれわれを働かせるためでない。狩りをして生きよといって作ったのだ。
 お前たち白人は、働きたければ働けばよい。われわれはけっしてお前たちの邪魔はしない。しかし、また新たに、お前たちはわれわれになぜ文明化しないのだといってきた。われわれはお前たちのような文明化を望まない。われわれは、われわれの父や祖父たちが生きてきた通りに生きていきたいのだ』(オグララ・スー族の族長クレージー・ホースの言葉)

 『白人の中にも善良な人間がいることは認める。しかし、その数は悪意を持った白人の数に比べると比較にならない。白人たちは圧倒的な力で支配した。彼らはやりたい放題のことをやった。人間はみな同じように大きな精霊によって作られたのにもかかわらず、彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ、従わないものを殺した。白人の誓いはいかなるものも守られたためしがない。・・・(略)・・・白人はインディアンに「わが友、わが兄弟」という。しかし、次の瞬間に彼らはインディアンを殺すのである』(デラウェア族バチガンチルヒラスの言葉)」
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 太平洋戦争時の、連合国軍による日本人の非戦闘員(女性や子供ら)殺戮は、白人キリスト教徒によるアフリカ人やアメリカ・インディアンに対する残虐な虐殺に通じる所がある。
 連合国の残虐な殺戮を行ったのは、アメリカだけではなく、ソ連(ロシア)や中国共産党などの共産主義勢力も同罪である。
 その中でも最も悪質であったのは、中国共産党である。
 だが、現代日本には、中国共産党を擁護し、アメリカの連合国やソ連などの共産主義陣営の残虐な虐殺行為を正しい行為であったと認める勢力が、特に高学歴出身知的エリートに存在する。
 日本は、絶望的熾烈な戦闘を繰り返したアメリカなどの旧連合国とは友人あるいは同盟国となれたが、ソ連(ロシア)や中国共産党とは友人になれないどころか永久的に反目し合う敵対関係にある。
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 無償の自己犠牲的な人道的貢献というのなら、軍国日本の方が連合国よりも数多く行っていた。
 ユダヤ人難民の救助・保護や河南省大飢饉などがそれである。
 人道的貢献を行ったのが、昭和天皇東条英機松岡洋右板垣征四郎松井石根A級戦犯達である。
 死亡した日本軍兵士の内、戦死は3分の1で、残りの3分の2は餓死か病死であった。
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 人類史・世界史・大陸史では、新たに国家を建国にあたって抵抗勢力や反抗勢力は誰彼容赦なく攻撃し、殲滅・根絶やしにした。
 それは、日本の国家統一とは異質な方法である。
 ヤマト王権が、東国・東北の蝦夷を武力で攻撃して組み伏せたのは、東アジア情勢、反日派敵日派の中華世界を見据えた国家戦略であった。
 ヤマト大王・日本天皇が最も恐れたのが、日本国内に移住して来た難民の内の反天皇反日的渡来人が中華世界と軍事同盟を結んで分離独立戦争を仕掛けてくる事でった。
 大和朝廷は、中華世界との国際情勢を見据えて行われた為に、蝦夷など地方の勢力に配慮して平和的に話し合うだけの時間的余裕がなかった為に、短期的に理不尽的に武力統一を行った。
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 反天皇反日的渡来人は、駿河や伊豆などの東国で反乱を起こしていた。
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 日本にとって、中華諸国(中国・朝鮮)は明らかな敵国であった。
 中華とくに朝鮮は、古代から日本を侵略し虐殺と略奪、そして強制連行・拉致を繰り返していた。
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 日本民族日本人は、受けた恩は一生涯忘れずさらには子々孫々まで語り継ぎ、受けた仇はクドクド、ネチネチとせず水に流しその場限りとして忘れようとした。
 その点において日本人と中国人・朝鮮人とは別人でり、その為に日本人と中国人・朝鮮人とは友人とはなれなかった。
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 戦後の歴史教育である、東京裁判史観(西洋のキリスト教史観、ソ連マルクス主義史観{共産主義史観})と自虐史観(=近隣諸国の日本人極悪非道の重罪人史観)で高得点を取った高学歴出身知的エリートに対して語る言葉はない。
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 インディアンのような境遇に追い込まれた時、戦前までの日本人であれば玉砕を覚悟で勝てないと分かっていても死力を尽くして戦っただろうが、現代の日本人は負けると分かっている戦いは避けただろう。
 戦わないというのも勇気ある生き方であり、移住者に領土を割譲するのも勇気ある決断である。
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