🗽18」─3─米国のホロコースト、ダコダ戦争とサンドクリーク虐殺。リンカーン暗殺。西部開拓。1862年~No.70No.71No.72 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 フロンティア・スピリット。
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 アメリカの神聖な使命とは、「自由・民主主義・資本主義」の国家理念を他の地域に広めて実現する事であった。
 アメリカは、自由と民主主義という建国の理想を守る為に、イギリス王国に対して独立戦争という革命(レポリューション)を起こした。
 北部連邦は、アメリカ経済を資本主義一本に統一する為に南北戦争南部連合プランテーション経済を葬ろうとした。
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 オービル・ブラウニング「叛乱諸州は自己の忠誠心に立ち戻って欲しい。もし諸州が立ち帰るなら、奴隷の所有、使用、管理を含んだ全ての権限は今まで通り永久に保護されるであろう」
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 南北戦争は、奴隷解放の為の戦争ではなく、南北に分裂しいていたアメリカ13州の統一戦争であった。
 北軍は、南部の指導者を罪人として牢屋に放り込み、戦争に賛成した者は全て公職から追放し、代わって従順な知識人を保守派として公職に就け、媚びを売る小役人を上級職に就任させた。
 ウィリアム・スワード国務長官は、イギリスが支援していた南部諸州に勝利した以上、イギリスが支配する清国(中国)への大西洋・インド洋経由の交易航路は利用できない為に、新たな独自航路として北太平洋への侵出を考えた。
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 1862年 ロシアは、農業国ロシアを工業国にする為に、アメリカ型保護貿易を参考にしようとした。
 リンカーンは、ロシアを味方に付けるべく、カシアス・クレイをロシア公使に任命した。
 皇帝アレキサンドル3世は、疲弊した国家財政の立て直しの為に、税収入を増やすべく農奴解放を命じた。
 農奴を多く抱えている貴族や大地主は、農奴解放に反対し、密かに皇帝を暗殺するべくアナーキストらを煽った。
 ドイツ社会党の創設者モーゼス・ヘスは、ユダヤ民族の為に聖觥エルサレムを要求した。
 人種差別主義者として、すでに住んでいるパレスチナ人の諸権利を否定し、生死を問わず全員を追放すべきであると主張した。  
 オスマン・トルコ帝国は、欧州出身の異教徒ユダヤ人に対して、1867年に帝国臣民として兵役を含めた義務を果たす事を条件とし、エルサレムとその周囲で不動産を購入して入植する事を許可した。
 トルコ政府は、帝国の安定と発展の為とはいえユダヤ人の入植を無制限に赦す気は無かったし、利益の為に民族宗教を犠牲にして聖地パレスチナを異教徒に売却する気も無かった。
 信仰篤き宗教者にとって、金儲けの為に聖地・聖觥を売り飛ばす事など、考えるもおぞましい背信行為であった。
 エルサレムイスラム教徒は、排他的な武装ユダヤ教徒入植者の急増に宗教的危機感を募らせ、キリスト教圏のユダヤ人が土地を購入し入植する事を制限するように皇帝に嘆願した。
 先祖代々、エルサレムに生活していたユダヤ教徒ユダヤ人も、アラブ人に味方して、迫害から逃げて来るロシア・東欧系ユダヤ人の入植に反対した。
 5月12日 イギリスは、表向きアメリカ内戦に中立を保つとの声明を出したが、裏では軍艦を商船と偽って引き渡していた。
 6月16日 蒸気戦艦ワイオミング号は、カリフォルニア周辺海域でパシフィック・メール蒸気船会社の郵船業務の護衛任務にあったが、極東海域配備命令を受け、日本に向かった。
 その頃。アジア海域では、南部連合の改装蒸気戦艦アラバマ号がアメリカ商船を攻撃していた。
 9月22日 リンカーンは、アメリカ合衆国大統領として、「63年1月1日をもって奴隷制を廃止する」と奴隷解放宣言を発表した。それは、敵の南部連合に対してであり北部連邦の奴隷州は対象外とした。
 北部連邦のデラウェア、ケンタッキー、ウエスバージニアミズーリの5州は、奴隷州であった。
 アメリカは、昔からダブル・スタンダードの国である。
 この宣言によって。南部連合は、勝利して生き残るか、敗北して消滅するかの二者択一しかなくなった。
 ヨーロッパの反植民地主義者や奴隷解放運動家らは、アメリカの理想主義を支持した。
 奴隷宣言は、イギリスを味方にする為の外交的方便で、誰も本気で奴隷を解放する気はなかった。
 当時のイギリス首相は、奴隷解放論者のパーマストンであった。
 リアリストのリンカーンは、アメリカ連合に加担しようとしているフランスを牽制する為に、パーマストン首相と理想主義のイギリス・エリート階層の支持をtりつける為に行ったに過ぎない。
 北部の黒人に参政権が与えられても、白人エリートは政治が黒人によって支配されると恐怖して、投票所に訪れた黒人をリンチにかけた。
 合衆国憲法で人権の平等が認められているにもかかわらず、裁判所も警察も、白人による黒人へのリンチを見逃し、殺人事件に発展しても事件をもみ消した。
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 ダコタ戦争。リンカーンは、ミネソタで起きたスー族(ダコタ族)に対して宣戦布告して軍隊を派遣した。
 10年前。アメリカ政府は、西部開拓民の為に、ミネソタ平原で狩猟生活していたスー族の土地を取り上げ、スー族を居留地強制移住させた。これまでのように狩猟生活ができなくなった見返りとして、小麦粉や牛肉を無償供給した。
 スー族は、大草原で狩りをしながら平和に生活をしていた所を、白人移住者によって生活権を奪われたが、戦いを避ける為に命令に従って居留地に移り住んだ。
 交易商人は、役人と結託し、食料品などの生活物資を横流しして居留地への供給をわざと減らした。
 スー族は、食料の供給が削減されて餓え始めた為に、約束した量の供給を要求した。
 白人側は、予定量よりも多くせしめようとするスー族の悪巧みとして門前払いした。
 アンドリュー・ミリック「餓えているなら草でも食え!」
 悪徳交易商人は、不正がばれるのを恐れて、「原因はもっと広い土地が欲しい開拓民が役人を焚き付けているからだ」と嘘をつき、白人への不満を募らせているスー族の若者達に酒と旧式銃を渡して祖先からの土地を奪い返すように焚き付けた。
 スー族の若者達は、民族の文化や宗教を踏みにじる白人の横暴に激高して、白人開拓民一家を襲って殺害した。
 スー族の長老達は、アメリカと戦っても勝てない事はわかっていた為にできれば戦いは避けたかったが、白人の報復は避けられないとして、草原の戦士という誇りの為に戦う事を決断した。
 部族会議の結果、無益な戦いは避けて白人との共存共生の道を模索していた非戦の穏健派は退けられ、全部族にアメリカとの戦いが命じられた。
 勇敢な勇者は、勝ち負けではなく、家畜のように惨めに従うのではなく、スー族の名誉を守る為に戦った。
 スー族は立ち上がり、約1,000人の戦士がミリックの官舎を襲い殺害した。
 リンカーンは、大統領として国民を守る責任から、白人開拓者の安全を守るべくスー族に対して宣戦布告し正規軍を派遣した。
 ジョン・ポール少将は、人種差別的なスー族殲滅の訓示を行い、キリスト教会の祝福をえ、大口径の大砲や新式銃で装備した約1万人の討伐部隊を率いてミネソタに向かった。
 「我々の目的は、スー族を皆殺しにする事だ。彼らは狂人、あるいは野獣として扱うだろう」
 討伐部隊は、各地でスー族を破り、女子供しかいない集落を襲って虐殺を行し、数百人の生け捕った者は劣悪な収容所に放り込んで死ぬに任せて放置した。
 スー族は、一ヶ月近く弓矢や旧式銃で奮戦したが、夥しい犠牲者を出して敗走した。
 スー族の長老等は、抵抗むなしく降伏した。
 リンカーンは、インディアンの叛乱を撲滅する為に、重立った部族長(酋長)39人を見せしめの縛り首にし、生き残ったスー族をパイク島の強制収容所送りを命じた。
 戦う前から、勝敗は明らかであった。
 39人の部族長は、死刑判決有りきの「公平な裁判」の結果、ミネソタ州マンカト広場で全員が一度に縛り首で殺された。
 アメリカ政府は、反乱鎮圧の戦後処理とし、スー族の言い分を全く無視して過酷な処分を行った。
 スー族は、ミネソタ居留地を没収され遠いネブラスカに追放され、その途中で多くの者が死亡した。
 同年12月26日 捕らえられた主戦派の38人は、他のインディアンへの見せしめとして、ミネソタ州マンカトーでリンチ的縛り首で処刑された。
 「スー族の戦士は、最後の瞬間が来るまで絞首台の上で、戦いの踊りを踊り続けていた」
 ダコタ戦争に協力した交易商人や白人移住者は、肥沃な平原を手に入れ地主として大農場を開き、放牧牛の管理と自警の目的で荒くれガンマンを雇い、新たに移住して来る開拓民に農地を貸した。
 彼らは、各地に町を作り、独自の法律で地域を支配した。
 インディアンに対する憎悪はキリスト教的人種差別が原因で、インディアンの文化、宗教、言語、習慣、風習は未開の悪として淘汰されていった。
 キリスト教会は、世界は絶対神が創造したものである以上、世界を創造主に返す事が神聖な使命であると信じて布教活動を行っていた。
 一神教の普遍宗教の前で、数多くの多神教民族宗教は滅ぼさ、地域的な文化や言語も失われていった。
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 クレージー・ホース(ラコタ・スー族酋長)「白人達よ。いったい誰がお前達にここに来るように頼んだというのだ。偉大なる精霊は我々にここで生きるようにこの国をくれたのだ。お前達にはお前達の土地があるではないか。……今、お前達は生きる為に働けば良いではなかという。しかし、偉大なる精霊は働かせる為に我々を創ったのではない。狩りをして生きよといって創ったのだ。お前達白人は働きたければ働けばよい。我々は決してお前達の邪魔はしない。しかし、また新たに、お前達は我々になぜ文明化しないのだと言ってきた。我々はお前達のような文明を望まない。我々は我々の父や祖父達が生きてきたとおりに生きたいのだ」
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 秋 ロシアのグルチャコフ外相は、アレキサンドル3世の意を受けて、アメリカのベイヤード・テイラー臨時公使に「我がロシアは、アメリカ合衆国を支持する。ロシアは、合衆国が二つに分裂する事を望んではない」と伝えた。
 10月 ナポレオン3世は、南部連合への支援の為に南部港湾の封鎖を解除させるべく、リンカンに対して六ヶ月の休戦協定を提案した。拒否すれば、イギリスやロシアと共に戦争終結させる為に南部連合を国家で承認し、軍事援助を行うと恫喝した。
 イギリスの保守派は、植民地支配が揺らげ恐れがあるとして、南部連合への積極的支援を求めていた。
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 リンカーンの手紙「この戦争における私の至上の目的は連邦を救う事にあります。奴隷制を救う事にも、それを滅ぼす事にもありません。もし奴隷は一人も自由にせずに連邦を救う事ができるのなら、そうするでしょう」
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 1863年 リンカーンは、国家分裂を回避するべく、奴隷制度を維持しようとしている南部連合を支援する外国勢力を排除する為に奴隷解放宣言を行った。
 奴隷解放宣言は、南部連合との講和を拒絶し滅ぼす為の、外交戦術の方便にすぎなかった。
 本心で、白人と黒人が同等の権利を有する人とは見なしてはいなかった。
 ゆえに、白人による黒人へのリンチ事件が絶えず、黒人が白人を傷つければ厳罰に処せられ、白人が黒人を殺害しても罪に問われる事は少なかった。
 イギリスやフランスの指導層内部には、アメリカが二つ以上に分裂する事を望む勢力が存在していた。
 1月1日 アメリカは、詭弁と知りながら公式に奴隷解放宣言を公布した。
 イギリスは、アメリカ連邦の味方をし、アメリカ連合国を独立国とは認めなかった。
 南北戦争は、内戦でって国家間戦争ではないとされ、欧州諸国の軍事介入が阻止された。
 1月蜂起。ロシア領ポーランドで、ポーランド人はロシアからの独立を求めて反乱を起こした。
 ロシア皇帝アレクサンドル2世は、イギリスとフランスが陰でポーランド独立派を支持しているとして激怒した。
 5月 ワイオミング号は、アラバマ号の捕獲が任務であったが発見できなかった為に、横浜港に入港した。
 6月25日 長州藩アメリカ艦ベンブロー号を砲撃。
 7月26日 長州藩アメリカ艦が交戦する。
 9月 アレキサンドル3世は、リンカーン政権を支持する為にロシア艦隊はアメリカに派遣した。 
 ロシア艦隊は24日にニューヨーク港に、ロシア太平洋艦隊は10月12日にサンフランシスコ港に、それぞれ入港した。
 イギリスは、ロシアがリンカーン政権を支持した為に、南部連合への支援を控えた。
 9月5日 四ヵ国連合艦隊、下関に上陸。9月14日 休戦。
 11月19日 ゲティスバーク演説。「神の御名のもと、皆の衆の、皆の衆による、皆の衆の為の政治」と追悼演説。
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 1864年 ナポレオン3世は、アメリカが抗議できないのを見越して、メキシコにオーストリア・ハプスブルグ家のマキシミリアンを皇帝として送り込み傀儡政権を樹立した。
 所詮。フランス革命で宣言された「自由、平等、博愛」に基ずく基本的人権は、白人キリスト教徒のみに認められた権利であった。
 デンマーク王国は、プロイセン王国との戦争に敗北して豊かな国土の3分の1を失った。
 デンマーク国王は、「外で失ったものは内で取り戻す」の掛け声で、北部の痩せた原野を開墾して、教育で国民の精神を蘇生させた。
 6月 南部連合アラバマ号は、フランス北部の軍港シェルブールでフランス側の好意で修理を受けていた。
 6月19日 アメリカ海軍蒸気戦艦キアサージ号は、修理途中で出港してきたアラバマ号を撃沈した。
 中立を宣言していたイギリスは、民間人所有のヨットでアラバマ号の生存者救助した。
 11月29日 サンドクリークの虐殺。コロラド地方で、アメリカ軍機兵隊が、女子供しかいないシャイアン族とアラパホー族の集落を襲撃し、無抵抗のインディアンを無差別虐殺した。
 ジョン・チヴィントン大佐「殺せ!どいつもこいつも頭の皮を剥げ!大きいのも小さいのもだ!シラミの幼虫はシラミになるからな!」
「インディアンに同情する奴は糞だ!... 私はインディアンを殺さなければならない。そして神の天国のもとではどのような方法であってもインディアンを殺すことは正しく名誉あることであると信じる」
 エバンス知事「あらゆる証拠において、平原インディアンのほとんどは実際に敵対的だった。したがって、市民が彼ら全員を「追いかけて、殺して、破壊する」ことは、市民として当然の行動である」
 D・スタナード「白旗を掲げる幼女を撃ち殺し、その母親の腹を割き、頭皮を剥ぎ、指を切り落として指輪を奪った」(『米国のホロコースト』)
 白人キリスト教徒の商人は、インディアンの皮を一枚25ドルで売買していた。
 これ以降、インディアンは金欲しさにインディアンや白人の頭の皮をはいだ。
 アメリカ人は、宗教的人種差別から、インディアンを極犯罪者として見付け次第殺していた。
 ロバート・ベント(シャイアン族と白人の混血)の報告書。
「数少ない男たちは、全くの丸腰だった。女たちは自分たちと子供たちを隠すために、死に物狂いで土手の砂を爪で引っ掻いて穴を掘っていた。私はインディアンたちを保護しようと、そちらに近付いて行った。
 土手の陰に、5人のインディアンの女たちが隠れていた。軍隊が近づいてくると、彼女らは走り出て、自分たちが女であることを知らせようとしたが、兵隊たちは彼女らを撃ち殺してしまった。
 3〜40人の女子供が穴に隠れていたが、女たちは6歳くらいの女児に白旗を持たせて送りだした。この女の子が2、3歩足を踏み出したか踏み出さないかのうちに、彼女も射殺されてしまった。穴の外に4、5人女がいて、慌てて走り出した。彼女らは全く抵抗の気配を見せなかった。殺されたインディアンたちのすべてが、米兵によって頭の皮を剥がれていた。
 一人の女は腹を斬り裂かれて、胎児を引きずり出され、その胎児は脇に転がっていた。これはスーレ大尉も事実であると私に証言している。私は何人か、武装した幼い子供が母親と一緒に射殺されるのを見た。「戦い」のすぐ後に、私は地面を調べてみた。
 私は、死んだインディアンの数を400〜500人だったと判断しなければならない。ほとんどすべて、男も女も子供たちも、頭の皮を剥がれていた。私は、不具にされた1人の女性に会った。どの体も恐ろしく切り裂かれており、頭蓋骨が叩き割られていた。
 私は彼らが射殺された後、このようにされたものと判断している。指輪を取るために、指が鋸で切り取られており、また男だけでなく女も、いくつかの体が兵士によってのこぎりで切断されていた。次の朝、私は男の子がインディアンの死体の間でまだ生きているのを見た。私は、第3連隊の少佐がピストルを取り出して、この男の子の頭を吹き飛ばすのを見た。私は、一部の男たちが指輪を奪うために死体の指を切り落とし、銀の装飾品を奪うために、死体の耳を切り落しているのを見た。
 私は、先ほどの少佐と仲間たちが、夜の間にインディアンたちの頭の皮を剥いで、埋葬された死体を掘り起こして装飾品を奪うのを見た。私はインディアンの女が、殺される前に頭を打ち砕かれるのを見た。次の朝、彼らが死んで固くなったあとで、この男たちはインディアン女の体を引っぱり出して、不作法に足を開いていた。私は男たちが「女たちの女性器を切り取ったが、自分では見なかった」と言っているのを聞いた。
 私は、何人かの男たちが、殺したインディアン女から女性器を剥ぎとったあとに棒を突っ込んだことに抗議した。女・子供の死体は、見るもおぞましい方法で切断された。私は、わずか8人しか見ていない、それ以上はとても正視に堪えなかった。彼らは、とてつもなく切り刻まれていた。...彼らは頭の皮を剥がれて、むごいやりかた...で切り裂かれていた。ホワイトアンテロープ酋長の死体は、鼻、耳、男性器を切り取られて転がっていた。一人の兵士が、「この酋長の陰嚢で煙草入れを作るのだ」と言っていた。女たちは女性器をえぐり取られていた。
 ありとあらゆる略奪が、彼らの身体に加えられた。彼らは頭の皮を剥がれた、彼らの頭は打ち砕かれていた。男たちはナイフを使って女性を切り開き、小さな子供たちは、銃尻で頭を潰されて脳味噌を飛び散らせていた ...彼らの体を損壊したやりかたは、どんな言葉でも言い尽せない。それはこれまで見たこともないものだった。女は全員、バラバラに切断されていた... まだ生まれて2、3ヵ月の乳飲み子から戦士まで、すべての世代がそこに転がっていた。
 兵士たちは指輪を奪うために指を切断し、子どもも合わせた男性の陰嚢は「小物入れにするため」切り取られた。男性器と合わせ、女性の女性器も「記念品として」切り取られ、騎兵隊員たちはそれを帽子の上に乗せて意気揚々とデンバーへ戻った。私は1人の兵士がインディアンの女の女性器を抜き取り、見せるためにそれを棒に張り付けていたと言っているのを聞いた。私はまた、兵士たちが女たちの女性器を切り出して鞍頭に張り付けたり、なかには帽子に張り付けたりする者もいたという数多くの事例を聞いた。」
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 1865年 リンカーンは、憲法改正して奴隷解放を明文化する為に、奴隷制度を持った五っの奴隷州5州選出民主党議員の説得に務めた。
 憲法改正に必要な3分の2以上の賛成票を獲得して、憲法修正13条を成立させた。
 だが。南部諸州選出議員らは、10年後に黒人と白人の行動を規制するジム・クロウ法を成立させた。
 南部では、白人至上主義者による黒人へのリンチ殺人事件が絶えず、地元警察は白人による黒人殺害事件を解決せず未開事件として処理した。
 人種差別法であるジム・クロウ法が廃止されたのは、1964年頃であった。
 4月3日 北軍ユリシーズ・グラントン将軍は、南部連合首都リッチモンドヴァージニア州)を占領した。
 4月9日 南軍のロバート・リー将軍は無条件降伏し、アメリカ連合国は消滅した。
 北軍主計総監モントゴメリー・ミージスは、南軍のロバート・リー将軍の広大な家屋敷を没収して墓地とした。現在のアーリントン国立墓地である。
 ミージス「反逆者リーの屋敷を墓地で埋め尽くしてやる」
 南部連合のデーヴィス大統領は、反逆者として捉えられ、戦犯として足枷をかけられ、奴隷のように鎖につながれ、名誉も誇りも踏みにじられて囚人室に投げ込まれた。
 北軍は、無条件降伏した南軍に対して容赦ない戦争処理を行い、他の州への今後の見せしめとした。
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 アメリ連邦政府は、無条件降伏で独立国家アメリカ連合国を消滅させた。
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 4月11日 リンカーンは、ホワイト・ハウスで勝利演説を行った。
 およそ4年間にわたった、国家を二分した南北戦争終結した。
 兵士の死者は両軍併せて約72万人(戦死20万人以上、病死50万人以上)で、負傷者の実数は解らないが数百万人に達するであろうといわれている。
 民間人の死傷者は、不明である。
 犠牲になったのは、奴隷の黒人ではなく、雇い主の白人であった。
 奴隷制度はなくなったが、人種差別によるリンチ殺人や強姦事件は絶える事はなった。
 奴隷制を維持する為にかかる軍隊の経費削減の為に、奴隷制は廃止された。同様に、反植民地主義者は、植民地に掛かる莫大な費用が国家財政を圧迫するとして廃止を主張した。植民地を廃止し奴隷を解放して一定の賃金を労働者に払った方が生産性が上がるとしたが、その賃金を各種の社会保障費や税金として搾取する手段を講じた。
 リンカーン「マネーは、法律の産物である。マネー発行の源泉は排他的に政府が独占し続けるべきだ」
 財務省は、民間の中央銀行に頼る事なく、憲法の権限を利用して、金利のない法定通貨紙幣を発行した。
 北軍は、民間銀行から高利で融資を受ける事なく、ヨーロッパのユダヤ系国際金融資本に縛られる事なく、政府紙幣で戦費を調達した。
 アメリカの戦死者。第一次世界大戦では12万人。第二次世界大戦では41万人。ベトナム戦争では6万人。
 ロンドンの国際金融資本家は、リンカーンの戦後復興計画や保護貿易政策に猛反対していた。
 南北戦争後、アメリカは急速に重工業化が進み、経済の発展により一部の財閥による独占体制が確立された。
 ニューヨーク・ウォール街の巨大金融資本は、各産業に多額の投資を行って支配を強化した。
 弱肉強食の市場政財理論を信奉する彼らは、更なる利益獲得の為にアジア・中国へと進出していった。
 ドイツ帝国の宰相ビスマルクは、「南北戦争は、欧州の金融権力によって誘発された」と話した。
 マクギア(カナダの弁護士、1934年)「奴隷を解放したアブラハム・リンカーン大統領は、その『国家信用』の大望を恐れた国際金融業者の利益を代表するグループの策略で暗殺された」
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 4月15日 リンカーン大統領は、暗殺された。
 スワード国務長官も襲撃され、重傷を負った。
 リンカーン「我が国の安全に対する危機が近い将来に迫っているのが見えて、私は狼狽し、震えている。いまや企業中心の世の中となってしまったが、やがては政府高官達の腐敗の時代がやって来るであろう。我が国の金融勢力は人々の偏見を助長しながら、富が少数の者の手に集中し、共和国が崩壊するまで、必死に支配の維持を図るからだろう」(暗殺される数週間前の文書)
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 12月15日 敗北した南軍の将校6名は、宗教的白人優先主義で秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)を結成し、奴隷の身分から解放されたアフリカ系アメリカ人=黒人に対し殺人や強姦などの犯罪活動を繰り返した。
 各地の人種差別団体が参加して組織が大きくなると、各支部は他支部を威圧する為に暴力行為を過激化させた。非白人への殺人や強姦を厭わない犯罪活動が社会問題化して、69年1月にKKKは解散した。組織の残党は、各都市に散ったが、偏狂的白人優先主義を強めてさらなる陰湿な犯罪的差別行動を拡大させた。警察当局は法律に従った憲法に従って取り締まったが、現場の警官に一部には非白人への差別意識から見て見ぬ振りをする者もいた。犯罪行為にあった非白人は、訴えても護られる事がない為に泣き寝入りした。それでも勇気を持やって告発を続ければ、自分もちろん家族の命さえ奪われら事があった。
 差別主義者は、先移住者の権利と財産を守る事と大義と掲げて、新たな移民を攻撃した。
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 1865年 KKK結成。
 南北戦争終結で安いアメリカ産綿花が国際市場に出始めるや、原綿価格は下がり、高価なエジプト綿花は敬遠され売れ行きが落ち込んだ。
 エジプト綿花の輸出でスエズ運河建設費を確保しいていた為に、輸出減少によって建設費は不足し、不足分を国費で賄う為に増税に踏み切った。
 低賃金の下層階級は、増税によって生活が苦しくなり政府とスエズ運河建設への不満が増大した。
 国民の不満をやわらげる為に増税を控え、国際金融資本からの借り入れに頼った。
 1866年 アメリカは、メキシコのフランス軍撤退を要求するも無視された。


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日本人なら知っておきたい神道

日本人なら知っておきたい神道

  • 作者:武光 誠
  • 発売日: 2003/06/21
  • メディア: 新書