🌄37』38』39』─1─沖縄復帰と繊維産業の壊滅。沖縄人民党の日本共産党合流。中国共産党は、日本を解体し天皇制度を廃絶すべく沖縄独立論を支持した。1969年~No.73No.74No.75No.76No.77No.78 @     

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 中国共産党の党是は、結党以来反日である。 孫子の謀略を実践する中国共産党は、微笑みを見せて誠意を持ってかたい握手を求めるその裏に、真逆な顔を隠している。
 反日と知日を、国家戦略として使い分けている。
 中国共産党は、紛れもなき反日である。
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 1969年 アメリカ情報機関は、沖縄返還にあたり「日米安全保障関係の見通し」と題した報告書を、国家安全保障会議(NSC)に提出した。
 ニクソンは、国家安全保障会議の議論をもとにして沖縄返還交渉を進めた。
 2017年2月17日号 週刊ポスト「日米首脳会談『屈辱の70年史』
 ……
 密約だらけの佐藤─ニクソン沖縄返還会談』(69年)
 日米繊維摩擦が激化した佐藤政権時代も現在と似ている。
 佐藤栄作首相は69年のニクソン大統領との首脳会談で沖縄返還で合意した。外交的には大きな成果だが、この〝取引〟は『糸と縄を交替した』とも評された。
 当時の日本の基幹産業は繊維産業であり、米国に『1ドル・ブラウス』と呼ばれる安い綿製品を大量に輸出していた。ニクソンは日本に輸出規制を要求。通商法発動による輸入禁止をちらつかされ、日本政府は米国への繊維輸出を大幅に規制、繊維産業は壊滅的打撃を受けた。
 それと引き替えに佐藤首相はニクソンから沖縄返還の合意を取り付けたのである。さらに沖縄返還にあたっては、日本政府が本来なら米軍が沖縄の地権者に払うべき基地の原状回復費用などまで負担するという日米密約が交わされていたことが後に判明した」
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 1970年
 2017年11月17日 産経ニュース「「中国の主張を完璧に覆す」尖閣領有を否定する台湾の公式文書 解釈の誤りを指摘
 1970年に発行された「台湾省通志」。「台海使槎録」の釣魚台を尖閣諸島とは別の島だと認定する記載があった(石井望・長崎純心大准教授提供。傍線は石井氏が記入)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)の領有権をめぐり、中国が主張の根拠としている歴史資料を否定する台湾の公式文書が存在することが17日、分かった。尖閣諸島を示す台湾名の「釣魚台」は尖閣とは別の島を指していた内容で、長崎純心大学の石井望准教授(漢文学)が同日、東京都内で開いた記者会見で発表した。
 石井氏によると、中国側の「尖閣諸島が歴史上、台湾に付属していた」という主張の根拠とする歴史資料は2つあるが、このうち1つはすでに誤りだと判明している。今回の資料は残りの1つで、台湾の文書が否定したことによって中国側は主張の根拠を完全に失うことになる。
 石井氏は今回、中国側がこれまで領有権を主張する根拠としていた歴史資料の1つで、清代の役人が記した台湾の地理書「台海使槎録(たいかいしさろく)」(1722年)の解釈の誤りを指摘した。
 同書には「山後(台湾東部)は大洋なり、北に山有り、釣魚台と名付けらる、大船十余を泊すべし」という記載がある。中国側はこの「釣魚台」が尖閣諸島を指すとしてこの記載を基に「歴史的に尖閣諸島は中国の領土」と主張してきた。
 だが、1970年に台湾政府が発行した公式の地理書「台湾省通志」は、台海使槎録に明記された「釣魚台」を台湾東南部の「台東県の島」と認定し、尖閣諸島ではないことが記されていたという。
 台湾省通志はすでに公開された文書だったが、石井氏が今年9月に尖閣諸島の歴史を研究する過程でこうした記載があることを発見した。
 石井氏は「中国の主張を完璧に覆し、国際法だけでなく、歴史的にも尖閣諸島は日本の領土だという日本側の主張を補強するものだ」としている。」
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 1971年 ジョンソン国務長官代理は、対日基本戦略における重要なメモをニクソン大統領に提出した。
 「在日米軍は日本本土を防衛する為に駐留しているわけではなく、韓国、台湾、及び東南アジアの戦略的防衛の為に駐留している」
 統合参謀本部は、フォード大統領に提出した最高機密文書に、「在日米軍及び基地は、日本の防衛に直接関与しない」と明記した。
 アメリカ軍の基本戦略には、同盟国日本を外国の攻撃から守るという選択肢は存在せず、そこにアメリカ人がいるから守るだけである。
 沖縄にアメリカ軍基地アメリカ人がいるから守るのであって、アメリカ軍基地アメリカ人がいなければ沖縄などを守る気はない。
 アメリカの本音は、自国防衛の戦争を放棄している日本を守る為にアメリカ人青年を犠牲にする気はないという事である。
 世界常識では、国益とは、その国が自力で守るものであって他国に守って貰うべきものではない。
 アメリカが自国の国益を、日本より優先するのは当然の事である。
 1972年 沖縄本土返還時、沖縄の基地負担は全国の1割であった。
 アメリカは、本土での反基地市民運動の盛り上がりで駐留継続は不可能と判断して、基地の規模縮小と駐留軍の撤収を検討した。
 日本政府は、憲法で国防力保持が禁止されてうる為に、在日米軍駐留継続を要望した。
 アメリカは、本土に駐留していたアメリカ軍の一部を沖縄に配置転換した。 
 この為に、沖縄に於ける米軍基地が全国の5割となり、何時しか7割に急増した。
 沖縄は、本土の自分が良ければそれでいいという身勝手によって、アメリカ軍基地を押し付けられた。
 アメリカは、沖縄のアメリカ軍基地縮小と在日米軍撤収を検討するが、その都度、日本政府の反対で実現しなかった。
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 1971年 中国共産党政府は、核ミサイル開発の為に人工衛星の打ち上げに成功し、核保有国となった。
 中国共産党は、東アジア戦略として、
 1,軍拡、核武装
 2,外交、日中国交回復。
 3,謀略、日米安保破棄
 を目標と掲げて同時進行させていた。
 6月17日 日米両政府は、沖縄返還協定に調印した。
 佐藤首相は、沖縄返還は県内の米軍基地を存続さなければ不可能と判断して、日米安保に基づいて密約を交わした。
 沖縄では。中国共産党の息のかかった諸団体が、米軍基地が残る事に対する不満からデモやストライキを各地で行った。
 沖縄返還運動は、沖縄県民の総意ではなかった。
 中国共産党は、日米安保を存続させたままの沖縄返還は、中国の安全を脅かすとして何としても阻止する必要があった。
 9月30日 反体制派教員達は、沖縄教職員会完全に掌握して名称を沖縄県職員組合(沖教組)に変え、教育向上活動ではなく政治運動に力を入れた。
 毎年6月23日を反戦平和教育の日として、子供に日本本土への憎しみと本土人への不信を抱くように、日本軍の残虐行為や昭和天皇戦争犯罪・戦争責任の特別授業を行った。
 反体制派教職員達は、意図的に、沖縄人と本土人の感情的対立を煽り、沖縄と本土の民族的絆を断ち切る教育を行っていた。 
 日本共産党日本教職員組合は、沖縄の反天皇反日反米教育を理想的教育として全面的に支援した。
 10月25日 中国共産党政府は、核兵器保有した事で国連常任保障国入りし、台湾・中華民国を国家と認めないとして国連から追放した。
 10月31日 沖縄の保守派や右翼・右派は、左翼・左派の沖縄返還阻止デモが拡大しては沖縄が分裂し、永久に日本返還と日本人復帰ができなるとの危機感から「沖縄返還協定批准貫徹県民大会実行委員会」を立ち上げ、与儀公園で大会を開いた。
 沖縄は、日米安保を容認する保守派・右翼・右派と日米安保破棄を求める革新派・左翼・左派に分裂した。
 11月3日 保守派の県民大会実行委員会は、代表団(8名)を東京に送り、政府・自民党・国会に対して「沖縄県民の本心は全員が復帰を望んでいる」と訴え、早期批准を要請した。
 国会内には、日米安保に基づいた米軍基地がある状態での沖縄復帰に反対する革新派が存在していた。
 11月24日 衆議院本会議は、アメリカ軍の沖縄基地機能を維持したままの沖縄県返還協定の批准を可決した。
 12月22日 参議院は、沖縄県返還協定を可決した。
 中国共産党の、沖縄の米軍基地を撤去させ日米安保破棄に追い込むとい謀略が失敗した。
 12月30日 毛沢東は対日戦略を変更して、これまで日本領として認めていた尖閣諸島の領有を主張して日本に揺さぶりを掛けた。
 中国共産党は、尖閣諸島はもちろん沖縄自体を領有知る為に、沖縄内の親中国派を増やし彼らに、沖縄県内のアメリカ軍基地撤去及びアメリカ軍全面撤退、日米安保反対、そして琉球独立運動を示唆した。
 日本国内の、平和憲法護憲派や第九条擁護派などによる日米安保条約廃棄活動やアメリカ依存解消運動は根強く、一定数の国民から支持を得ている。
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 1972年 ニクソンは、沖縄のアメリカ軍基地は確保したいが、財政難から基地の維持費と日本人労働者の人件費を日本に肩代わりさせるべく、沖縄の施政権を日本に返す事を決断した。
 日本は、基地の維持費と人件費を肩代わりする条件で、念願の沖縄返還を実現した。
 佐藤栄作首相は、奄美大島の苦い経験を教訓として、沖縄の人口減少を食い止める仕事創出の地域復興策の検討を急がせた。
 奄美大島は、1953年に本土復帰がなされるや、若者達が仕事を求めて本土に移住した為に、15年間で島民の4割が消えた。
 沖縄県人口は、戦前で約59万人で、復帰前には約96万人に増加していたが、本土復帰後に地域復興策を行わないと若者が本土に転出して人口は約50万人に激減するとされた。
 沖縄は農業と漁業の限られた第一次産業しかなく、都会生活を焦がれる若者を引き留める魅力ある産業がなかった。
 沖縄経済を本土並みに維持するには、雇用確保の為にアメリカ軍基地を利用するしかなかった。
 沖縄にアメリカ軍基地が集中的に残されたのは、この為であった。
 それと、本土がアメリカ軍基地を減らしたいが為に沖縄に貧乏くじを引くように強要した事も確かである。
 そこに。本土の日本人が沖縄の琉球人を、一段下の文化度の低い人間という差別する意識があったのも事実であった。
 戦後教育を受けた本土の日本人は、沖縄戦で辛酸をなめた琉球人への感謝も同情もそれほど持ってはいなかった。
 1月 中国共産党は、日米安保体制を崩すべく、沖縄を反米に取り組む為に積極的な行動に出始めた。
 1月12日 沖縄県中国友好訪問団(団長・仲吉良新以下9名)は、中日友好協会の招きで中国を訪れて2月1日に帰国した。
 仲吉良新は、中国共産党の指示を受けていた沖縄県官公庁労働組合の委員長や協議長を務めていた。
 沖縄の左翼・左派・革新勢力は、中国共産党の指揮命令系統に組み込まれていた。
 1月21日 沖縄県中国友好訪問団は、日本から来ていた社会党1年生議員訪中団と総評・中立労連代表団と共に、周恩来首相に会見した。
 周恩来は、日本人民の北方領土返還要求と沖縄返還運動を支持する事を表明した。
 1月22日 沖教組副委員長の福地曠昭(ひろあき)は、日中友好協会に招かれて北京を訪れて、中国共産党周恩来らと会談し、帰国後に原水爆禁止沖縄県協議会理事長に就任した。
 沖縄県中国友好訪問団は、中国共産党の「沖縄の反米・本土復帰闘争」報告会に出席した。
 2月 毛沢東は、電撃に訪中したニクソン大統領と首脳会談を行った。
 アメリカは、直ぐには国交回復を行わなかったが、対ソ戦略から中国共産党政府との関係改善路線を明らかにした。
 5月15日 沖縄復帰。日本武道館。政府主催の沖縄復帰記念式典。
 昭和天皇「この機会に、先の戦争中及び戦後を通じ、沖縄県民の受けた大きな犠牲を悼み、長い間の労苦を心から労うと共に、今後全国民がさらに協力して、平和で豊かな沖縄県の建設と発展の為に力を尽くすよう切に希望します」
 昭和天皇は、憲法の制約として天皇の戦争責任に関する政府見解がある限り、それを超えて自由に発言する事ができないもどかしさに不満であった。
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 アメリカは、沖縄を返還するにあたりアメリカ軍基地の存続などの問題が残るものの、施政権を返還したが軍政(アメリカ軍基地)は返還しなかった。
 その見返りとして、日本の経済発展を許した。
 日本は、沖縄にアメリカ軍基地を置く事で経済成長を始めた。
 アメリカ政府は、日本企業が自己努力でアメリカ市場に進出しアメリカ企業を圧迫し始めるや、自国産業を守る為に日本に圧力を加えた。
 日本政府は、アメリカの外圧に屈して、日本産業を抑圧する規制を受け容れた。
 日本企業は、不利な規制を押しつけられる中で、経営戦略を練って「改善」という新しいモデルを作り、技術革新で売れる新商品を研究・開発して輸出し、メイド・イン・ジャパンを唯一の武器としてアメリカ市場で踏ん張り世界第二位の経済大国となった。
 アメリカ軍は、日米地位協定によって、尖閣諸島を日本領土と認めて射爆場として使用していた。
 9月29日 日中国交回復。日中共同声明
 日中共同声明。第2項「日本国政府は、この中華人民共和国国家の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」
 中国共産党の真意は、日中共同声明ポツダム宣言に基づくものでサンフランシスコ講和条約とは関係ない、両国の講和条約である事を確認させる事であった。
 サンフランシスコ講和条約で定められた日本領土を無力化させ、ポツダム宣言及びカイロ宣言が指定した日本領土を公式化する事であった。
 つまり。中国領土は日清戦戦争以前の清国版図であり、日本領土は明治開国以前まで遡って認めさせようとした、のである。
 中国共産党の東アジア戦略の内、1,核武装という「軍拡」と2,日中国交回復という「外交」は達成したが、日本を無力化する日米安保破棄という第3目標の「謀略」は未だ達成できていなかった。
 中国共産党は、日米安保破棄を後回しにして、日本国内に親中国派と反米派を増やす事と日本経済を利用して国力(経済力と軍事力)を強化する事を新たな目標とした。
 2000年代に入って新たな東アジア戦略として、
 1,軍拡、宇宙軍の創設、海軍の増強、サイバー軍の強化。
 2,外交、中国基準を国際基準にする為に、戦後国際秩序であるヤルタ・ポツダム体制の破棄とサンフランシスコ講和条約の無効。
 3,謀略、日本無力化の為の日米安保破棄、沖縄支配の為の琉球独立支援、台湾併合の為に対米関係に楔を打ち込み。
 全ての鍵を握っているのは、日米安保であり、日本の沖縄米軍基地問題であった。
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 1937年当時の人口は59万7,902人で、県民平均寿命は47歳であったのが、復帰の際の人口は96万1,348人に増え、平均寿命も79歳と日本国民平均よりも長寿であった。
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 1973年11月14日 沖縄人民党は、日本共産党に合流し、反天皇アメリカ基地運動を指導した。
 北朝鮮は、密かに工作員を沖縄に送り込み日本側支援者と連絡を取っていた。
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 1981年 中国共産党は、建国以来の党の歴史問題に関する決議、世にいう歴史決議を行った。
 毛沢東は晩年に経済大躍進や文化大革命など誤った政策を実行したと厳しく批判したが、人民による中国革命を成功させたという歴史的功績を高く評価した。
 成功という結果をもたらす為の手段は、それが如何なる手段であり、如何に人民が被害を蒙ろうとも罪に問うことはできない。
 「毛沢東が指導者として行った中国革命における功績は、失政による過ちを遙かに凌ぐ」、として毛沢東批判の正当性を否定した。
 毛沢東同士は、偉大なる建国の父であり、その地位は絶対不可侵として冒される事はない。
 ただし、今後、毛沢東の行った過ちを繰り返さない為に、個人に権力を集中させて失政を起こさない為に、公的な制度上での個人崇拝を禁じた。
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 1989年 アメリカ国防総省は、近未来の防衛計画として『ペンタゴン・ペーパー2025』を作成した。
 防衛線を後方に引く戦略の選択肢として、2015年には韓国から、2025年には日本から、駐留米軍を撤退させるを示した。
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 1992年2月 中国共産党政府は、領海法(海洋及び接続水域法)を制定し、第二条で「台湾及び尖閣諸島を含む付属各島を中華人民共和国の陸地領土である」と明記した。
 日本政府は、尖閣諸島問題の棚上げ論からハイレベルで抗議した。
 中国共産党政府は、棚上げ論を無視して尖閣諸島の領有を譲らなかった。
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 1993年7月 東京サミット。
 宮沢喜一クリントン会談。
 アメリカは、日本に「年次改革要望書」を突きつけ、日本の経済主権を奪い、大店法廃止と郵政民営化など毎年の改革を要求した。
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 1995年 村山富市クリントン会談。
 日本国首相・村山富市の政治能力の低さが目立ち、アメリカはそれ相応の対応をして適当にあしらった。
 国際社会における日本の立場は低下し、日本の政治家の劣化がハッキリした。
 日本の左翼・革新は観念的発言をしても、現実に即して行動できない無能者である事が証明された。
 古森義久「30年近く米国取材をしてきたが、村山首相への対応は酷かった。首相はブレアハウスに泊まったものの、閣僚など要人で会ってくれる人はほとんどおらず、行く所もなかった」
 米兵による沖縄少女暴行事件。
 沖縄知事の側近の数人が、平壌に出入りしていたと言う目撃談があったが、北朝鮮で誰と会っていたかは不明とされている。
 反天皇反日反基地市民運動には、中国共産党の息が掛かった本土の運動家が多数参加していた。
 中国共産党と中国軍は、多数の工作員を沖縄に送り込んでいると噂されていた。
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 1997年2月 沖縄出身の社民党議員・上原康助は、沖縄独立について大森政輔内閣法務局長に問いただした。
 上原「私は相当思い詰めている。本当に琉球王国を作ろうと思っている。大田昌秀沖縄県知事を新琉球国王にして。……もし沖縄が独立する場合、どういう法的手続きが必要か
 大森「現行憲法は規定を設けておらず、想定もしていない」
 反天皇反日的日本人は、橋本公亘の『憲法原理』を参考にして沖縄の独立を夢見ていた。
 『憲法原理』「日本国憲法にも、自然法思想による基本的人権を本質的構成部分(前文第1段第11、12,97条)とする以上、『抵抗権』は超国家的基本的人権として憲法に内在するものと考えられる」
 盲目的西洋礼賛の反天皇反日的日本人は、西洋に自然法として普通に存在する、国家権力の不法な行為に対する民衆の「抵抗権」や法秩序の基礎を根底から変革する「革命権」を日本にも導入し、沖縄を日本から分離独立させる事を希望していた。
 5月 沖縄反基地地主照屋秀伝は、北朝鮮を訪れている事が判明して大問題となった。
 10月 昭和天皇は、来日した中国の訒小平副首相に、過去に中国に迷惑をかけた事を謝罪した。
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 1978年 1987年10月24日 明仁皇太子は、沖縄平和祈念堂で県民代表に対して、昭和天皇の「お言葉」を代読した。
 「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含む数多の尊い犠牲者を出した事に加え、戦後も永らく多大の苦労を余儀なくされてきた事を思う時、悲しみと痛みを覚えます。
 ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍に斃れた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に余力した人々の労苦を心から労いたいと思います。……思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなった事は、誠に残念でなりません。
 健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したいと思います」
 昭和天皇は、天皇として戦争責任を自覚し、自分が背負っている責任から逃げ出さず向き合い、それを果たす為に沖縄訪問を切に希望していた。
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 1993年4月23日 沖縄祈念堂。今上天皇陛下「先の戦争では実に多くの命が失われました。中でも沖縄県が戦場となり、住民を巻き込んで地上戦が行われ、20万の人々が犠牲となった事に対し、言葉に尽くせぬものを感じます。ここに深く哀悼の意を表したいと思います。
 戦後も沖縄の人々の歩んだ道は、厳しいものがあっったと察せられます。そのような中で、それぞれが痛みを持ちつつ、郷土の復興に立ち上がり、今日の沖縄を築いた事に対し深く労いたいと思います。
 今、世界は平和を望みつつも、いまだに戦争を過去のものとするに至っておりません。平和を保っていく為には、一人ひとりの平和への希求と、その為に努力を払っていく事を日々積み重ねて行く事が必要と思われます。
 沖縄県民を含む国民と共に、戦争の為に亡くなった多くの人々の死を無にする事なく、常に自国と世界の歴史を振り返り、平和を祈願して続けていきたいものと思います」
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 2003年 中国は、無人海洋島の保護と利用に関する管理規程を制定し、国際法より国内法を優先する姿勢を強めていた。
 中国軍は、東シナ海を支配し、太平洋に出る為に尖閣諸島と沖縄を軍事的支配下に置こうとしている。
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 2007年3月 沖縄の歴史教育では、沖縄戦当時、日本軍が住民に集団自決を強要したと教えている。
 教科書検定審議会は、「住民集団自決は日本軍の強制(命令)による」と言う文言を削除した。
 9月29日 沖縄の教職員やPTA関係者は、「軍による強制」という記述を復活させる為に、宜野湾海浜公園で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」を開催した。
 自民党沖縄振興委員長の山崎拓は、沖縄の要望を受けて、渡海紀三朗文部科学大臣検定審に対する検定意見撤回を指示した。
 12月26日 教科書検定審議会は、日本政府と自民党の圧力に屈して「強制」を「関与」にすり替えて訂正申請とした。
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沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 上(集英社文庫)

沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 上(集英社文庫)