🗽7」─4─アメリカ建国者は先住民の『イロコイ』から連邦制を学んだ。~No.25 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 自然破壊や貧富の格差などの諸悪の根源は、第一次産業革命であった。
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 子供や孫の事を考える大人は少数派で、考えない大人が多数派である。
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 2019年10月号 中央公論「『未来』の社会を創造する
 将来世代を取り込む制度設計
 フューチャー・デザインとは何か?
 西條辰義
 いま日本は、そして世界は、気候変動の激化や、生物多様性の崩壊、政府債務の膨張など、解決に非常に長い時間がかかる問題に直面している。例えば、気候変動においては昨年10月、国連『気候変動に関する政府間パネル(IPOO)』より、人間と自然生態系が持続可能であるためには、産業革命前の水準から1.5度以内の気候上昇に抑えなければならず、そのためには2050年頃までに二酸化炭素の排出量をゼロにする必要がある、とのレポートが提出された。もはや猶予はなく、最後通牒といえる内容である。
 環境問題も深刻だが、転じて日本の財政赤字も深刻である。国債と地方債の総額残高は約1,100兆円で、日本の国内総生産の2年分を超えている。当然ながら財政赤字は将来世代へとつけ回されるもので、その解決もまた大変な課題だ。
 私たちが、現世代のみならず将来世代にまで影響を及ぼす、長期にわたる問題を解決しがたいのは、『民主制』や『市場』という仕組みを採用しているからである。これは、将来世代の利害を取り込むことのできる仕組みではない。それでは、持続可能な社会と自然を将来世代に残すには、どのような社会の仕組みをデザインしたらよいのだろうか。民主制や市場を縛り、将来世代を取り込む仕組みのデザインとその実践を目指して誕生したのが『フューチャー・デザイン』である。
 長期課題に取り組めない4つの特性
 フューチャー・デザインは、2012年以来、いくつかの大学で研究が進み、いくつかの地方自治体では取り組みが始まっている。その具体例を紹介する前に、まず、なぜヒトは長期的な課題を解決しがたいのか検討したい。
 神経科学者のロバート・サポルスキーによると、ヒトには特性があるという。1つ目は〈相対性〉で、我々の五感は絶対量ではなく、その変化に反応する。例えば急に暗くなったり、大きな音がしたりすると、ヒトは強く反応する。これは自己の生存可能性を高めるための特性で、そこには変化のないところ(評価関数の最大点)を求める、最適性の原理がある。2つ目が〈近視性〉だ。ヒトは、目の前の美味しいものを我慢して食べずにいることは難しい。つまり衝動性があり、これを拡大解釈したものが近視性だ。一方で、ヒトは複数の人々が連携を取り、他の動物をも制覇する〈社会性〉も併せ持つ。これが3つ目の特性だ。
 私はこれに、同じ神経科学者のターリ・シャーロットが挙げる〈楽観性〉を加えたい。シャーロットによると、どうも我々は、過去の嫌なことを忘れ、今の快楽を追い求め、将来を楽観的に考えるように進化した可能性があるのだ。
 これらヒトの4つの特性を色濃く反映した社会の制度が、先に挙げた民主制と市場である。民主制は〈現在生きている人々の利益を実現する仕組み〉であり、〈将来世代を取り込む仕組み〉ではない。想像していただきたいのだが、市長選挙に、自然環境のために化石燃料を使った移動を禁止するという公約を掲げ出馬したなら、当選はおぼつかないだろう。一方の市場も〈人々の目の前の欲望を実現する優秀な仕組み〉ではあるものの、〈将来世代を考慮に入れて資産配分をする仕組み〉ではない。残念ながら、将来世代は現在の市場でその意思を表明することができないのである。
 経済史学者のロバート・C・アレンによると、ヨーロッパでは14世紀半ばの黒死病で人口が激減したために、イギリスでは賃金が高騰した。同時に都市化が進展し、木材価格が上昇した。そこでエネルギー源として求められたのが、たまたま手近で豊富にあった石炭だったのである。そして、炭鉱でたまる水を汲み上げるために、高価な労働者に代わって揚水ポンプを動かしたのが蒸気機関である。まさに有機エネルギーから化石エネルギーへの転換が起こり、『産業革命』を経て様々なイノベーションを経験してきたのである。
 これらのイノベーションは、ヒトの相対性、近視性、楽観性を強化し、フィードバックを引き起こす。これがさらに少しでも利便なもの、楽になるものへという、イノベーションの欲求につながる。加えて民主制や市場は、さらなる効率化や、グローバル化を促す。このフィードバックの連鎖が、ますますヒトの相対性、近視性、楽観性を強化し、際限のない成長を目指す社会を形作っていくのだ。一方で、この連鎖によって、先述のような様々な失敗を引き起こしてきたといってよい。
 ……
 意思決定は7世代後を考える。
 フィーチャー・デザイン研究の出発は『イロコイ』である。北米先住民は、5ないし6部族による連邦を組み、この連邦国家の総称をイロコイといった。そして彼らは、重要な意思決定をする際に、自己を7世代後に置き換えて考えたという。想像するに、平和を維持するために遠い将来に視点を移し、そこから今を考えるのであろう。アメリカ建国者たちは、イロコイから連邦制を学び、それを13の植民地の結束に用いた。建国200周年の際には、上院と下院でイロコイの貢献に感謝するという共同議文を発してもいる。ただし、アメリカの憲法に連邦制は残ったものの、『7世代後』の考え方は残らなかったようである。
 イロコイの憲法に相当する『偉大な結束法』の28条には、『すべての人々、つまり、現世代ばかりでなくまだ生まれていない将来世代を含む世代を念頭におき、彼らの幸福を熟慮せよ』と記されている。つまり、イロコイ連邦における社会の仕組みの根幹である憲法で、将来世代の幸福を熟慮するという制度(社会装置)をデザインしていたのである。一方で現在、多くの国々の憲法には、『将来』『世代』『未来』という語句そのものがない。すなわち、今の世代は、イロコイの憲法28条に相当する社会装置をデザインしていないのだ。そこで、フューチャー・デザインは、民主制や市場のもとで眠っていた将来可能性を目覚めさせる社会装置をデザインし、実践することを目指しているのである」
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 人類文明とは、強奪文明である。
 生活を向上し豊かさをもたらし富を築く為には、何かを犠牲にし、何かを捨て、何かを破壊する事によって得られた。
 人間の尽きる事のない満たされない欲望が、人類の進化・進歩、社会の革新、経済の発展を促す。
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 現代日本の大人達は、自分の事を考え子や孫の事など考えてはいない。
 今の自分一人の豊かな生活資金と安心できる老後資金を確保する為に、多額の負債を子供や孫に押し付けても罪悪感を持っていないどころか、自分の権利だと確信している。
 環境破壊も同様である。
 30年後40年後には死んでいるであろう現代の大人にとって、財政赤字も自然破壊による地球温暖化と気候変動は関心が薄い。
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 昔の日本・日本民族日本人は、全てにおいて次世代の事を考えて行動していた。
 その代表が、植林事業であった。
 共存共生の生き方の起源は、縄文時代に遡る。
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💥12」─3─移民が増えるイギリスが日本の未来像。2019年。~No.47No.48No.49 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 人間は人間として等しくはない。
 人間は、人種・民族・部族、文明・文化・宗教という人為的属性という足枷から逃れる事はできない。
 現代日本のリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者、教養人、人権派、人道派、差別反対派らは、その人類史的事実が理解できない。
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 2019年10月6日号 サンデー毎日「幸せな老後への一歩  荻原博子
 『離脱』で揺れるイギリス。
 フランスでは黒人の『椿姫』!
 夏休みを兼ねて、EU離脱前のイギリスに行ってきました。
 ロンドンについて一番驚いたのは、地下鉄の電車の中で、ニューヨークかと思うほどの無国籍状態だったこと。街ゆく人も国籍は様々の様子。EUに加盟してから、移民や難民が一気に増えたようです。EU加盟国には、難民・移民の分担受け入れ義務があるからです。
 現地に住むイギリス人は、『すでにロンドンでは、白人のイギリス人は過半数を割り、これが本当に私たちの国なのかと思う』と嘆いていました。オックスフォード大の研究者の予測でも『2060年にはイギリス全土で白人のイギリス人は少数派になる』とのこと。『紳士の国イギリス』の厳格な教育を受けた人にとって、地下鉄の中を走り回る子供や食べ物を散らかす外国人は耐え難い存在らしく、『ファイナンシャル・タイムズ』越しに『チッ!』と苦い視線を送る英国紳士を何人も目撃しました。
 移民に職を奪われるという危機感を持つ人もいるようで、『EUからの離脱は、経済的には大変だが、長い目で見たら必要』という声は、かなり大きいようです。
 すでに、国民投票で離脱は決まっていますが、問題は離脱方法。複数の調査会社が7月から8月にかけて行った世論調査の平均は、合意なき離脱に反対は44%、賛成は38%。ただ、某調査会社の『EUが離脱協定について交渉再開に応じない場合はどうするか』に対しては、合意なき離脱への支持が46%と多数でした。つまり、何としてもEUから離脱しないと、問題は解決されず、今の耐え難い状況が続くと思っている人が多い。
 イギリスでは、移民と難民は区別されています。難民には、人道的な観点から寛容な国で、できる限り助けたいという人が多い。
 ただ、難民を装って入国するケースも多く報道され、そうした不埒者(ふらちもの)まで助けることはないという意見が増えているようです。また、難民の中に、ロンドン地下鉄テロに関与した人物がいたことなども不安材料になっているようです。
 それでも、イギリスが16年に難民認定したのは1万3,554人。いっぽう、日本はたった28人。申請者の0.26%でした。
 日本は、世界からは『人道的立場からの難民保護にはほとんど無関心な国』と思われています。
 ところが日本政府は、難民には冷たいが、労働力として移民には積極的。もっとも安倍政権は『外国人労働者は移民ではない』と言い張っており、移民の定義さえしていません。世界中で移民問題が軋轢を生む中で、外国人が非常に少ない日本が、なんの準備もなしにこれから大量に受け入れてしまっていいのか。イギリスのように、国が形が変えられることにならないのだろうか。
 そんなことを考えながら、ロンドンからパリに寄り、たまたまオペラ座ガルニエ宮で『椿姫』を見てびっくり仰天。メールで恋をささやく現代的な『椿姫』役は、南アフリカズールー族の歌手、プリティ・イェシデ。ガルニエ宮というば、世界のオペラ界の頂点。その秋公演の初日を飾る『椿姫』を黒人女性が演じているのです。しかも、圧倒的な歌唱力で、会場は感動と興奮と鳴り止まぬ拍手の嵐。
 さすが、フランスは先進的・・・と、周囲を見回すと、観客のほとんどは、上流階級風な白人。ここでも、なんだか『人種』ということを考えさせられました。」
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 西洋諸国で問題となっている外国人移民とは、イスラム教徒の中東人・アフリカ人である。
 西洋諸国では、移民・難民反対の市民運動が広がり、社会問題となっている。
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 白人キリスト教価値観に基づくEU構想は失敗し、非白人イスラム教価値観の流入によって崩壊し始めている。
 人類の歴史において、同種内での多様性は繁栄をもたらすが、均衡を破る異種を加えた多様性は破滅をもたらす。
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 ヨーロッパ世界の原型は、古代ローマ帝国ではなく、フランク王国である。
 ドイツ・フランス・イタリアなどヨーロッパ大陸の諸国は、フランク王国の子孫である。
 イギリス・スペイン・北欧諸国・ロシア・バルカン諸国は、フランク王国とは関係ない。
 イギリスが、EUから離脱したがるのはこの為である。
 だが、大まかなゲルマン民族から見ればヨーロッパは一つであり、ロシアとバルカン諸国はやはり余所者である。
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 ドイツとフランスが、幾ら戦争を繰り返し憎み合い殺し合っても分かり合えたのは、フランクの血を分け合った同根という意識があったからである。
 日本で言えば、京・大阪の西日本と東京・江戸の東日本との関係といっていい。
 日本と中国・朝鮮が分かり合えないのは、この為だと言っても過言ではない。
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 日本人とは、日本列島・日本国に住む全ての人間の事をいうのであって、日本民族とは限らない。
 そもそも、日本民族日本人自体が多民族・多部族が乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
 将来、日本が外国由来日本人、日本国民日本人に代わった所でどうという事はない。
 日本民族日本人が、中南米インディオのように少数民族となって山岳僻地で生活しようとも構わない事である。
 何故なら、日本国は健在であり、日本人は存在するからである。
 日本民族日本人とは、消えゆく民族、死にゆく民族である。
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 日本で増える外国人移民とは、中国共産党反日教育を受けた中国人移民である。
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 日本では、政府が移民1,000万人計画を進めているが、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、人権派、差別反対派なども反対していない。
 仕事を奪われる可能性のある労働者だけが、移民に猛反対している。
 労働賃金を下げたい経営者は、外国人移民の受け入れに賛成している。
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 現代日本人は、他国に比べて国に対する愛着はない。
 それどころか、国を憎悪し、日本民族を嫌悪する日本人が少なからず存在する。
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 日本に必要なのは、能力のある人材であって無能な人間は要らない。
 能力のある人材とは、日本人でも外国人移民でもかまわない。
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☭14」13」─1─日露戦争は対日露清同盟密約とシベリア鉄道建設で避けられない戦争であった。~No.38No.39No.40No.41No.42No.43 ⑪ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の歴史とは、日本国・日本人が自分だけ助かり生き残る為に周辺の諸国諸地域とその住民を犠牲にした非情な歴史である。
 日本国・日本人には、世界に通用する正義がなければ、世界で認められる正論もなかった。
 日本国・日本人は、悪、邪悪な悪である。
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 日本民族日本人の戦争の仕方は、白兵戦・カミカゼ特攻・バンザイ突撃・玉砕など逃げ場を失って行う「肉を切らせて骨を断つ」や「窮鼠猫を噛む」的な一か八かの自棄(やけ)っぱちの命軽視的戦法である。
 それを、戦略戦術用語で言えば捨て身の「背水の陣」である。
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 日本人は、武士ではなく百姓の子孫である。
 日本人の本性は、弱者、臆病者・小心者、弱虫・怖がり、脆弱・貧弱、ひ弱・軟弱で、とにかく「逃げ出したい」の一心であった。
 それ故に、戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」という精神主義・根性主義が必要であった。
 日本人とは、死ぬまで、弱い者・部落民・障害者・病人に対して差別、意地悪、イジメ、嫌がらせ、虐待、偏見を繰り返し止められない、心穢れたえげつない陰険な人間である。
 日本人は、根っからの差別主義者である。
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 日本人は、賢くもないし、優れてもいないし、秀でてもいないし、特別な存在でもなく、有り触れたつまらない愚か者である。
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 2019年9月13日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編 第七話
 日露戦争への道。
 ロシア帝国の横暴と満州
 『ロシア討つべし』と戦争準備のための重税に耐えた日本国民
 要するに、大日本帝国ロシア帝国が戦争することになったのは、ニコライ2世が大津事件によって徹底的な日本嫌い、いや日本を憎悪する人間になってしまったことが大きな原因の一つである、ということなのである。
 もっとも、こうした見解に真っ向から異を唱える研究者もいる。ニコライ2世の日記を詳細に研究した保田孝一は、その著書の中で次のように述べている。

 この日記を見る限り、当のニコライは、大津事件の後でさえも、日本に対して決して悪い印象を持っていなかった。(中略)日露戦争の前にも、戦争中にも、戦後も、また日露関係が良いときも悪いときにも同じ調子である。加害者の津田三蔵を憎むとか、日本人を軽蔑するようなことは決して書いていないのだ。
(『最後のロシア皇帝 ニコライ2世の日記』保田孝一著 朝日新聞社刊)

 この見解が100パーセント正しければ、ウィッチらの『証言』は敗戦責任をニコライになすりつけるためのウソということになるのだが、この問題の最終結論はしばらく措(お)いておこう。
 日本が日清戦争で清国から獲得した遼東半島を返還せよとの強引な圧力、『三国干渉』の主導者はロシアであった。ところが一方で、ロシアは義和団事件の鎮圧を口実に大軍を派遣し清国の領土である満州を実質的な占領下に置いた。そればかりか、日本海に『露出』したとは言え、冬の間は氷結して使えなくなってしまうウラジオストクを得ただけでは不満であると、同じく清国領内の不凍港旅順および大連を租借(そしゃく)するという掟破りの手段に出た。そもそもロシアが三国干渉に踏み切ったのは『清国からむやみに領土を奪うべきではない』という大義名分に基づくものだったからだ。ところが、そういう口実で日本に遼東半島を返還させておきながら、その遼東半島の要衝の旅順・大連を租借という形で実質的に奪ったのである。これが『ロシア帝国の横暴』の中身である。
 そして、そのような横暴なロシアが満州や旅順だけで満足するはずがない。さらに南下して日本の『領分』である朝鮮半島にも手を出すに違いない、と当時の日本人は考えた。朝鮮半島が制圧されれば次は日本の番である。ロシアによる東京占領だってあり得ない話ではない。現にロシアは野望を貫くために『アムール川の流血』つまり清国人の大虐殺を実行した国ではないか。だから一刻も早くロシアを叩くべきだ、と考えたのが対露強硬派の元老山県有朋桂太郎といった面々であった。一方、戦争などしなくても『満韓交換』でロシアと平和共存できるではないか、というのが元老伊藤博文の主張だったが、伊藤を支持する者は政府部内にはほとんどいなかった。現在つまり戦後の日本は『平和国家』になったので山県のような『好戦的』な人間よりも、あくまで平和を求めた伊藤を高く評価する傾向があるが、これは偏見というものだろう。当時は隙あらば弱国を叩いて自国の領土を拡張しようという帝国主義の時代だった。横暴だったのはロシアばかりではない。イギリスはアヘン戦争そしてアロー戦争という理不尽な戦争で中国から香港を奪った。ドイツも自国人の宣教師が殺されたことを理由に軍隊を送って膠州(こうしゅう)湾を租借で奪い、フランスは広州(こうしゅう)湾を租借した。ドイツとフランスは三国干渉のメンバーである。ロシアと同じく日本には『清国の領土を返せ』と圧力をかけながら、自分たちはちゃっかりと清国の領土を奪っていたのだ。この時期、最初に清国に手を出したイギリスが『おとなしくしていた』のは、ボーア戦争南アフリカの領土を増やそうとしていたからである。国が大きくなれば当然軍事力も増し脅威となる。ロシアはそれをアジアで実行しようとしていた。それに対して戦うことはまさに自衛戦争でもあるのだ。この時期、欧米列強つまり『キリスト教徒白人連合』は有色人種を『劣等人種』として蔑視していたことも忘れてはならない。
 『一刻も早く』というのには理由があった。そもそもロシアの首都モスクワから見ればウラジオストクのある日本海に面した沿海州渤海に面し南シナ海にも出撃できる旅順・大連は東の果て『極東』である。ロシアは西にヨーロッパに、東はアジアにつながるという大国だが、やはり政治的経済的な中心は西のヨーロッパ側であった。軍隊も本軍は西側におり、東側は何かと手薄である。これを一挙に解決する手段があった。西のモスクワから東のウラジオストクまでをつなぐ鉄道を敷設することだ。シベリア鉄道である。
 この世界最大の長さ(約9,300キロメートル)の鉄道は、当初モスクワ~ウラジオストク間ではなく、ウラル山脈東側のチェリャビンスクからウラジオストクに至る約7,000キロメートルで、単線であった。しかし、ロシアから見ればこれまで陸路を延々と馬か徒歩で横断しなければならなかったのが、兵員でも軍需物資でもいくらでも運べる体制が整ってことになる。1891年にこの鉄道は建設が開始されたのだが、ウラジオストクで行われた起工式にロシア帝国を代表して臨席したのは皇太子、つまりのちの皇帝ニコライ2世その人であった。鉄道は反対側のチェリャビンスクからも工事が進められ、早くも20世紀初頭の1903年にはほぼ全線が開通した。『ほぼ』というのは途中に巨大なバイカル湖があり迂回するルートを建設するまで、とりあえず連絡船で湖を渡る形にしたからである。しかしこの建設も急ピッチで進み、日露開戦後にはなかったが1904年に会通した。
 露清の密約に気づかなかった日本
 一方で、ロシアは清国内を通過し旅順・大連とシベリア鉄道を結ぶ鉄道まで建設していた。東清鉄道である。

 日清戦争後、ロシアが中国東北地方に建設した鉄道。シベリア鉄道に接続する満州里(まんしゅうり)・綏芬河(すいふんか)間の本線と、ハルビン・大連間の支線からなる。満州事変後、日本に移譲、のちソ連に移管。1952年ソ連から中国に返還され、現在は長春(ちょうしゅん)鉄路という。東支鉄道。
 (『デジタル大辞泉小学館刊)

 この一部が、日本移管後は南満州鉄道(満鉄)になる。
 それにしても、なぜロシアは清国領土を通過する鉄道を建設することができたのか?じつは清国とロシアの間に秘密の条約があったのだ。露清密約(露清同盟密約)という。

 1896年6月3日、モスクワにおいて清国全権李鴻章とロシア外相ロバノフ・ロストフスキー、蔵相ウィッテとの間で調印された条約。(中略)その要点は、(1)日本がロシアの東アジア領、中国、朝鮮を侵略した場合、両国は相互に軍事的援助を行い、単独では講和しない、(2)清国はロシアがシベリア鉄道黒竜江吉林両省を横断して建設することに同意し、その敷設・経営権を露清銀行に与える、(3)条約の期限は15年間、でsる。(以下略)
 (『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者井上裕正)

 これも、義和団事件後の平和交渉と並んで『困った時の李鴻章』(『逆説の日本史 第24巻 明治躍進編』参照)の最後のご奉公と言うべきものだが、注目すべきはこの密約は完全に秘密として守られ、たとえば日露協商路線を推進していた伊藤博文などもまったく知らなかったということである。伊藤はウィッテらと会い日露協商交渉を進めているが、ロシアは最後までこの秘密を明かさなかった。実際には対日露清同盟が結成されていたわけで、腹の底で笑っていたかもしれないロシアに伊藤は操られていたというわけだ。
 政治家も含めた日本人全般は、この事態をどう見たか?もう一度言うが、この秘密はバレていなかった。すなわち、日本から見れば晋国は何の見返りも無いのにロシアに自国領土内に鉄道建設されている、どうしようもない弱い国ということになる。まさに『アムール川の流血や』を歌った寮歌の歌詞『満清既に力尽き』である。日清戦争後の清国は、かつて勝海舟が期待していたように欧米列強の侵略に立ち向かうよりも、むしろそれと結んで新しい敵である日本と対決する道を選んだのだが、たった一つ確かなことはもう清国(中国)はアジアの盟主ではない、ということだ。まさに『仰ぐは独り日東の 名も香んばしき秋津洲(あきつしま)』なのである。
 だからこそ、国民は大日本帝国の戦争準備に耐えた。具体的には重税ということだ。陸軍のみならず、とくに海軍は旅順を本拠地とするロシアの旅順艦隊に対抗できる大艦隊を建造する必要があった。のちに聯合(れんごう)艦隊と呼ばれるものだ。だが、ロシア帝国の規模は大日本帝国をはるかに上回る。艦隊も西側のアジアに展開する旅順艦隊だけで無く、東側のバルト海に展開し宿敵トルコをけん制するバルチック艦隊があり、要するに艦隊を『2セット』保持していた。日本はどんなに逆立ちしても『1セット』しか揃えられない。
 『早い話がロシアが日本に優ること、面積において50倍、人口において3倍、国家予算において10倍、常備軍において5倍という非常なる差があった』(『日露戦争史1』 半藤一利著 平凡社刊)のである。それでも日本はきわめて短期間に、『1セット』だけにしても軍備を整えた。そして特筆すべきことはこの間、民衆が重税への不満を訴えなかったということだ。明治初期のころは、地租改正など新しい国家財政のシステムに対し、重税は許さんと庶民が一揆を起こしたではないか。そういうことが日露戦争の直前のこの時期には、まるで無かったのである。
 三国干渉以降の日本には、国民の流行語があった。スローガンといってもいい。『臥薪嘗胆』である。由来の故事はご存じだろう。耐えに耐えて仇敵に報復するということだ。文化史のところで述べたが、ある意味では『臥薪嘗胆』の日本的ドラマ化と言うべき講談『(赤穂)義士銘々伝』を桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が、弟子の牛右衛門(宮崎滔天)や後援者のジャーナリスト福本日南らの協力を得て完成させたのは、日露戦争開戦直後の1903年(明治36)のことである。教育も文化娯楽も報道も『ロシアの不正義を討つべし』という方向性でまとまりつつあったのだ。豊臣秀吉の『唐入り』のところでも述べたが、そうした国民意識の統一が無ければ戦争など実行は不可能なのである。
 露清密約をまるで知らなかったにしろ、伊藤があくまで戦争に反対だったのは、『もし負けたらどうなるのだ』という不安が頭を去らなかったからだろう。思い出していただきたい。伊藤はあの幕末の長州藩が、英米仏蘭の四か国連合艦隊に武器の近代化もせず挑みかかった攘夷に凝り固まった武士たちが、いかに惨憺たる敗北を喫したか、その目で見ているのである。確かにロシア帝国は横暴で不正義だ。だが、相手が悪だからといって『正義は必ず勝つ』わけではない。現にイギリスは『不正義のきわみ』であるアヘン戦争に勝利しているではないか。幕末の混乱を通じて徹底的なリアリストになった伊藤には、まさに攘夷に凝り固まり『外国人は皆殺しにしろ』と叫んでいた長州の武士たちと、『ロシア討つべし』と熱狂している国民が重なって見えたのだろう。
 しかし、戦争経験者であり下関戦争の敗北も知っている伊藤の見方がすべて妥当だったからどうかと言えば、もうおわかりのようにそうとは言えない。『ロシアの野望は際限が無い。シベリア鉄道が完全にモスクワまでつながってしまえば、もう日本は絶対にロシアに勝てなくなる』。ならば『清水の舞台から飛び降りるつもりで戦うしかない』。これもお気づきだろうか。じつは1941年(昭和16)、アメリカ、イギリスを中心とする、四か国どころではない連合国との開戦に踏み切った、当時の軍部と同じ思考パターンである。ではまったく同じなのかと言えば、決してそうでは無い。そのことはおいおい明らかにしていくつもりだが、とにかくここで認識していただきたいのは、当時の日本人にとってロシア帝国とは、まさに『20世紀の東洋』にはびこる『怪雲』そのもので、これを打ち払うほかに『東洋平和』を達成する道は無いと、ほとんぼの日本人が考えていたという歴史的事実なのである」
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 ロシア・中国とアメリカの間に存在するのが日本である。
 左翼・左派・ネットサハ、反天皇反日的日本人、リベラル派・革新派そして一部の保守派、一部のメディア関係者は、アメリカに味方すると戦争に巻き込まれると訴えている。
 反戦平和市民団体などは、アメリカ軍・国連軍基地があると攻撃されるから日本から追い出せと訴えている。
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 日本国憲法前文 抜粋
 「……
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 
 ……」
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 歴史の事実として、正義は勝利しない、正論は支持されない。
 勝利し支持されるのは、強者だけである。
 勝利者こそが、正義であり、正論である。
 力のない所に、正義はないし正論もない。
 力のない者は、凶悪凶暴なテロリストとなって女子供でも容赦しない冷酷・無慈悲な虐殺を喜々として実行する。
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 日露戦争は、第ゼロ次世界戦争であり、西洋と日本との文明の戦争であり、キリスト教と非キリスト教との宗教の戦争でもり、西洋と日本との思想・主義主張の戦争でもり、最も重要なのが白人と非白人との人種戦争であった。
 白人キリスト教徒の優等人種と非白人非キリスト教徒の劣等人種との、宗教的白人至上主義による人類史的戦争であった。
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 日本民族日本人が怖れた外国からの侵略とは、ロシアとキリスト教であった。
 他国からの侵略という危機感から、日本中心の民族主義軍国主義が生まれた。
 世界や日本の一部は、日本国(天皇・政府・軍部)の好戦的行為は悪辣な戦争犯罪として100%否定している。
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 ロシア帝国が弱小国日本に負けた主なる要因は、上流階級と下層階級との貧富の格差による社会の分断の広がり、労働者や農奴など貧困下層民がマルクス主義的人民革命に賛同し味方して国家を内部から崩壊させたからである。
 日本の強みは、貧富の格差が少ない一国丸ごとの「貧しさ」であった。
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 日清戦争日露戦争戦争犯罪として否定し平和を説く人権派日本人の言う事は、100%信用しない事であり、完全無視した方が身の為である。
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 ソ連スターリンは、日露戦争の復讐戦として、日ソ中立条約を破って日本を攻撃し、戦争犯罪である北方領土四島を軍事占領し不法占拠している。
 ロシア人共産主義者は、逃げ惑う十数万人の日本人逃避者(主に女性や子供)を大虐殺し、数百人数千人の日本人女性は強姦して惨殺した。
 共産主義マルクス主義)は、キリスト教よりも血に餓えた殺人鬼的思想・主義主張である。
 その実例が、中国共産党である。
 日本国内に、彼らに協力して日本を滅ぼそうとする反天皇反日的日本人が多数存在していた。
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 2019年9月18日 産経新聞「露が大規模軍事演習 中国も2年連続参加 米国牽制へ協調誇示
 【モスクワ=小野田雄一】ロシアの大規模定期軍事演習「ツェントル(中央)2019」が南部オレンブルク州などで行われている。16日から21日までの演習には中国軍が2年連続で参加。インドや旧ソ連構成国の中央アジア諸国も加わった。ロシアには中国との軍事連携の強化を誇示し、対立する米国を牽制(けんせい)する狙いがあるとみられる。
 ロシアには西部、南部、中央、東部の4つの軍管区があり、各軍管区が毎年持ち回りで演習を実施。極東やシベリア地域で昨年行われた演習「ボストーク(東部)2018」には中国軍が初参加した。
 イタル・タス通信によると、今年は12万人の将兵▽700両の戦車や装甲車▽600機の航空戦力▽カスピ海を管轄する海上戦力15隻-などが参加。中国は1600人の将兵や30機の航空戦力を派遣した。
 ショイグ露国防相は「演習は特定の第三国を想定したものではない」と説明。ただ、中露は7月に太平洋地域で初の戦略爆撃機による合同航空パトロールを実施するなど連携を強めており、露専門家からは「米国牽制のために中露の軍事協力が質的な新段階に入った」との指摘が出ている。」
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 日清戦争は余裕があったが、日露戦争は滅亡覚悟の悲壮観であった。
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 日本の周辺諸国は、全てが反日派敵日派で、親日派知日派は1カ国もいなかった。
 大陸国であるロシア・清国(中国)・朝鮮は、明治時代から海洋国日本に対する攻守同盟的軍事同盟的に結び付いていた。
 日本にとって、中国・ロシア・朝鮮は戦うべき敵であった。
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 日本の最終防衛線が朝鮮半島と国境を接する対馬であった。
 国家存続の戦略として、朝鮮が敵国に奪われる事は日本の滅亡を意味していたない為に、日本を朝鮮をめぐってロシアや中国との戦争を繰り返していた。
 それが、古代からの日本の歴史である。
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 何時の時代でも、日本国内には、反日的敵日的外国勢力に味方する反天皇反日的日本人が少なからず存在しいた。
 それが渡来人である。
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 歴史的な地政学から、日本民族日本人の敵国人である中国人・朝鮮人への侮蔑・蔑視、差別はなくなる事はない。
 その反対も同様である。
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 ロシアは、東洋の富の強奪競争に参加するべく、1700年後半から東方への領土拡大を始めた。
 ロシア軍艦は、松平定信時代に北方領土で海賊行為を行った。
 江戸幕府は、東北諸藩に北方領土防衛の派兵を命じ、「国土防衛の為には戦争も辞さず」として一触即発の緊張状態を作った。
 ロシア海軍は、日露軍事衝突に備えて千島アイヌ全員をカムチャツカ半島などに強制移住させて、千島列島を無人島にして千島アイヌを地上から消し去った。
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 ロシア海軍は、江戸幕府後期の混乱に付け込んで、日本海をロシアの内海「ロシア海」にするべく軍艦を対馬に派遣し兵士を不法上陸させ、江戸幕府に軍事力で対馬の租借を強要した。
 江戸幕府は、ロシアとの戦争を回避する為に話し合いによる平和解決を図ろうとした。
 長州藩は、弱腰の江戸幕府では日本国は滅び天皇家・皇室が守れないとして武力討幕を始めた。
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 徳川幕府と明治政府は、ロシアの侵略から日本天皇と神国日本を守るべく国民の生活を犠牲にしても軍国主義国を目指した。
 上は天皇から下は庶民・賤民・部落民、さらには琉球人・アイヌ人まで、日本国に住む全ての日本人が命を捨てても戦おうとしていた。
 その時、日本国内にいた朝鮮人や中国人達がどう動いたかは不明である。
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 徳川幕府内の、勝海舟など一部はロシアの侵略に対する日本・清国・朝鮮三国攻守同盟を目指していた。
 明治政府は、朝鮮を中国から独立させ、親日政権を樹立し近代軍事国家に育てようとした。
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 平和とは、次の戦争準備が整うまでの一休みである。
 戦争とは、平和の為ではなく勝利の為に行われる。
 戦争を決意している者にとって、戦争を避け平和を求める相手などは幼児の如く操る事が容易い。
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 東洋といっても、中国・朝鮮の中華、日本、インドは共通性の少ない別の東洋であった。
 同じアジア人といっても、日本人、中国人・朝鮮人、インド人は別種のアジア人である。
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 日本民族日本人は、悪意に満ちた愚民化平和教育で洗脳され続けている。
 その証拠が、明治38(1905)年9月に起きた日比谷焼打事件である。
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 明治初期の対外戦争に反対し平和を望んだのは、明治天皇伊藤博文らであった。
 歴代天皇は、外国との戦争に賛成した事はない。
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 現代日本の歴史教科書は、日露戦争は悪辣な大陸侵略の一つであったと教えている。
 高学歴出身知的エリートは、その歴史教育で高得点を取った秀才達である。
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 朝鮮は、日本とロシアの何れかを選ぶ時、迷う事なくロシアを選んで日本と敵対する。
 日本は、「朝鮮をロシアの領土もしくはロシアの植民地にしない為に戦った」とはバカげた話であり、日本人の傲慢でしかない。
 事大主義と夜郎自大意識の朝鮮は、大国支配からの独立を望んではいなかったか、日本のお節介は有り難迷惑であった。
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 朝鮮は、少数の親日派知日派反日派敵日派と多数派の無関心派に分裂していた。
 日本にとって朝鮮は、共に戦うどころか「いつなんどき」敵であるロシア軍に味方して攻撃してくるかわからない仮想敵国であった。
 事実、反日派敵日派朝鮮人は義兵として日本軍の後方で暗躍していた。
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 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 世界は、日本とロシアが戦えば、ロシアの大勝利で日本は大惨敗し、日本は清国やインドのように解体され植民地になる確信していた。
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 日本の味方は、日英同盟を結んだイギリス1カ国だけであった。
 同盟国イギリスは、情報提供やロシアの軍事行動に協力しないという消極的支援を行ったが、軍隊の派遣や軍事費の提供といった積極的支援はしなかった。
 フランスやドイツは、反日敵日としてロシアに協力したかったが、仮想敵国イギリスの為に積極的な支援行動ができなかった。
 アメリカは、ロシアの勝利を確信し、勝敗の行方を傍観していた。
 ロシア軍と戦うのは、あくまでも日本一国のみであった。
 キリスト教会は、白人のキリスト教国ロシアと非白人非キリスト教国日本と比べば、心情的に、ロシアが勝利し暗黒大陸アジアに絶対神の福音がもたら神の王国となる事を神に祈った。
 フランスなどのユダヤ系国際金融資本は、ロシアの大勝利を確信してロシアに多額の軍事資金を提供していた。
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 ソ連(ロシア)は、北方領土四島不法占拠している。
 韓国は、竹島を強奪し、対馬を狙ってい、日本海を東海に名称を変更しようと画策している。
 中国共産党は、尖閣諸島・沖縄・沖ノ鳥島・その他を狙っている。
 外国人移民(主に中国人移民)が、少子高齢化で人口激減する日本で増えている。
 中国共産党系中国軍系中国資本は、日本の国土や企業を爆買いしている。
 世界は、日本の味方をしない。
 ソ連(ロシア)、韓国・北朝鮮中国共産党の日本に対する国際法無視の横暴を黙認したのは、アメリカとユダヤ系国際資本である。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界中で売って金を稼いでいた。
 白人キリスト教徒商人にとって、日本人の命は金で買える「お安い消費物」であった。
 だが、日本人を奴隷として売ったのは同じ日本人である。
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 日本人の本性は、自分の金儲け・利益・売り上げの為ならば何でも平気で売る薄情・非情・冷血な人間である。
 自分の命を助け、自分が生き残るならば、平然と、他人を見捨て踏みつけ押しの排除し、そして殺し奪った。
 そんな日本人を真っ当な人間たらしめたのが、明治天皇の「五か条の御誓文」と「教育勅語」であった。
 現代の日本人は、明治天皇の御稜威・大御心を否定している。
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 日本が世界で信用され、日本人が世界で愛されている、それは真っ赤な嘘である。
 日本人は、素晴らしくもないし、賢くもないし、優れてもいない。
 むしろ、愚かでくだらないダメ人間である。
 それ故に、他人から褒められたい、認められたい、励まして貰いたい、煽てられたい、と没個性的に願っている。
 それは、歴史が証明している。
 が、その傾向は現代日本人に病的なほどに強い。
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🦎22」─1─中央アジアの一帯一路。アフガン。~No.70No.71No.72 ⑦

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 2019年9月18日 産経新聞「「一帯一路」決議案の文言めぐり安保理で米中対立 アフガン支援団
 国連アフガニスタン支援団の任期延長に関する国連安全保障理事会の会合で演説する、米国のクラフト国連大使=17日、米ニューヨークの国連本部(国連提供・共同)
 【ニューヨーク=上塚真由】国連安全保障理事会は17日、国連アフガニスタン支援団(UNAMA)の任期を来年9月17日まで延長する決議案を全会一致で採択した。決議をめぐっては中国が推進する巨大経済圏構想「一帯一路」の文言を盛り込むかどうかで米中が対立し、最終的には中国側が譲歩して「一帯一路」を省いた決議案で合意した。
 昨年までの任期延長の決議には、アフガンの貿易や交通を促進するため「一帯一路」のような取り組みを歓迎するとの表現が盛り込まれていたが、今年の決議では、地域協力の重要性に言及するにとどまった。
 中国によるインフラ投資は巨額債務が発生するとの批判が強まっており、米国や西側の欧州諸国が「一帯一路」を省いた決議案を要求し、中国が決議案に拒否権発動をちらつかせるなどして議論が紛糾していた。
 採択後の演説で、中国の張軍国連大使は「これまで合意していた文言を拒否する国がいるのは残念だ」と指摘。米国のクラフト国連大使は、「支援団の能力を向上できないのは、自国の政治的な優先事項を強調する理事国のせいだ」と中国を批判した。」
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🐀3」─2─香港騒動。警官が火炎瓶を投げつけか、デモ参加者を装って自作自演の疑い。~No.12No.13No.14 

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 中国共産党は、陰険で陰湿である。
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 2019年9月22日 産経新聞「警官が火炎瓶を投げつけか、デモ参加者を装って自作自演の疑い
 香港警官隊の前で燃え上がる火炎瓶=8月31日(AP)
 【香港=藤本欣也】香港政府に抗議する学生らのデモ隊と警官隊の衝突が激化する中で、デモの参加者を装った警官が火炎瓶を投げつけたのではないか、との疑惑が浮上している。
 中国当局に一段と強硬な措置をとらせる目的で、デモ隊が過激な暴力行為をしたとみせかける“自作自演説”だ。
 香港紙によると、8月31日の衝突の模様を撮影した一部メディアの写真に、警官隊に火炎瓶を投げる2人の男の写真があった。2人ともデモ隊の参加者同様、黒い服を着ていたが、腰に拳銃を差していたという。
 これに対し香港警察は「警官が使用する拳銃ではない」と反論し、警官が火炎瓶を投げたとの疑惑を否定している。
 ただ、香港警察は以前、デモ参加の仲間を装った警官が若者たちを拘束する決定的映像をメディアに撮られ、偽装の事実を認めたことがある。」
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🐉2」─1─辛亥革命の震源地は日本であった。~No.2No.3No.4 ① 

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 日本を国防戦略は、周辺諸国を侵略して領土拡大もしくは植民地拡大ではなく、周辺諸国親日政権を樹立してロシア・ソ連共産主義そしてキリスト教の侵略から天皇・母国、国民・民族を護る防波堤・砦にする事であった。
 中国・朝鮮は古代から日本を仮想敵国であったがゆえに、内政干渉しても親日政権を樹立させる事が急務であった。
 日本軍は、中国と朝鮮がロシア・ソ連共産主義に味方をして日本を攻撃してくるのなら、その意図を砕くために侵攻計画を練っていた。
   ・   ・   ・   
 中国の近代用語の7割が、日本国語で作られた和製漢字であった。
 中国語の口語文は、日本国語の影響で生まれた。
   ・   ・   ・   
 櫻井良樹辛亥革命は,その後,混迷を深めていく日本の中国政策の出発点となった.本書は,その出発点において,北京で外交処理にあたっていた外交官(伊集院彦吉),参謀本部で中国政策立案の責任者の位置にあった軍人(宇都宮太郎)などが革命をどう見たのか,混乱する中国に対して日本政府および陸軍はいかに対応しようとしたのか.中国に駐屯・派遣された列強軍,および日本のそれは,革命とどのように関係し,また前後の時期を通じてどのような国際協調をとっていたのかを描く.また革命が,大正期日本政治に与えた影響を,大正政変から第一次世界大戦期までを中心に見たものである.」
 『辛亥革命と日本政治の変動
辛亥革命に始まる政治的混乱は,大正期日本の政治変動とどのような相互関係にあったのか.』
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 辛亥革命を行った主要幹部の多くは日本留学生であった。
 右翼は、辛亥革命に協力した。
 革命派は、日本の協力を得て革命に成功するや知日派から敵日派となり、日本軍を撃退する為にアメリカやイギリスから資金援助を受けナチス・ドイツソ連から軍事支援を受けて軍隊の強化をおこない、無防備な日本人居留民(主に女性や子供)を虐殺した。
 最も邪悪だったのが中国共産党であった。
 日本軍は、対ソ戦略から、ファシスト中国(国民党)ではなく中国共産党に接近し密約を結んだ。
 日本軍は、ファシスト中国軍に味方するドイツ軍やソ連軍を撃破した。
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 中学校社会 歴史/辛亥革命
 辛亥革命中華民国の建国
 孫文(そんぶん)。(生1866~没1925) 
 1905年(日露戦争後)には東京で、のちの辛亥革命の母体になった中国同盟会(ちゅうごく どうめいかい)を結成した。1925年に死去。
 現在では、台湾および中華人民共和国で、国の父などと言われており尊敬されている。
 中国同盟会、前列右端が孫文。後列中央のヒゲの多い人物は宮崎滔天(みやざき とうてん)という日本人。1890年。
 日露戦争後の1911年に中国大陸で革命が起きて 中華民国(ちゅうかみんこく)が建国され、 孫文(そんぶん、スンウェン)という人物が中華民国の代表者に選ばれる。この一連の革命が 辛亥革命(しんがい かくめい)である。
 孫文は、政治の方針として、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」(みんせい)の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えた。
 解説
 革命前の状況
 日露戦争の以降、戦争に勝った日本から近代化の方法を見習おうと、清からは多くの留学生が日本にやってきた。清の政府も、戦後は、戦前までの方針をあらため、封建社会は維持しつつも、日本政府とも協力して近代化のための改革を進めることにした。
 日本国内では、言論の自由などが保障されていたので、清などの周辺国からは革命家などが日本へ亡命のために滞在した。日露戦争に日本が勝ってからは、より多くの外国人が日本に学びにきた。欧米に植民地にされている国からも、欧米を倒すために近代化の方法を学ぼうと、多くの者たちが日本に訪れた。
 これから紹介する孫文(そんぶん、スンウェン)も、政治運動などのため、日本に滞在していた時がある。
 当時の日本政府は、欧米との友好の政策方針のため、あまり日本国内での反欧米の革命家の滞在や活動を好まなかったが、民間人や一部の政治家などが、周辺国の革命家を支援した。
 そして、まだ孫文たちが革命を起こさないうちに、中国で革命が急に起きる。次の節で説明する。
 辛亥(しんがい)革命
 1911年、中国の四川省での鉄道の国有化および、その鉄道の外国への借款に対する反対の暴動が起き、この反乱に応じて、武昌(ぶしょう、ウーチャン)で軍隊が反乱を起こした(鉄道借款が国権を売り渡す行為と批判された。)。
 そして各地で反乱が起こり、清からの独立宣言が次々と起きた。 これが辛亥革命(しんがい かくめい)である。
 当時、中国人の革命運動家として有名であった孫文(そんぶん、スンウェン)は、この辛亥革命を起こしてない。革命当時、孫文アメリカに滞在しており、アメリカで革命の知らせを聞いた。孫文は、アメリカのほかにも、日本に滞在し中国での革命のための運動をしていた時期もある。中国大陸では、清国の王朝を倒そうとする革命運動は、当然、取り締まりを受けていたので、日本やアメリカで孫文は中国での革命のための運動を行っていたのであった。
 革命後、孫文は中国大陸に帰国した。
 そして、革命運動の代表者が決まっていなかったので、1912年に臨時政府の代表者として孫文が 臨時大総統(りんじ だいそうとう) として選ばれた。
孫文は、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」(みんせい)の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えていた。
 そして孫文たちは、中華民国(ちゅうか みんこく)の建国を宣言した。中華民国の首都は一時的に南京(ナンキン)に変わった。
 まだ、清の皇帝は生き残っている。清の宮殿なども、残っている。
 しかも孫文は、臨時の代表者にすぎない。
 実際に中華民国で権力をにぎったのは、かつて清国の政治家であり、軍を掌握していた袁世凱(えん せいがい、ユワン シーカイ)だった。孫文には軍隊を管理する能力がなく、孫文に大した実権はなかった。
 袁世凱は、清の皇帝を退位させ、そして袁世凱が最高権力者の大総統になった。皇帝が退位したことにより、清の王朝は終了した。
 そして中国の首都は南京(ナンキン)から北京(ペキン)にもどった。
 袁世凱は、独裁政治を始めた。
 結局、孫文は日本に亡命することになった。
 1915年に、袁世凱は病死した。袁世凱の死後、中国はまとまらず、各地に軍閥(ぐんばつ)が出てきた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 中国同盟会は、清末、1905年8月20日孫文らにより東京で結成された政治結社。略称は同盟会。孫文を中心に清朝打倒を目指す革命運動の指導的役割を担った団体である。
 成立
 1905年7月、黒竜会の指導者であった内田良平により孫文が東京に赴き中国同盟会の設立準備に着手した。8月20日頭山満が提供した赤坂区の民家の2階で興中会(孫文胡漢民汪兆銘など)、光復会(陶成章・章炳麟・蔡元培・秋瑾など)、華興会(黄興・宋教仁・陳天華)などが合併して中国革命同盟会(後に日本政府の干渉により中国同盟会と改称)が成立、孫文を総理、黄興を庶務に選出すると同時に『軍政府宣言』、『中国同盟会総章』及び『革命方略』などの文書を採択し、国内外に支部及び分会を設置、華僑、会党、新軍と連絡し全国規模の革命組織となった。
 辛亥革命
 同盟会は孫文が提唱する「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を綱領に採用、機関誌として『民報』を発行した。同盟会は孫文の唱える中華民国政府の元に立法・行政・司法を設置する三権分立を確立することを目標とし。編集長の陶成章と章炳麟のもと胡漢民汪兆銘が執筆した『民報』は帝政維持を主張する康有為・梁啓超により『新民叢報』と激しい論戦を繰り広げた。
 同盟会は1906年シンガポールに南洋支部を設立し、東南アジアでの活動を展開するなど運動の発展を見たが、1907年、孫文が会員の同意を得ることなく日本政府から資金を受けて日本を離れたことに反発して光復会が離脱、孫文汪兆銘胡漢民等と共に南洋本部を組織、黄興なども孫文への支持を継続している。
 同盟会は清朝打倒のための1906年より地方支部との協力のもと萍瀏醴起義(1906年12月:丙午萍瀏之役とも)、黄岡起義(1907年5月:丁未黄岡之役とも)、七女湖起義(6月:丁未恵州七女湖之役とも)、欽廉防城起義(9月:丁未防城之役とも)、鎮南関起義(12月:丁未鎮南関之役とも)、欽廉上思起義(1908年3月:戊申馬篤山之役とも)、雲南河口起義(4月:戊申河口之役とも)、広州新軍起義(1910年2月:庚戌広州新軍之役とも)、黄花崗起義(1911年4月27日:辛亥広州起義とも)の武装蜂起を行うがいずれも失敗している。特に黄花崗起義では多くの成員の犠牲者を出している。
 辛亥革命
 辛亥革命勃発後、同盟会の本部は東京より上海に移された。1912年に南京に臨時政府が成立すると閣僚9名のうち3名が同盟会成員から選出されたが、この時期には同盟会は三民主義や土地分配を巡り意見対立、更に章炳麟や黎元洪による共和党結党により分裂状態に陥っていた。
 1912年8月7日、同盟会は宋教仁を中心として、統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会と併合、北京において国民党(中国国民党とは別組織)が成立した。1913年に袁世凱が大統領に就任すると、この国民党は強制的に解散させられた。
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 孫 文(1866年11月12日(清同治5年10月初6日) - 1925年(民国十四年)3月12日)は、中華民国の国父・政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として、近年「国父」と呼ばれる。
 中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935年から1948年まで発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。中国国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。
 
 革命家へ
 日本へ亡命
 清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
 1900年、義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と結婚した。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。

 アメリカとヨーロッパへ
 のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した。 以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。
 1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。
 長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言ってきた。同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の蒋介石と出会う。

 中華民国建国
 1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文アメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。
 
 国民党と第二革命・第三革命
 1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得。 同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした。宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱アメリカの政治学者グッドナウによる強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。
 1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位する。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁は病死するが、段祺瑞が後継者になる。

 広東軍政府と護法運動
 詳細は「護法運動」を参照
 この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立する。しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明との路線対立により、広州を追われた。

 再び日本へ
 孫文は一時的に再び日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。
 この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年 - 1916年の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった。

 五・四運動の影響
 1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「抗日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。
 この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[8]。陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。 旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。
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宮崎 滔天(みやざき とうてん、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 大正11年(1922年)12月6日)は、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師。欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと[1]、大陸浪人として活躍した。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた。
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和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6月22日) - 1926年(大正15年)11月1日)は、明治・大正時代の自由民権活動家、アジア主義者。板垣退助の秘書。辛亥革命の支援者。
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🔯28」─3─古代ローマ。ウォルター・バジョット『国民の起源』〜No.94No.95No.96 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 法治主義と民主主義は同じである。
 西洋型近代化の為には、近代的法律を守る法治主義と人権が保証され自由に意見が言える民主主義が不可欠であった。
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 ウォルター・バジョット『国民の起源』
 「ただごく僅かの例外的な国民のみが進歩するのである」
 「遵法性を喪失することなくして変化性を獲得した国民こそ優力な国民となるに適(ふさ)わしい立派な資格をもつものである」
 藤井厳喜古代ローマ帝国500年とその前の共和政ローマ500年、あわせて1000年の法治の歴史があり、これが西洋法治主義の基礎になっています。日本はずっと日本的な法治主義でやってきた。だから近代法治主義が根付いたのです。もともと法治主義がないところに外国から法治主義を持ち込んだところで、うまく運用できるはずがありません」
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 古代ローマに、法治の日本はにているが、徳治・人治の中国や朝鮮はにていない。
 如何に不利な条件であっても結んだ約束を、日本は命を賭け命を捨てても守り、中国は半分位は守り、朝鮮は全て守らず平然と破って恥じなかった。 
 日本は近代化に成功したが、中国や朝鮮は近代化に失敗した。
 日本は、聖徳太子の時代から日本型の法治主義と自由・民主主義が存在していた。
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