💥17」─1─ノルウェーの高度福祉国家は社会民主主義ではなく天然資源のお蔭である。~No.65No.66No.67 ⑨

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 2019年7月30日号 Newsweek「社会民主主義モデルが北欧を豊かにしたという幻想 
 ニーマ・サナンダジ
 世界のリベラル派が理想とするノルウェーがリッチな福祉国家になれた泥くさい理由
 トランプ米大統領の正式な出馬宣言で、来年の大統領選に向けた戦いが本格化している。20人以上の候補者が乱立する民主党では、支持率トップを争うバーニー・サンダース上院議員が、北欧型の社会民主主義を目指すと主張している。
 無理もない。ノルウェー緑の党のアーレン・クビトルドは6月、フォーリン・ポリシー誌ウェブ版への寄稿で、社会民主主義的な経済政策が北欧諸国を豊かにしたと主張している。『世界銀行によると、ノルウェーアメリカの1人当たりGDPはほぼ同じだ』
 クビトルドによれば、それは政府が経済に大きく介入する政策が、実現可能であるだけでなく好ましいことの証拠だ。サンダースら世界中の左派は、社会民主主義がただ理想論ではなく、豊かで平等な国をつくる現実的な手法であることを北欧諸国が示していると言う。
 こうした『北欧モデル』のファンには申し訳ないが、ノルウェー経済の成功をもたらしたのは豊かな天然資源であって、社会民主主義的な政策ではない。人口500万人余りのノルウェーは森林、漁業、石油、天然ガスなど豊かな資源に恵まれてきた。なかでも大きな富をもたらしているのは石油だ。
 むしろ政府介入を減らす
 ノルウェーの石油基金は世界最大級の政府系投資ファンドであり、国民一人当たり約20万ドルの運用残高を誇る。むしろ国民一人当たりの石油輸出量でノルウェーを大きく下回るアメリカが、ノルウェーと同等の生活水準を実現していることのほうがあっぱれと言っていいだろう。
 同じ北欧でもノルウェーほど資源に恵まれていない国は、アメリカよりも生活水準が低い。18年のアメリカの一人当たり名目GDP(購買力平価換算)は6万2,480ドルで、ノルウェーの6万5,603ドルと同水準だったが、デンマークは5万5,019ドル、スウェーデンは5万2,767ドル、フィンランドは4万8,248ドルだった。
 クビトルドは、ノルウェーでは国が主要産業を支えていると言う。実際、国有企業の雇用は約23万1,000人に上るが、これも巨大な石油産業の大部分が国に支配されているからであって、北欧全体を見れば実のところ国有部門の雇用は限定的だ。
 人口がノルウェーの2倍のスウェーデンでは、国有部門の雇用はノルウェーの半分(12万4,000人)だし、ノルウェーと人口が同程度のフィンランドでは7万2,000人にすぎない。ノルウェーよりもやや人口の多いデンマークでは、国有企業で働く人は1万9,000人だ。
 より基本的なポイントとして、北欧諸国は社会民主主義的な政策を導入する前に、既に豊かで平等な社会を築いていたことも忘れてはならない。例えば、北欧諸国の平均寿命と乳幼児死亡率の低さは、1970年の時点で既に世界の上位にあった。経済学者のアンソニー・バーンズ・アトキンソンらの論文によると、ノルウェースウェーデンにおける所得格差の大部分は、1970年代以降に生まれた。
 むしろ現在の北欧諸国は、社会民主主義の欠点が明らかになるにつれて、政府の介入を縮小する方向に動いている。税金はまだ高いが、市場経済のルールが導入され、多くの国有企業が民営化され、社会保障は縮小されつつある。 
 北欧モデルの導入を唱える世界の人々は、実際の北欧の国々がどこに向かっているか、よく目を凝らして見たほうがいい。」
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 日本の理想社会を目指すリベラル派・革新派・進歩派・人権派などは、如何に外国語を流暢に話す高学歴出身知的エリートであっても、現実の、世界、歴史、文化、伝統、宗教などを理解する能力が低い。
 彼らが目指している理想社会は、現代の地球上には存在しない、過去にも存在しないし、たぶん未来にも存在しない、存在するとすれば幼児的ファンタジー物語の中だけであり、シビア・過酷・残酷な日本の子供用アニメ・漫画・劇画にさえ存在しない。
 つまりは、彼らは大人どころか子供にさえなり損ねた幼児と言える。
 そうした幼児的大人は、子供達に実現不可能な理想社会を語り教えて幼稚なままでの大人にして社会に送り出そうとしている。
 彼らが言う、多文化の多様性ある共生社会とは嘘である。
 だが、彼らが吹く笛は魔法の笛として、踊り出したくなるほどに心地よい美しい甘美なメロディーが流れてくる。
 彼らは、幻想を見せる魔法に笛を吹きながら、子供達を海の彼方の蓬莱山か、アフリカや中南米の森林の秘境にあるだろうエル゠ドラードに誘おうとしている。
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 ノルウェー王国ノルウェー語: Kongeriket Norge/Noreg)、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナビア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロフィヨルドの奥に形成された港湾都市オスロで、東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。
 ノルディックモデルによる高負担高福祉の福祉国家として知られ[5]、OECDの人生満足度(Life Satisfaction)ではスイスに次いで第2位となった(2014年)。

 国民
 2011年の統計[10]によるとゲルマン系のノルウェー人がほとんどで82.0%を占める。その他、スウェーデン系1.6%、デンマーク系1.0%、他に少数民族サーミ人約2万人がいる。残りは移民であり、2010年には移民人口は552,000人と全人口の11.4%を占めている。その内訳はポーランド(60,610人)、スウェーデン(34,108人)パキスタン(31,884人)、イラク(27,827人)、ソマリア(27,523人)、ドイツ(24,394人)、ベトナム(20,452人)、デンマーク(19,522人)、イラン(16,957人)、トルコ(16,430人)の順となっている。

 移民制度
 2013年には移民人口は全人口の14%を占めている。ノルウェー労働党連立左派政権は移民受け入れは安易過ぎるとして2011年にウトヤ島にてノルウェー連続テロ事件で青年部を狙われた。2013年9月9日に行われた総選挙では青年部の生存者を「ウトヤの声」と名付けて候補者として多数擁立した。しかし、進歩党 (ノルウェー)という安易な移民受け入れを批判する政党と保守党を中心とした中道右派連合に敗北して下野した。以後はノルウェーでは未だに寛容な受け入れ対策するスウェーデンを「失敗例」だとして言い続けてきた。進歩党のシルヴィ・リストハウグ移民・統合大臣は福祉国家の豊かなノルウェーを目当てに国内にやって来る移民への審査を厳しくしたため、移民制度自体がより厳格なデンマークよりも申請者数が激減した。大臣は「効果的な話し方と政治、厳しい境界線には効果がある。昨年(2016年)、申請者の数が最も激減したのはノルウェー!今後、受け入れた人々の社会統合をより成功させるためにも重要なこと。これからも低い数字を維持するためにも、出来る限りのことをしていかなければならない!」とするなどデンマークフィンランドと同様に昨今では安易な移民受け入れに反対する政党が政権へ影響力を持っている。

 移民制度
 2013年には移民人口は全人口の14%を占めている。ノルウェー労働党連立左派政権は移民受け入れは安易過ぎるとして2011年にウトヤ島にてノルウェー連続テロ事件で青年部を狙われた。2013年9月9日に行われた総選挙では青年部の生存者を「ウトヤの声」と名付けて候補者として多数擁立した。しかし、進歩党 (ノルウェー)という安易な移民受け入れを批判する政党と保守党を中心とした中道右派連合に敗北して下野した。以後はノルウェーでは未だに寛容な受け入れ対策するスウェーデンを「失敗例」だとして言い続けてきた。進歩党のシルヴィ・リストハウグ移民・統合大臣は福祉国家の豊かなノルウェーを目当てに国内にやって来る移民への審査を厳しくしたため、移民制度自体がより厳格なデンマークよりも申請者数が激減した。大臣は「効果的な話し方と政治、厳しい境界線には効果がある。昨年(2016年)、申請者の数が最も激減したのはノルウェー!今後、受け入れた人々の社会統合をより成功させるためにも重要なこと。これからも低い数字を維持するためにも、出来る限りのことをしていかなければならない!」とするなどデンマークフィンランドと同様に昨今では安易な移民受け入れに反対する政党が政権へ影響力を持っている。

 歴史
 詳細は「ノルウェーの歴史」を参照
 考古学上の発見が示すところによると、ノルウェーには約12,000年前には人が住んでいた。彼らはおそらくもっと南の地域、ドイツ北部からやって来て、海岸線に沿ってさらに北上したと考えられている。
 9世紀から11世紀までのヴァイキング時代が国家形成の統一運動及び拡大の元となった。1130年から1240年までは王位継承権をめぐる内戦が起こった(ノルウェー内戦)。黒死病などによりノルウェー王家が1387年に途絶えデンマーク配下となり、1450年より条約により従属化され、1536年には正式に独立を失った(デンマークノルウェー)。デンマークナポレオン1世側に付いた後の1814年にスウェーデンに引き渡された。ノルウェー人はこの時、独立をはかったが、列強の反対により実現できず、スウェーデン王国との同君連合(スウェーデンノルウェー)が形成された。スウェーデン王カール13世がノルウェー王に即位した。1818年にカール13世が死去すると、スウェーデンノルウェーベルナドッテ王朝支配下となった。
 1750年頃から第一次世界大戦ロシア革命が起こった1920年まではノルウェー北部とロシアのアルハンゲリスクの間でポモール貿易と呼ばれる海上貿易が盛んに行われた。ノルウェーで捕れる魚とロシアの穀物を取引し、どちらの社会においても重要度が高かった。
 20世紀初頭、スウェーデンノルウェーの連合を解消しようという運動が高まり、1905年にノルウェー側からデンマークのカール王子に打診があった。その後、国民投票により君主国家を設立、議会は満場一致でカール王子をノルウェー王として選出した。彼は独立したノルウェーホーコン7世として即位した。スウェーデン政府はこの決定に反発し、一時騒然となったが、オスカル2世と社民党政府の国民への説得により、ノルウェーの独立が認められた。
 ノルウェー第一次世界大戦では中立国だったが、第二次世界大戦ではドイツによる侵略を受け、非同盟政策に疑問を抱くようになり、集団安全保障国家となった。また、1945年7月6日には対日宣戦布告するが、ついに戦火を交える事はなかった。ノルウェー国際連合設立メンバーであり、また北大西洋条約機構 (NATO)原加盟国として、1949年に北大西洋条約に調印した。ノルウェーでは1972年と1994年の2度欧州連合への加盟に関する投票が行われたが二度とも否決され、現在も欧州自由貿易連合 (EFTA) のメンバーに留まっている。

 軍事
 詳細は「ノルウェー軍」を参照
 ノルウェー軍は陸軍、海軍、空軍および郷土防衛隊の四軍からなる。沿岸警備隊も海軍の傘下にある。
 徴兵制が布かれており、19歳から44歳の国民は1年間兵役を勤める。女性は徴兵の対象から外れていたが、2015年より女性もその対象となった。これにより、ノルウェーは欧州で、また北大西洋条約機構 (NATO) で唯一、女性を徴兵対象とする国となった。ただし、良心的兵役拒否を行う者は、代替役務として社会奉仕活動を選択することが可能である。
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🐉25」─1─新疆ウイグルでの中国共産党によるカザフ族に対する非人道的民族弾圧。~No.95 

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 中国による領土拡大の侵略は、中国人移民である。
 中国の伝統的戦略は、「孫子」の戦わずして勝つ事であり、敵地の中に中国人居住区・チャイナタウンを獲得する「囲碁」である。 
 敵の中に、美女・美男子や利益・金で味方(売国奴・裏切り者・内通者)を作り、親中国派、媚中派、協調派、友好派、朝貢派などを増やす事であった。
 中国人移民が多数派にならなくとも、親中国派・媚中派らを加えて多数派になれば主導権を握る事ができる。
 少数派が主導権を握る為には、土地の私有、投票権、立候補権、官僚登用、教育決定などである。
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 中国共産党政府は、国連の5大常任理事国である為に、如何なる国も、如何なる人間も、中国共産党の非人道的残虐行為を止める事はできないし、悲惨な状況にある少数民族を助ける事ができない。
 中国共産党政府を、常任理事国に認めた全ての国の責任である。
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 2019年7月25日 朝日新聞「世界発2019年
 新疆ウイグル もう一つの民族弾圧 
 中国当局、カザフ族も拘束 
 ウイグル人族への弾圧が続く中国新疆ウイグル自治区で、同じ境遇にあると訴えている別の少数民族の人々がいる。(アルマイト=石橋亮介)
 『イスラム礼拝所通った』逮捕
 『私たちの話を聞いて、世界に伝えてほしい』
 カザフスタンアルマイトの人権団体『アタジュルト』の事務所を7月始めに訪ねると、居合わせた約20人が詰め寄せるように訴えてきた。
 彼らは中国新疆ウイグル自治区から移住したカザフ族。
 『弟が収容所に入れられた』『母が逮捕され、連絡がつかない』。拘束されたという親族の写真を手にしている。
 アハルト・ハリダさん(65)は昨年、新疆に住む3人の息子が警察に突然逮捕され、刑務所に入れられたと現地の知人から聞いた。『イスラム教の礼拝所に通ったことが理由と言われてた。息子たちは過激派なんかではないのに』。息子の妻らと連絡がとれず、孫の安否もわからないと話し、涙で赤くなった目をハンカチであさえた。
 中国のカザフ族はカザフスタンのカザフ人と同じ民族で、新疆に100万人以上が暮らす。カザフ語を話しイスラム教を信仰することも共通で、ソ連崩壊後に独立したカザフスタンに、仕事などを求めて数十万人が移住。国境をまたいで行き来していた。
 ところが2017年ごろから、新疆で中国当局に逮捕されたり『再教育収容所』に収容されたりする例が急増した。アタジュルトによると、拘束された可能性のあるカザフ族は、相談を受けた分だけで2年間に5,000人を超える。
 再教育施設 作文と豚肉強要
 ……
 『内政問題』カザフ政府弱腰
 中国政府は、独自の文化や言葉を持つ少数民族は独立を求めると恐れている。弾圧の目的は民族の文化を奪い中国化すること──。拘束経験のあるカザフ族の人々は、そう受け止めている。
 だがカザフスタン政府は『中国の内政問題』と距離を置く。天然資源の最大の輸出先として中国を重視、油田開発などへの中国企業の参入を推進してきた。また中国の経済圏構想『一帯一路』に参加して国内のインフラ整備に巨額の投資を期待しており、中国の機嫌を損ねたくない。
 そのためカザフスタン政府はアタジュルトの活動を黙認する一方、NPOとしての認可申請は拒絶。3月には団体創設者のセリクジャン・ビヤシュ代表を『民族間の憎悪をあおった』として逮捕した。
 一方で政府は1月、再教育施設に収容された2,000人以上のカザフ族を中国政府が解放、カザフスタンへの出国を認めたと公表した。国民や国際社会の反発を恐れ、水面下で中国に働きかけたとみられている。
 現在アタジュルトを率いるエルボル・タウレトベク氏は『政府が本気になればアタジュルトなどすぐつぶせる。カザフ族を助ける人がいなくなるのは政府も避けたいのではないか』と話す。」
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イリ・カザフ自治州(-じちしゅう)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部に位置するカザフ族の副省級自治州。グルジャ市(伊寧市)を州都とし、全国で唯一、タルバガタイ(塔城)、アルタイ(阿勒泰)の2地区を管轄する地区級行政単位である。
民族構成はカザフ族が25.5%、漢族が45.2%、ウイグル族が15.9%を占める。自治区の中心部は天山山脈とボロホロ山脈(英語版)(天山山脈の支脈)に挟まれたイリ盆地(イリ川上流部)である。
歴史[編集]
唐代には突厥旧属カルルク部の地であり、後にカラハン王朝の領土となった。 1124年、契丹貴族耶律大石がイリのカルルク部を臣服させて西遼を樹立した。 1211年カルルク部はモンゴル帝国支配下に入り、チャガタイ・ハン国に分封された。 1677年、オイラト・モンゴルのジュンガル部が南下して新疆に入り、イリ地方をその中心とした。 1755年、清朝ジュンガル部との数十年にわたる戦いの後、イリを征服し、1762年にはイリ将軍を置いた。 イリ将軍が駐在した恵元城は新疆の政治、軍事の中心ともなった。 新中国成立後、1954年にイリ・カザフ自治州が成立。
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 『中国少数民族事典』(東京堂出版 2001年)
 ・ カ ザ フ 族 ・
 カザフ族は、旧ソ連中央アジアの独立国カザフスタン共和国の中心的な民族であり、カザフスタン全人口1682万4825人のうち46パーセントを占めている(1999年)。中国領内では、おもに新彊ウイグル自治区のイリカザフ自治州、木塁カザフ自治県、巴里坤カザフ自治県と昌吉回族自治州などの各県に居住するほか、一部は青海省甘粛省にも居住する。1990年の全国人口調査によれば、中国全土のカザフ族の人口は111万758人である。なお、1997年の新彊ウイグル自治区のカザフ族の人口は、127万800人である。
 カザフ族は、中国では、漢王朝時代に天山山脈の北方うそんに居住していた烏孫に由来するといわれている。直接的には、15世紀に遊牧ウズベク族集団から分離して形成された集団である。当初、現在のカザフスタン東南部に位置するセミレチエ地域に居住していたが、その後、カザフ草原全域に遊牧地域を拡大させた。やがて自らの国家形成をはかり、カザフ・ハン国を創設した。しかしロシア帝国が東方に大々的に領域拡大を実現するに及び、1820年代には、その大部分がロシアの制御下に入った。現在の中国領にカザフ族が居住している歴史的背景としては、清王朝中央アジア進出があげられよう。18世紀半ば、清王朝がモンゴル系の遊牧勢カシュンガルを平定し、天山山脈北側の地域を征服したあと、一部のカザフ族は清王朝に帰順した。これにより、カザフ族が部分的に西方のカザフ草原から清王朝治下のこの地域に移動し、浸透していったといわれる。カザフ族の居住地域は、ロシアと中国の2つの国家領域にまたがる形になったが、それ以後も、両国の間では、カザフ族同士の国境を越えた移動が行われていた。また大規模な移住も、歴史上特定の条件下で発生してきた。たとえば、スターリン時代のソ連における集団化の時期に、中華民国領への移動が見られた。逆に中華人民共和国成立後には、1962年にソ連との間で発生した、いわゆるイリ事件を契機として、数万人規模のカザフ族が、中国領からソ連領に集団越境したといわれる。この事件を契機として中ソ国境が閉鎖されたが、1980年代に入ると、改革開放政策の導入による国境路や鉄道の開通にともなって、往来が再開された。カザフ族はヒツジとウマの飼育を中心とする遊牧民族として知られ、中国のカザフ族に関していえば、現在でもかなりの部分が、とくに天山山脈およびアルタイ山脈の一帯で遊牧生活を営んでいる。彼らはモンゴル族のゲルとほぼ同型のフェルト張りのユルトと呼ばれるテントに夏の間住んでいる。ユルトには一家族が住み、この家族が7~10戸集合したものをアウルといい、伝統的に遊牧の単位となった。また、彼らの牧畜の技術は非常にすぐれており、肉と毛の両方が利用できるいわゆる新彊細毛ヒツジや、イリウマと呼ばれる名馬を生み出した。主食は季節によって異なっている。すなわち、春季から夏季にかけてはヒツジ肉が主体であるが、秋季から冬季の食料としてはウマの腸に馬肉を詰めて火燻製にしたソーセージが有名である。さらに飲料としてはクミスと呼ばれる馬乳を発酵させた低アルコール分の乳酸飲料をたいへん好む。ウイグル族の主食であるナンも一部の地域では日常的に欠かせない食べ物である。新彊ウイグル自治区の区都ウルムチ市などの都市には、都市化されたカザフ族も見られるが、人口比率からいえば少数派である。都市在住であっても、旧来の出自である部族に対する帰属意識が部分的には残存している。言語はカザフ語で、文字は、カザフスタン領内ではキリル文字を基盤とするものであるのに対し、中国領内ではアラビア文字を変形した字母が用いられている。都市のカザフ族は、漢語とのバイリンガルであることが多い。宗教はスンニー派イスラム教である。しかし彼らは、伝統的には遊牧を専業としてきたため、モスク(イスラム教寺院)は持たなかった。〔新免〕
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 中国共産党は、国内・支配地で中国化を暴力的に強行し、漢族系中国人住民を増やして地元住民を圧迫し、地元の伝統的宗教・文化・習慣・言語を消滅させつつある。
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 隣国のカザフスタンは、中国共産党が進める一帯一路構想による支援を受ける為に、同族であるカザフ族への弾圧から目を逸らしている。
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 現代日本には、戦後の朝鮮帰還事業で聞かされた「北朝鮮は労働者の天国」「朝鮮は極楽」と同じような宣伝文句が、「中国は素晴らしい」「中国は進んだ国である」としてまことしやかに流されている。
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☭10」─2─日露戦争は日本にとって正しい戦争であった。アムール川虐殺事件。キシニョフ虐殺。~No.29 

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 人種差別主義のロシアでは、ポグロムユダヤ人虐殺)が繰り返され、中国人に対しても差別と迫害と虐殺を行った。
 日本は、ロシア人による虐殺を目の当たりにして恐怖し、ロシアの侵略を死を賭けて撃退する事に覚悟した。
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 日本にとって、アムール川虐殺は明日の我が身であった。
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 日本人にとって、日露戦争は避けられない戦争であった。
 日本は正義であり、ロシアは悪であった。
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 戦争を否定する現代日本人は、日露戦争を否定し、話し合いで平和を守るべきだったと子供達に教えている。
 つまり、非暴力無抵抗から、戦争するくらいなら虐殺や迫害・差別を我慢して受け容れるべきだったと。
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 1899年~1901年 義和団事件で、ロシア軍やドイツ軍などの連合軍は北京で残虐行為を繰り返した。
 日本軍は、虐殺・や略奪・強姦などを行わず、逃げて来た中国人難民を保護した。
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 八カ国連合軍
 ロシア ロシアは主に旅順口区とウラジオストク港からの守備隊から構成された軍隊12400人からなる日本に次いで二番目の規模の軍隊を派遣した。
 影響
 前述の八カ国の軍隊は1900年8月14日に北京を侵略し占領した。西太后と皇帝と政府高官らは紫禁城から西安へ逃亡し、李鴻章を連合軍との和平交渉に派遣した。
 研究論文でケネス・クラークは「北京獲得の後、連合軍は首都から略奪し、彼らがヨーロッパへ帰る途中で発見した多くの中国の遺産と共に紫禁城を略奪さえした。」と述べている。
 残虐行為
 数えきれないほどの義和団だと疑われた人々が義和団の乱の最中やその後に斬首された。この出来事は短編映画の主題になった。
 アメリカの海兵隊員は、ドイツ兵とロシア兵が女性を強姦したあとで彼女たちを銃剣で突いて殺害するのを見たと記していた。
 北京では、ピエール・マリー・アルフォンス・ファビエ=デュペロン司教が、カトリック教徒が生き残るために必要最低限の生活必需品と50両以下の銀の強奪を8月18日から26日まで許可する告示をしたと言われていたが、本人はそのような告示は出していないと否定した。
 一方の義和団も残虐行為を行っていた。多くのキリスト教徒が義和団の乱の前に殺害された。義和団の乱の前や最中に殺害された正教徒の集団は中国の聖なる殉教者としてこの日に記念されている。
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 義和団の乱における死傷者数
 連合軍は上記のように多くの兵力を投入したが、日本軍の計算に依れば、全期間にわたる死者数は757名、負傷者数は2654名とされている。ちなみに最も多くの死傷者を出したのは日本であった(死者349名・負傷者933名)。また清朝義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)、中国人クリスチャン23000人といわれる。一方清朝義和団側の死傷者は統計としては正確性を欠かざるをえないが、上で引用したように天津城攻防戦だけで4000名ほどの遺体があったと日本軍が書いていることから考えて、一年ほどの戦争期間に多大な死傷者を出したことは容易に想像できる。
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 中国は虐殺と略奪の大陸であった。
 漢族中国人は、人種・民族の中で最も残虐な人間であった。
 日本民族日本人の敵は、漢族系中国人と朝鮮人であった。
 漢族系中国人は、日本人を虐殺していた。
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 日本民族日本人は、中国人や朝鮮人ほどの凶暴性は弱く、虐殺を怖れ、強奪は少なかったが、根っからの女好きが嵩じて女と見ると強姦し性病をうつされていた。
 日本兵による性犯罪・強姦を減らす為には、民間人経営による慰安婦慰安所が欠かせなかった。
 日本人将校は、女にだらしなく、敵の美人スパイの甘い言葉に欺され、褒められたい、認められたいとの、恋い焦がれる思いから軍事機密情報などを自慢げに話し、その結果、日本軍を窮地に追い込む事があった。
 四谷怪談や牡丹灯籠など女性の幽霊・亡霊・怨霊に怯える気の弱い日本人は、男を呪い殺す力が強い女性や子供などの弱者を殺す事に躊躇いがあった。
 日本民族日本人は、亭主関白であったが、同時に女性が恐い、カカァ天下・山の神の恐妻家でもあった。
 男性の幽霊・亡霊・怨霊は、女性に比べて少ない。
 子供は神に近い存在として、家神の座敷童であり、三途の河原で小石を積むが鬼に虐められ地蔵菩薩に助けられる哀れな水子である。
 日本の最高神は女性神天照大神伊勢神宮の祭神)である。
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 1900年 アムール川大虐殺事件。白人至上主義のロシア軍兵士は、アムール河畔ブラゴベシチェンスクを占領するや、現地のモンゴル人・満州人・中国人ら女子供に関係なく数千人を虐殺した。
 欧米列強は、同じ宗教的選民思想を共有するだけにロシア軍の残虐行為を不問に付した。
 反日朝鮮人は、夷・ロシア帝国の軍事力を利用して夷・日本を滅ぼす為に、ロシア軍を朝鮮半島に引き込もうとしていた。
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 親露派朝鮮人は、ロシア軍が勝利する為に日本軍の情報をロシア側に流していた。
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 大韓帝国は、自主独立国として国際法に則って中立を宣言したが、日本が負ける事を期待して極秘に日本軍の軍事情報をロシア軍に伝えていた。
 古代から。朝鮮は、国益の為に、日本の極秘情報を中国などの反日国家に流していた。
 日本にとって、朝鮮が親日として味方につけばよし、反日として敵側に協力するのであれば、国益を守る為にも何らかの処分を加える必要があった。
 清国は、日清戦争の復讐として、ロシア帝国との間で対日秘密軍事条約を締結した。
 もし。日本軍がロシア軍に敗北すれば、清国軍は敗走する日本軍を殲滅する予定であった。
 中国は、にこやかに微笑みながら友好を口にするが、本心は日本の滅亡のみである。
 それは、古代から一貫して変わらない対日戦略である。
 何故か。それは、中華皇帝との対等を許さないという儒教的「面子」である。
 儒教は、神の裔・天皇の存在を「面子」ゆえにけっして認めない。
 ホーチミン(本名・阮愛国)は、「虎(フランス)をやっつける為に狼(日本)に噛み付かれにいく」として日本行く事を拒否して、フランスの植民地官吏大学院に入学するべく願書を提出した。
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 ロシア帝国の真の狙いは、江戸時代から対馬と北海道の領有であった。
 現代日本反戦平和団体が望む、話し合いによる戦争回避の手段とは、対馬アイヌ人の土地である北海道の放棄しかなかった。
 一部の日本人は、如何なる戦争も避ける為ならば、タイ方式の平和もやむなしと主張している。
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 この時、アイヌ人だ日本人の支配から独立する為にロシア帝国に支援を要請したら、ロシア帝国は喜んで軍隊を派遣したであろう。
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 軍国日本は、援軍を送ってくれる友好国を持っていなかっただけに、一国でロシア帝国と戦う為に軍国主義諸政策を進めた。
 天皇制度国家日本は、世界から非難される侵略戦争を行う軍国主義国家となった。
 日本が戦ったのは自衛の為であって、中国を分割消滅から救う為ではないし、朝鮮をロシア帝国の領土にされる事から救う為ではかった。
   ・   ・   ・   
 ウィッテ「ロシア軍による満州占領以来、あの地方は実際上ロシアの保護領となった。統治は現実にロシアの手中にある、ロシアは問題となっている一切の事実と特権に関する優先を獲得した。……戦勝の場合、日本への平和条件は満州及び朝鮮の併合の問題の他に、日本から永久に戦闘力を奪わなければならない、太平洋沿岸における優越は保障されなければならないとの見解で一致している。それは日本に対する艦隊保有禁止であり、さらに黄海における優越を維持する為に旅順に加えて、鴨緑江の江口の龍岩浦に築城し前哨を確保し、さらに朝鮮海峡を制する事が必要となるであろう。また、敗北した日本から充分な賠償金を得る事は事実上不可能であり、韓国が経済上無価値な事を考慮すれば、この戦争から得るべきロシアの唯一の具体的な補償は、満州の併合であるかに思われる」
 ロシア帝国は、満州と朝鮮を併合し、日本から自由を奪い主権なき無防備な衛星国にす事を考えていた。同時に、イギリスに対して、北海道と対馬の領有と本州の太平洋沿岸に軍港要塞要地の租借等を打診したという情報があったという。
 スプリング・ライス駐露イギリス大使館参事「ロシアの要求は過大となり東北清国及び韓国の事実上の併合、北京をその保護下に置いて清国政府を一歩一歩ロシアの手中に収めるであろう。また勝利に終わるならば、1.満州をロシアの手中に収め、2.鴨緑江沿いの築城と東朝鮮における築城、3.日本に対する海軍保有禁止、4.朝鮮、満州からの日本の排除を、ロシアは日本に要求するであろう」(セオドア・ルーズベルトへの電報)
   ・   ・   ・   
 ロシア帝国は、ウラジオストク軍港を強化する為に、フランスのパリ・ロスチャイルド家の財政支援を得てシベリア鉄道の建設を急いだ。その時間稼ぎの為に、日本の関心をフィリピンに向けるべく親露派日本人を利用した。
 ユダヤ人の多くは、ユダヤ人を弾圧するロシア帝国を憎み、ユダヤ人を助ける明治天皇と神国日本を支援した。
 清国・中国は、第一次露清秘密軍事条約を結び、日本から返還された遼東半島の旅順と大連を対日戦の軍事基地に利用する事を認めた。第二次露清秘密条約で、長城以北の満州内モンゴルのロシア保護領化を認めた。
 ロシア軍は、日本領対馬と北海道を軍事占領し領土化する為に、サハリンの軍事基地強化と朝鮮への影響力増加に力を入れた。
   ・   ・   ・   
 イギリスは、ボーア戦争で国費を使い新たな戦争を起こすゆとりがなかった。やむなく、ロシア帝国の南下から中国にある利権を守る為に、日本の軍事力を利用するべく同盟を組んだ。
 全ての軍事専門家は、アジアの小国日本はロシア帝国に敗北すると分析していた。
 当然。イギリスも、軍事力の脆弱な日本が巨大な軍事力を持つロシア帝国の南下を食い止めるとは本気で考えていなかった。
 イギリスの真意は、ロシアが勝てば、中国の利権を守る為に日本の一部をロシアに割譲させる腹づもりであった。
 日本は、戦費調達の為にイギリスに財政支援を要請したが断られた。
 日英同盟とは、イギリスが表面的に日本に支援の手を差し伸べたように見せかけたポーズに過ぎなかった。
 時代は、善意もなく、信義もない、弱肉強食の帝国主義時代である。
   ・   ・   ・   
 ロシア帝国が欲しいのは、アジアと太平洋に出る不凍港である。日本の北海道か東北の一部が領土隣るのであれば、イギリスを敵にしてまで中国の利権に拘る必要は無かった。
   ・   ・   ・   
 フランスは、植民地・仏印での独立運動を恐れ、日本を敗北させるためにフランス帝国を支援した。
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 ドイツ帝国は、ロシア帝国の軍事力を利用して、華北に植民地を拡大する為にロシア帝国を支援した。
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 アメリカは、日本の関心をフィリピンから満州に向けさせるべく日本を支援した。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、反日抵抗運動から、ロシア帝国の日本征服に協力し、国内に軍事基地を置く事に同意した。
 日本を欺く為に、局外中立を宣言した。
 朝鮮人の言う事には、信義はなかった。
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 清国・中国と朝鮮は、200万人以上の総兵力を持つロシア帝国を利用して、約20万人の総兵力しかない軍国主義国家日本を消滅させようとしていた。
 清国は、日本への復讐船の為に、ロシア帝国と秘密の軍事協定を結んでいた。
 ロシア軍が日本軍を撃退して日本領に上陸すれば、日本領の一部を手に入れる為に日本討伐の出兵を行うつもりであった。
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 アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ帝国は、自国の国家戦略から、日本とロシア帝国の全面戦争を煽っていた。
 欧米列強は、非白人にして非キリスト教徒の日本が想定以上の勝ちすぎを警戒していた。
 人種差別主義である黄禍論の国際世論は、ロシア帝国の圧勝を予想していた。
 インドシナ半島民族主義者は、独立運動を勝利する為に優秀な青年達を日本に留学させた。東南アジアの人々にとって、欧米列強に抵抗する日本は希望の星であり、キリスト教白人と戦う日本人は憧れであった。
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 ロシア軍は、朝鮮から日本を追放する為に、大軍をシベリアから満州にかけて展開して日本に軍事的圧力をかけた。
 ロシア海軍は、ウラジオストク軍港と旅順要塞軍港をつなぐ航路を確保する為に、朝鮮海峡に面した良港を軍港として利用する権利を要求した。その真の目的は、日本海の完全支配であった。
 ロシア帝国のアジア戦略は、カムチャッカ半島・サハリン・沿海州満州・朝鮮を防衛ラインとしていた。そして、太平洋と東シナ海への航路を軍事力で奪い確保する事であった。
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 日本は、ロシア軍が北海道に侵攻して軍事占領する事と、清国で拝外思想で義和団の様な内乱が再燃する事を恐れた。
 日本軍部は、ロシア帝国の軍事圧力を日本から遠ざけるべく、朝鮮を支配し、満州で戦争を行う事を決断した。それが、日露戦争であった。
 中程度国家日本には、アジアで味方してくれる国は一ヵ国も無かく、援軍を得られず孤独であった。
 多勢に無勢で戦って勝つという自信がなかったが、一時の平和の為に話し合いで戦争を回避するという意思はなかった。
 ロシア帝国が、日本海を支配するべく、北海道の領有と津軽海峡の自由な航行及び対馬の領有と対馬海峡の自由な航行を望んでいる以上は、平和の為に話し合っても無意味である事はわかっていた。
 いずれにせよ、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められた軍国日本には、世界を敵に回し、国際社会で孤立化しても、一か八かの侵略戦争を発動するしか選択肢がなかった。
 東京日日新聞(1903年6月24日)「満州を手に入れたロシアの次の目標は朝鮮であり、もし朝鮮が取られたならば、次は日本である」
 日本軍部は、北の脅威であるロシア帝国及びソ連の軍事力を後退させる為に、朝鮮を併合し、満州に傀儡国家を樹立して、そこを軍事基地としてシベリアを脅かすことであった。
 但し、国力及び軍事力差から、積極的(攻撃型)防衛は口先だけで消極的(専守型)防衛に徹した。
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 日本国内には、キリスト教ロシア帝国と戦う事に反対する反戦平和主義者いた。
 彼らは、日本がロシア帝国の植民地となるか領土となっても、戦争だけはするべきではないと確信していた。
 現代の日本でも、日本がどうなっても構ず、非戦のみを貫くべきだと信ずる日本人がいる。
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 1903年4月6日 ロシア人は、人種差別差主義者として、ベッサラビアキシニョフにおいてユダヤ人虐殺を行った。
 ロシア人達は、ユダヤ人47人から49人を虐殺し、92人に重軽傷を負わせた。
 殺害対象は、女子供に関係なく、ユダヤ人であれば容赦しなかった。
 ロシアに於けるユダヤ人虐殺は、1906年まで全土で行われた。 
 ロシアにおけるユダヤ人弾圧を、ポグロムという。
 日本は、ユダヤ人に同情した。
 明治天皇は、反ユダヤ主義者ではなかった。
 昭和天皇も、反ユダヤではなく親ユダヤであった。
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 ウィキペディア
 キシニョフ事件 (1903)
 セオドア・ルーズベルトアメリカ大統領がロシア皇帝ニコライ2世ユダヤ人弾圧の停止を要請するカートゥーン(1904)
 1903年2月、ユダヤ人が住民の半数を占めるベッサラビアキシニョフでの少年殺害事件はユダヤ人が犯人とされ、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続けた。キシニョフユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され、「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した。復活祭の日曜日の1903年4月6日、ポグロムが発生した。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった。
 このキシニョフ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった。
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 アムール川黒龍江)事件
 中国東北部とロシア極東部の国境地図。ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南にある赤い色の地域が「江東六十四屯」
 1900年(明治33年)、義和団の乱(中国側の呼称:庚子拳乱)が発生した際、義和団員の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領した。かねてから満洲全域への進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えた。
 そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル (Михаил) 号は河上より銃撃を開始し戦端が開かれた。7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺して奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。その結果、この時期に清国人約二万五千名がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったという。
 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、清の支配は失われることとなる。
 これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。アムール川から南下の機会を狙うのは、世界最大のロシア陸軍。日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。
   ・   ・   
 アムール川の流血や(アムールがわのりゅうけつや)は、旧制第一高等学校(一高)の寮歌のひとつで、1901年(明治34年)に制作された。正式名称は「第11回紀念祭東寮寮歌」だが、冒頭の歌詞の一節から取られたタイトルで知られている。「嗚呼玉杯」とともに、一高の寮歌として広く知られた。
 作詞は塩田環。作曲は栗林宇一とされ、作詞・作曲とも生徒の手で行われたとする点でも最初期の寮歌と言われてきたが、曲の原型は永井建子作曲の軍歌「小楠公」に求められる。同様の旋律で歌う歌には、軍歌「歩兵の本領」、労働歌「聞け万国の労働者」などがある。一高内では本曲の旋律を用いて「征露歌 (ウラルの彼方)」が制作された。
 内容
 1901年(明治34年)、一高東寮第十一回紀念祭寮歌として作成披露された。作詞の塩田環は同学だった鳩山一郎の友人だった。曲は、栗林宇一が軍歌など既存の複数の曲を組み合わせたものである。栗林本人も「原曲」がある趣旨の発言を行っていた[1]。
義和団の乱のさなか、ロシア軍が、ロシア領内の中国人居留地江東六十四屯を襲撃した事件を描いている。
 日露戦争前の極東地域の不穏な情勢や「これからは日本が清に代わっていく」という感情を感じさせる。
 一、
 アムール川の流血や
 凍りて恨み結びけん
 二十世紀の東洋は
 怪雲空にはびこりつ
 二、
 コサック兵の剣戟(けんげき)や
 怒りて光ちらしけん
 二十世紀の東洋は
 荒波海に立ちさわぐ
 三、
 満清(まんしん)すでに力つき
 末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で
 仰ぐはひとり日東(にっとう)の
 名もかんばしき秋津島
 四、
 桜の匂い衰えて
 皮相の風の吹きすさび
 清き流れをけがしつつ
 沈滞ここに幾春秋
 五、
 向が丘の健男児
 虚声偽涙(きょせいぎるい)をよそにして
 照る日の影を仰ぎつつ
 自治寮たてて十一年
 六、
 世紀新たに来れども
 北京の空は山嵐
 さらば兜の緒をしめて
 自治の本領あらわさん
   ・   
 征露歌(ウラルの彼方)
 1904年(明治37年)2月11日、日露開戦直後一高にて行われた紀元節奉祝集会に於て「征露歌」として披露された。「アムール川の流血や」の様に通例行事の紀念祭に合わせて作成された物ではなく、日露開戦に向けた学生に依る戦意発揚の為に作成されたと見るべき歌である。
 翌三月に挙行された通例行事の紀念祭(一高第十四回紀念祭)に於ても、数多くの「露西亜征討の歌」が作成された。
 作詞は青木得三。
 曲は「アムール川の流血や」と同じ。
 一、
 ウラルの彼方風荒れて
 東に翔ける鷲一羽
 渺々遠きシベリアも
 はや時の間に飛び過ぎて
 二、
 明治三十七の年
 黒雲乱れ月暗き
 鶏林の北滿洲に
 声物凄く叫ぶなり
 三、
 嗚呼絶東の君子国
 蒼浪浸す一孤島
 銀雪高し芙蓉峰
 紅英清し芳野山
 四、
 これ時宗の生れし地
 これ秀吉の生れし地
 一千の児が父祖の国
 光栄しるき日本国
 五、
 荒鷲今や南下しつ
 八道の山後に見て
 大和島根を衝かむとす
 金色の民鉾取れや
 六、
 十年の昔丈夫が
 血汐に染めし遼東の
 山河欺き奪いてし
 嗚呼その恨み忘れんや
 七、
 北洲の北熊吼ゆる
 薩哈嗹(サガレン)島これ昔
 我神洲の領なるを
 奪い去りしも亦彼ぞ
 八、
 西暦一千九百年
 恨は長きアムールや
 魯人の暴に清の民
 罪なく逝けり数五千
 九、
 いふ勿れ唯清人
 金色の民彼も亦
 嗚呼怨なり残虐の
 蛮族いかで赦すべき
 十、
 玉なす御手に剣取り
 華顔潮に湿して
 高麗半島を懲めにし
 神功皇后君見ずや
 十一、
 海を蔽いて寄せ来る
 敵艦四千 鎮西の
 蒼溟深く沈めたる
 彼時宗を君見ずや
 十二、
 明朝鮮を伐ちとりて
 鳳輦遠く迢遙と
 唐の都に謀りたる
 彼秀吉を君見ずや
 十三、
 時宗の裔鉾取れや
 秀吉の裔太刀佩けや
 恨尽きせぬ蛮族を
 屠り尽さむ時至る
 十四、
 貔貅たちまち海を越え
 旅順ダルニー蛮族の
 血汐に洗い遼東の
 山河再び手に収め
 十五、
 朝日・敷島艨艟の
 精を尽して波を蹴り
 ロシア艦隊葬りて
 翠波収まる日本海
 十六、
 砲火に焼かん浦塩
 屍を積まん哈爾浜府
 シベリア深く攻入らば
 魯人も遂になすなけむ
 十七、
 斯くて揚らむ我が国威
 斯くて晴れなむ彼の恨
 金色の民鉾取れや
 大和民族太刀佩けや
 十八、
 嗚呼絶東の君子国
 富士の高嶺の白雪や
 芳野の春の桜花
 光示さむ時至る
 十九、
 忍ぶに堪へぬ遼東や
 亦薩哈嗹やアムールや
 嗚呼残虐の蛮族に
 怨返さん時至る
 二十、
 金色の民いざやいざ
 大和民族いざやいざ
 戦はんかな時期至る
 戦はんかな時期至る
    ・   ・   ・     

🦟16」─1─南西太平洋の中央部・オセアニア。日米豪がフィジー軍支援で連携。〜No.43No.44No.45・ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2019年7月13日22:25 産経新聞「日米豪がフィジー軍支援で連携 攻勢の中国に巻き返し
 政府が自衛隊の他国軍への能力構築支援(キャパシティ・ビルディング)をフィジーに拡大し、太平洋島嶼(とうしょ)国の軍支援で米国、オーストラリアとの3カ国連携が初めて実現することが13日、分かった。島嶼国では中国が経済支援と合わせ軍事的な影響力を高め、有事で米豪連携阻止を図る。多額の支援を受けてきたフィジーは中国の軍事拠点になりかねず、日米豪の安全保障協力で巻き返しを狙う。
 能力構築支援は自衛官らを派遣したり支援対象国の実務者を招いたりして他国軍の能力を向上させる。支援対象国と国際安保環境の安定化に貢献し、日本の信頼性も高める意義がある。
 太平洋島嶼国は14カ国あり、自衛隊の能力構築支援の対象となる軍を保有するのはフィジーパプアニューギニア、トンガ。自衛隊パプアニューギニアの軍楽隊育成などを支援し、昨秋にはフィジー軍に短期研修を行ったこともあるが、新たにフィジーに対する本格的な支援に乗り出す。
 フィジー津波やサイクロンに伴う洪水といった災害を受けやすく、2016年にはサイクロンで人口の6割にあたる約54万人が被災した。それを踏まえ、自衛隊の能力構築支援は災害救援分野から始める。
 災害救援ではまず医療から着手し、今年度中にフィジー軍の関係者を都内にある陸上自衛隊衛生学校や自衛隊中央病院に招き、自衛隊医療関係者の育成や教育訓練の内容、装備の運用方法を教える。その後、道路復旧などの施設分野にも支援を拡大する見通しだ。
 フィジーに対しては豪軍がフィジー軍の医療施設建設を支援しており、米軍も医療・衛生の装備品をフィジー軍に供与する。こうしたハード面の支援に自衛隊のソフト面の能力構築支援が加わることで日米豪の連携が実現する。
 能力構築支援は他国との安保協力の柱として重要性が増している。政府は昨年末に策定した新たな「防衛計画の大綱」で米豪両国との関係強化について能力構築支援での協力推進を柱に掲げ、フィジーへの支援はその方針を実行に移す措置と位置づけられる。
  ◇
 ■能力構築支援 自衛隊は平成24年度から始め、東南アジアを中心に15カ国・1機関へ実施。災害派遣や国連平和維持活動(PKO)で蓄積した能力を活用できる災害救援や施設分野が多い。日米豪が連携した支援はベトナムやフィリピンなどで行っている。」
   ・   ・   ・   
 7月13日22:31 産経新聞「省庁横断「インド太平洋使節団」が推進 日米豪のフィジー支援
 太平洋島嶼(とうしょ)国の軍支援で日本、米国、オーストラリアの3カ国連携が初めて行われることが13日、判明した。「自由で開かれたインド太平洋」を推進する日米両国に加え豪州と、巨大経済圏構想「一帯一路」を掲げる中国が影響力を争う最前線。フィジーへの安全保障協力は政府内で「インド太平洋使節団」と呼ばれる一行が道筋をつけた。
 使節団は薗浦健太郎首相補佐官が率い、6月5~7日、外務、経済産業、国土交通、防衛の4省と海上保安庁日本貿易振興機構(JETRO)が同行し、フィジーを訪問。使節団が有効なのは、協力案件を持ち帰って検討するのではなく「安保と経済の両面でその場で内容を詰められる」(薗浦氏)ことにある。
 日本政府が提唱するインド太平洋構想は(1)法の支配、航行の自由、自由貿易(2)経済的繁栄(3)平和と安定の確保-が3本柱だ。各国に働きかけるには省庁横断の取り組みが求められる。
 (3)の平和と安定の確保に向けては能力構築支援と災害救援での協力を打ち出しており、フィジーでの支援は合致する。海保の海上法執行能力の支援や貿易と投資の促進でも意見を交わし、使節団はフィジーで構想の3本柱を網羅した。
 昨年9月のオマーンから始まった使節団訪問は今年に入り太平洋島嶼国を重視し、5カ国を回った。政府高官はその意図を「中国をにらんだ外交安保上の重点国を集中的に支援する必要がある」と説明する。
 豪州と同国ダーウィンに米軍拠点を置く米国は中国が太平洋島嶼国を取り込むことに懸念を強めている。島嶼国に中国の軍事拠点が築かれれば海軍の太平洋進出の脅威は高まり、南シナ海有事などで米豪連携が阻まれる恐れもあるためだ。
 実際、フィジーパプアニューギニア、バヌアツなどでは中国の軍事拠点化の布石が指摘されている。薗浦氏は米豪とも密に協議しており、中国の攻勢に歯止めをかけるには日米豪がそれぞれの特性と強みを効果的に太平洋島嶼国へ投じていくことが欠かせない。(半沢尚久)
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🐖19」─2─アジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加承認の国・地域が100。〜No.124No.125No.126 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2019年7月13日 22:11 産経新聞「参加承認の国・地域が100に アジア投資銀、影響力拡大
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)の看板=2016年1月、北京(共同)
 中国が主導する国際金融機関のアジアインフラ投資銀行(AIIB)は13日、加盟を認めた国・地域が100に達したと発表した。アフリカのベナンジブチルワンダの参加を承認した。引き続き、アジア地域以外での影響力強化を狙う。
 AIIBはルクセンブルクで、アジア以外では初となる年次総会を13日まで開催。欧州や中東、アフリカの国・地域との協力拡大を目指した。12日には、ユーロ圏の金融安定網「欧州安定メカニズム(ESM)」と連携を進める覚書を結んだ。(共同)」
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🔯54」─1─マキアヴェッリ『君主論』。西洋の国王・皇帝・教皇、中華皇帝、日本天皇。~No.190 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2019年7月18日号 週刊文春「文春図書館 名著のツボ 石井千湖
 マキアヴェッリ君主論
 第六章が最重要。世襲君主と市民の連合のために〈政教分離〉を唱えた
 マキアヴェッリの『君主論』は近代政治学の古典として名高い。〈愛されるよりも恐れられよ〉といった警句の詰まった政治術、経営術を学ぶ書として現代でも読み継がれている。しかし、イタリア文学者の原基晶さんは『警句は枝葉末節で、それを味わっていても「君主論」の本質は理解できません』と語る。『16世紀初頭に書かれた「君主論」は、14世紀初頭にダンテが「神曲」で取り組んだ問題を受け継いでいます。どうすれば戦争を終わらせて、平和を実現できるか』
 マキアヴェッリフィレンツェ共和国の外交官だったが、1512年、フランスとスペインがイタリア諸国間の紛争に介入して勃発したイタリア戦争のさなかに失脚し、翌年『君主論』を書き始める。その核心は、第6章から第11章にある、と原さんは指摘する。
 『ダンテが唱えた〈皇帝〉は非現実的だと考えたマキアヴェッリが平和実現のために提案したのは、ある領域を支配する世襲君主による政治権力が市民の支持を受けて、軍事力を独占し、内乱のない安定した国家を樹立することでした。このような政体は今なら〈主権国家〉と呼ばれるでしょう。現代だと当たり前に思われるかもしれませんが、マキアヴェッリの時代には、そうではありませんでした。当時は教皇と大銀行と傭兵を擁する政治権力が結託して、経済力を蓄える一方、政治権力や宗教的権威、軍事力の所在がバラバラで統一されていなかったため、西欧の政治情勢は極めて不安定で、戦争が絶えませんでした。その元凶は教皇です。教皇は絶大な宗教的権威と大銀行と手を組んで築いた経済力を持っていましたが、極めて脆弱な軍事力しか持っていなかった。教皇は西洋の諸国家に支配のお墨付きを与える代わりに軍事力(傭兵)を提供してもらっていました。この歪(いびつ)な権力がイタリアに混乱をもたらしていたのです。そのことを見抜いたマキアヴェッリは、教皇・大銀行・傭兵勢力に対抗できる世襲君主と市民の連合による〈主権国家〉を実現するために何よりもまず教皇勢力を世俗から排除することを唱えました。これが〈政教分離〉です。そのために書かれたのが第6章なんです。第7章から第11章は、〈政教分離〉後の世界で望ましい政体を論じています』
 第6章は、新しい君主国を建てた偉大な先人としてモーゼ、キュロス、ロムルス、テーセウスの名前を挙げられている。
 『この章が「君主論」で最も重要です。当時の歴史認識では、ユダヤ民族を率いてエジプトから脱出させたモーゼの行いは、すべて神の意思によるものだとされ、それゆえにモーゼは正しく、成功したとされていました。この論法で自らの行動を正当化していたのが教皇です。教皇は神の意志を体現しているがゆえに常に正義であり勝利する。ところがマキアヴェッリはkの歴史認識に抗して、モーゼはユダヤ民族の軍事司令官であり〈自己の軍備と力量〉によって新しい国と政治体制を勝ちとった書きました。これは〈革命的〉でした。なぜなら、モーゼの成功と勝利の理由を単に彼が優れた指導者であり、運に恵まれていたからだとしたからです。マキアヴェッリはこうして地上を自由意志を持つ個人が衝突する場所にしたのです』」
   ・   ・   ・   
 大陸の王侯は、軍隊と奴隷を持ち、高い城壁と深く広い濠に守られた宮殿で生活していた。っていた。
   ・   ・   ・   
 中華皇帝は、軍隊と家庭奴隷を持ち、高い城壁と深く広い濠に守られた王宮で生活していた。っていた。
   ・   ・   ・    
 日本天皇は、軍隊も奴隷も持っていなかったし、住まいの御所には濠はなく飛び越え可能な低い塀しかなかった。
   ・   ・   ・   
 大陸の王侯や中華皇帝に求められたは、カリスマとリーダーシップであった。
 日本の天皇に求められたのは、カリスマだけでリーダーシップは必要なかった。
   ・   ・   ・   
 日本の天皇・皇族・皇室を守った尊王派・勤皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、卑しい芸能の民(歌舞伎役者・曲芸師・軽業師ら)、差別された賤民(非人・穢多・河乞食ら)、軽蔑された部落民(山の民・川の民・海の民ら)ら、下層民達であった。
   ・   ・   ・   
 大陸では、他国の人間でも即位できた為に、王朝は変わっても王家は途絶える事なく続いた。イギリス国王はイギリス人ではない。
   ・   ・   ・   
 中華では、200年~300年周期で易姓革命が起き、戦乱で王朝は打倒され、王家と忠臣は虐殺された。
   ・   ・   ・   
 日本天皇が持っていた権威とは「菊の御威光」であって、軍事力を持った政治権力や経済力の宗教権威は持っていなかった。
 天皇の「菊の御威光」は、空気のように掴み所のない虚像であって、破壊できる実像ではなかった。
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 日本では、日本民族の中で特殊な血筋・血統を正統継承とする特別な一家系による世襲万世一系男系天皇・皇室が、途絶える事なく2000年近く守られてきた。
 日本天皇制度は、血筋・血統を正統とする世襲万世一系男系天皇を守る為に女性天皇を即位させても女系を臣下に落として皇室から排除した。
 日本天皇制度における正統性は、特殊な血筋・血統であって、人である事の皇統ではない。
 人としての皇統を正当とするならば、開かれた王家である西洋と同じように、天皇に即位するのは日本民族日本人に限る必要なない。
 つまり、皇統が憲法・法律を正当性とするなら、天皇ローマ皇帝のように、中国人でも、韓国人でも、アメリカ人でも、ユダヤ人でも、それこそアフリカ人でも人であれば即位する資格がある。
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 中華皇帝の忠実な臣下であり下僕であった、朝鮮の歴代国王を世界史レベルで論ずる意味はない。
 何故なら、世界史・大陸史はおろか東アジア史・極東アジア史に主体的に関与した事がないから、存在感さえない。
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🔯11」─1─21万年前にヨーロッパに移住した西洋系白人の祖先。人の幸福とは?~No.35 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 人とは、普遍宗教が言うような、全知全能の絶対神が自分に似せて塵芥を集めて作り命を吹き込んだ「泥人形」ではない。
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 人類の誕生と進化は、当然でもなく必然でもなく、たまたまの偶然と幸運に過ぎない。
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 人類は、アフリカで生まれたアフリカ人である。
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 メギンソン「生き残ることができるのは最も強い者でも最も賢い者でもない。変化に対応できる者だ」
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 2019年7月11日 朝日新聞「21万年前 ギリシャホモ・サピエンス
 アフリカ大陸出た時期 見直しも
 ギリシャで見つかった頭骨(とうこつ)化石が約21万年前のホモ・サピエンスのものだったと、同国やドイツの研究チームが11日、英科学誌ネイチャーで発表する。年代が正しければ、ユーラシア大陸における最古のホモ・サピエンスとなり、初期の現生人類がアフリカ大陸を出た時期の見直しにつながる可能性がある。
 この頭骨は後頭部のみ。ギリシャ南部にあるアピディマ洞窟の調査で、1970年代後半に見つかった。チームが今回、改めて調べると、約21万年前のものとみられ、ネアンデルタール人ではなく現代人に通じる丸みある形などの特徴を持つと考えられた。
 現生人類のホモ・サピエンスは約25万~30万年前にアフリカで誕生後、世界に拡散したと考えられている。アフリカを出てユーラシア大陸に移った時期については、5万~6万年前くらい前との説が有力だが、それに先立つ15万~20万年前にも第一波があったとの見方もある。
 特徴的な顔面部がない頭骨をどう評価するかは簡単ではないが、チームは『従来考えられていたより古い時代に、さらに遠くまで現生人類がアフリカから出ていたことになる』と結論づけている。(米山正寛)」
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 エピクロス
 「自然研究に神話を入れるな」
 「神話だけは遠ざけるべきである」
 「神は人の祈りを聴かない」
 「夢は預言にならない」
 「万物は偶然であつても問題ない。万物は必然だという人は、偶然だという人がいるのも必然になってしまうからだ。第一必然は悪だ」
 「善悪は結果の見通しだ」
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 ネアンデルタール人は、血縁による核家族共同体で生活していた。
 ホモ・サピエンス(現生人類)は、宗教による地域集団共同体で生活していた。
 核家族で生活していたネアンデルタール人は、家族内で子供が生まれなくなって絶滅した。
 ホモ・サピエンスと乱婚し混血化したネアンデルタール人は、宗教的地域集団共同体の中に吸収されて自然消滅した。
 ネアンデルタール人の絶滅は、ホモ・サピエンスに皆殺しにされたわけではなく、共同体における生き方の違いが原因であった。
 ネアンデルタール人にせよ、ホモ・サピエンスにせよ、オス・メスの間には愛もなければ恋もなかった。
 血縁による共同体でも、宗教的地域集団共同体は生き残り、核家族共同体は死滅する。
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 自然環境において生物が子供を産み育てるのは、愛情からではない、ただ単に優秀な子孫を残す為である。
 自然に生きるとは、そういう事である。
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 2019年7月18日号 週刊文春「臆病者のための楽しい人生100年計画
 12 性愛編 結婚と妊娠はなぜ悩ましい?
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 そもそも幸福とは?
 ……
 ここで、『そもそも幸福とは何か?』を問うひとがいるにちがいない。その答えはシンプルにシンプルで、『進化の過程で幸福と感じるようプログラムされたもの』になる。現代の進化論では、喜びや悲しみ、怒りなどの感情はすべて、遺伝子の複製を最大化するための『設計』だと考える。
 愛されることが幸福でなかったり、セックスで快感を感じなかったりする個体は子どもをつくらなくないから、そのような遺伝子は淘汰されて消えていくはずだ。ここまではわかりやすい理屈だが、進化論では現代社会の制度を正当化することはできない。
 『結婚』の制度が成立したのはせいぜい1万年ほど前の農業革命までしか遡れないから、進化とはなんの関係もない。『一夫一妻制』も同じで、すくなくともヒトは、結婚すれば末永く幸せになるように『設計』されていない。
 子どもが生まれれば、母親は強い愛着を、父親もそれなりの愛情を持つようにヒトが『設計』されていることは間違いない。しかし、避妊法のない旧石器時代には、『子どもが欲しい』という欲望を持つ必要はなかった。男と女がセックスしれば自然に子どもは生まれたのだ。
 だがさまざま避妊の手段が登場した現代では、私たちは子どもを産むかどうかを選択しなくてはならなくなった。そのとき、自分のこころに問いかけてもそこに答えはない。なぜなら、そのように『設計』されていないから。
 さらに最近では、子どもを持つリスクを思い知らされるような事件が立て続けに起きている。若い男女がますますどうしたらいいかわからなくなるのも無理はないだろう」
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